第17話 ノアの方舟

文字数 1,427文字

「奥様にはまことに残念ながら、キリスト教が唱える神は、いえ、もっと言えばユダヤ教やイスラム教も含め、すべての宗教と言ってもいいでしょう。神の真の姿とはほど遠いものです。
 神は創造主ではありますが、救い主ではないのです。神はアルファからオメガまで、在りて在るものです。賞賛や崇拝を求めたりはしません。祈りに応じて人を助けたりもしません。バベルの塔の話はご存知ですか?」

「名前ぐらいは」質問に応じて答えてしまった。話を終わらせようとして発した糞くらえも効果がなかったようだ。

創世記(そうせいき)に書かれてます。天に届くほどの塔を造ろうとした人々を不遜(ふそん)とし、その言葉を乱し、互いに相手の言葉を理解できなくなるようにした話です。彼らは各地に散ってゆき、それが世界各国の言語になったとされるものです」



「ノアの方舟(はこぶね)はどうですか?」
「それも、名前ぐらいは」また答えてしまった。

「地上に人の悪が増大したため、創造した人を地の面から消し去ろうとしたものです。すべてのきよい動物と空の鳥の中から雌雄7つがいずつ、その他のすべての動物の中から1つがいずつを方舟に乗せました。この洪水は神話ではなく、実際に起こりました。頭が混乱するでしょうからこれ以上詳しくはお話しませんが、正確には動物そのものではなく、そのDNAでした。おかしなことだとは思いませんか?」

 女は同意を求めているようだが、なにがおかしなことなのだろう。
「よく、わかりません」



「偶像を崇拝したり、バベルの塔を建てようとする人々を、大いなる存在が罰したりするはずがありません」

 女はまくし立てるでもなく、静かに語った。私はただ、理解に苦しむそれらの言葉を、黙って聞いていた。

「しかし、時として」女は確信を込めるかのように、小さく頷いた。
「人を救うことがあります。言葉を換えれば、その法則の一部は願いが叶うように神がプログラムしたのです」

「神がプログラム、した? 人の願いが、叶うように?」
「はい。ですから、神が直接個々人を選別したうえで、願いを叶えたり、手を差し伸べたりしているわけではありません。何度も申し上げますが、神は宇宙に一定の法則を埋め込んだのです」

「意味がよく分かりません」
「坂上さん、私はあなたに会うために、ここに現れました」
「え?」

 この女、なぜ私の名前を知っているのだ。
 往来で立ち止まる二人を避けるように、人々は足早に通り過ぎていく。冷たい師走の風も吹き過ぎていく。

「私としばし地上を離れませんか?」また訳の分からぬことを。それは私を現実に引き戻した。

「何を言ってるんですか。私はこれから仕事で」腕時計を指先で二度叩いた。「無駄話に付き合っている暇なんてないんです。人の不幸や死は宗教の飯の種ですか」強気な言葉を吐くものの、私は目の前の女に気圧(けお)されていた。

「宗教ではありません。真実です。では、時間を止めましょう」女は微笑み、人差し指を天に向けるように立てた。

「時間を気にする必要はありません。しばし、おつきあいください。では、行きます」

 女の声と同時に、私は現実世界とも思えぬ不思議な空間に立っていた。
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