第10話 因果応報

文字数 1,411文字

「今日の」
 言葉を切った男は、自分の膝頭のあたりの畳を突き刺すように指を差し、作務衣の袖が鋭く音を立てた。その勢いに私は一瞬体を引いた。

「今日のあなたは」
 今度はその手首を返して肩越しに後ろを強く指差す。
「昨日のあなたが作りました」
 意味は分かるか、と問うような間が空いた。私は恐れだけで小刻みに頷いた。

「明日のあなたは今日のあなたが作ります。今現在のあなたは、過去のあなたが作ったのです。すべての結果には起因となるものが存在するのです」

「私が、妻を殺したと」
「私は責めません。ただ」男が前屈みに顔を寄せてきた。気迫に気圧された私は肩をすぼめた。
「もしもその朝、あなたが──坂上さんでしたね? 奥様が出された朝食を素直に食べてお出かけされていれば」男はギロリと目を剥いた。

「今頃お元気でしょう」
「そう……なんですか」
 こちらをじっと見つめた男は、小さく頷いた。

「よく考えてみてください。ほんのちょっとした狂いが、取り返しのつかない結果を生むのです。もしもですよ──」

 さらに鋭さを増した男の眼光に射竦(いすく)められた私は身を固くした。それはまるで、裁判長が読み上げる判決文を待つ被告人のような気分だった。

「もしも坂上さんが普通に食事をして、いつもの時間にお出かけになったら、奥様がお買い物に家を出る時間だって間違いなく変わったはずです。一分でいいのです。人間は一分間にどれぐらい歩くと思いますか」

 私が答えに(きゅう)するのをあらかじめ承知していたかように、その男は再び頷いた。

「普通の人でも7-80メートルは進むのです。買い物袋を下げた奥様がゆっくり歩いても、60メートル近くは進むでしょう。それを考えればたったの10秒でもよかったのです。だったとするなら、事故に遭うこともなかったはずです」

「はい、それは確かに」
 あの朝の、ビーフシチューに対する私に怒りに、妻が狼狽する光景が目に浮かんだ。

「このままでは坂上さん、あなたの命も危ない」
「え! ど、どういうことですか⁉」

「因果応報です。良いことには良いことが、悪いことには悪いことが、巡り巡って自分の身に降りかかるのです。善因善果(ぜんいんぜんか)悪因悪果(あくいんあっか)です」
「あ、はい」

「風が吹けば桶屋が儲かる。現実世界での因果関係はそのように複雑です。どの善がどこに良い結果をもたらすのかは誰にもわかりません。 しかし、はっきりとわかることがひとつある。あなたはその悪い流れに完全に乗ってしまったということです。結果として、奥様を死に追いやってしまったのですから」

「どうすればいいのですか!」
「お望みとあらば、その流れは私が断ち切って差し上げましょう。これはもって生まれた霊性の上に、さらに厳しい修業を積んだものでなければできないことです。ドミノ倒しの連鎖は、私が止めなければ──坂上さん、あなたの命を奪うまで続きます」



 どこかの部屋からは、集団で唱えるお経のような声が聞こえてくる。徐々に徐々に熱気と熱狂を帯びてきている。
 それはやがて、知っているものへと変わってゆく。

 南無妙法蓮華経…南無妙法蓮華経…南無妙法蓮華経…南無妙法蓮華経…南無妙法蓮華経

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