第26話 銀杏並木へ

文字数 1,532文字

「ずいぶんと久しぶりだな、二人で散歩に出かけるなんて」
 ドアに鍵をかけ、オートロックの自動ドアを抜けてエントランスに出ようとしたとき、こちらに向かってくる磯崎さんが見えた。左手にコンビニの袋をぶら下げている。頭のてっぺんにはバレッタ。夢の中の姿そのままだった。



 妻は頭を下げた。磯崎さんも下げた。私もつられて下げた。おはようございます、と、こんにちは、がすれ違う微妙な時間帯だった。

「あの人でしょ」通りを歩き出してから、妻が重大な秘密でも聞き出すみたいに肩口に顔を寄せた。
「そうそう。でもさ、いったいどんな趣味の集まりなんだろうね」
「やめておいた方が賢明よね」

「怪しい宗教とかかな」
「それは分からないけど。でもさ、趣味なんて複数じゃなければできないものならいざ知らず、人に勧めるものじゃないわよね」
「だよな」

 磯崎さんは私にまったく気を留めなかった。それはそうだ。夢の中の出来事だから。あれでもし、お題目はあげていますか、などと口にされたら、心臓に悪い。

 まてよ……まったく見たことのない人が夢に出てくるなんてあるのか? いや、きっとどこかで見かけていたんだろう。忘れていただけで。

「でもさ、そろそろひそひそ声はやめてもいいんじゃないか」
「そんなあなたもひそひそ声だわ」
 ふたりはクックと笑いあった。幼い子供が、布団の中でくすぐりあって笑うみたいに。

 そうだ、イエス・キリストだったというミシュアの話をしてやろうか。クリスチャンの妻なら喜ぶかもしれない。
 でも、あれらは、ほんとうにイエスの言葉として聖書に載っているのだろうか。

「あのさ、祈り求めるものはすべて、とかいう言葉、知ってる?」
「あらあなた、それってイエス様の言葉ですよ」妻が嬉しそうに目を大きくした。

「マルコによる福音書にでてきます。正確な章と節は覚えてませんけど……へえ、あなたがあの言葉を知っていたなんて」ニマニマと笑っている。



※神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、「立ち上がって、海に飛び込め」と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
 新約聖書「マルコによる福音書」第11章22節~25節

「あれはまさに、引き寄せの法則なんですよ。二千年も前にイエス様が口にしていたんです」
「引き寄せの法則って、お前の本棚にあるやつか? アブラハムがどうとか」
「そうです、そうです。エイブラハムとの対話です」



「お前は何か引き寄せたのか、そのイエス様の言葉で」
「決まってるじゃありませんか」肩をぶつけられた。「あ・な・た」
「なんだいきなり! て、照れるじゃないか……」
 はっ、調子に乗ってしまった。出る。例のやつがぜったい出る。ぎゅっと身構えた。

 あなたがイエス様の言葉をねぇ。妻は上機嫌で空を見たり足元を見たりして歩いている。
「い、言わないの、がふッ」痰が絡んでしまった。咳ばらいをひとつ。

「何をです」
「例の奴だよ」
「れいのやつですか?」
「言わないんだな。ならいいんだ」
「言ってほしいんですか?」恐ろしいほど顔を覗き込まれた。

「いや、言わなくていい」
「おもしろい」
「なにが」
「あなた」
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