第20話 エロヒム
文字数 1,891文字
「妻が信じたイエスも、救世主ではないと言うのですか」
もちろん、私はそれを信じていたわけではなかったけれど、妻の信仰を尊重はした。
そもそも私は、宗教などに興味を示さない、ごく一般的な日本人だった。この歳になっても、実家が仏教の何宗であるかさえ正確には知らない。しかし、教祖様に会って考えが変わった。人類創造の神エロヒムが、地球を新たなる楽園に変えてくれる。
ただ、日曜のミサに足繁 く通い、妻が敬い愛し求めたイエスが彼女が期待した存在ではなかったことに哀れを感じた。
「救世主などいません。イエスもそうですが、あなた方日本人にはなじみ深いゴータマ・シッダールタ。釈迦とも釈尊ともブッダとも呼びますが──」
「そうです! あの方たちは、エロヒムが遣わしたのです。モーセ、釈迦、イエス・キリスト、ムハンマド、すべてそうです」
そうだ、そうなのだ。だから妻の信心もあながち間違いではないのだ。ただ、創造神エロヒムの偉大さと、人類に向けたそのプランをきちんと理解してはいなかったであろうが。
「エロヒム? 海外に本部があるという集団のことですか? マイトレーヤを名乗る人物がいるという」
「いえ、本部は日本です」平静を装ったが、海外にもあるのかと驚いた。しかし、本物は間違いなく教祖様だ。
「それは勉強不足でした。話を戻しましょう」ミシュアは微笑んだ。
「あの方たちは誰の遣 いでもありません。自ら目覚めた者たちです」
「違います! エロヒムの使者です」
「そこはどうお考えになろうと自由ですが──では、イエス・キリストがユダヤ教の伝統や律法を重視するパリサイ派とことごとく対立したのはなぜでしょう」
「誰もユダヤ教の話などしていません」
「ご存知でしょうが旧約聖書はユダヤ教の聖典です。それにイエス以降のものである新約聖書を加えたものがキリスト教の聖典です。
ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、一神教の元をたどれば同じです。そしてそれは、誤りです。神の使徒や預言者を名乗る者の数だけ本物の神が存在するはずがないからです。いるとすれば、あなた方が宇宙人と呼ぶ者たちです。
イエス・キリストは生まれてから死ぬまでユダヤ教徒でした。ユダヤ教の異端児、それがイエスです。イエス自身も、キリスト教が起こり、それが世界に布教されてゆくとは考えてもみなかったでしょう。活動期間は二年ほどしかないのですから」
どうにも、私程度の知識では歯が立たない相手だ。ここに教祖様がいてくれれば。
「イエス・キリストは神の使者ではなかったというのですか」
「その通りです」
「妻と私は決して意見は合いませんでしたが、私は止めたことはありません。妻が信じたものですから。けれど、妻は間違ったものを信じたんですか?」
慈しみ深き 友なるイエスは罪咎 憂いを取り去り給う
こころの嘆きを 包まず述べて などかは下ろさぬ負える重荷を──
家事の合間に聞こえてきた賛美歌が、耳の奥に蘇る。妻の背中が見える。色の白いほっそりとした手が見える。彼女が信じ、求めたものは嘘だったというのか。胸が痛い。
「いえ、奥様が間違ったものを信じたのではなく、後年付け加えられていったものに原因はあります。イエス自身が間違いを犯したわけでもありません。そもそも彼は、告解 も贖罪 も説いてはいないからです」
「こっかい? しょくざい?……」
「告解はいわゆる懺悔 と言われたりするものです。贖罪とは、イエスが十字架上で死んだことにより、本来罪人であった人間の罪を贖 ったとするものです。
告解にせよ、罪さえ明かせば何も学ばなくとも赦 されるとは、不思議なことだとは思いませんか。贖罪 と言ってみても、自身の罪をいったい誰が贖 えるというのでしょう。
永遠の命は、それらに従わずとも保証されています。
あり得ないことですが、神がその命を閉じれば、きっと我々も消えてしまうでしょうが。
それに、罪などというものはそもそも存在しないのです。ですから、神の命令に背いたとされるアダムとエヴァの原罪 もないのです。
神は何者に対しても命令しません。どんな現象も裁きません。ただそこに存在して、愛を放射するだけです」
もちろん、私はそれを信じていたわけではなかったけれど、妻の信仰を尊重はした。
そもそも私は、宗教などに興味を示さない、ごく一般的な日本人だった。この歳になっても、実家が仏教の何宗であるかさえ正確には知らない。しかし、教祖様に会って考えが変わった。人類創造の神エロヒムが、地球を新たなる楽園に変えてくれる。
ただ、日曜のミサに
「救世主などいません。イエスもそうですが、あなた方日本人にはなじみ深いゴータマ・シッダールタ。釈迦とも釈尊ともブッダとも呼びますが──」
「そうです! あの方たちは、エロヒムが遣わしたのです。モーセ、釈迦、イエス・キリスト、ムハンマド、すべてそうです」
そうだ、そうなのだ。だから妻の信心もあながち間違いではないのだ。ただ、創造神エロヒムの偉大さと、人類に向けたそのプランをきちんと理解してはいなかったであろうが。
「エロヒム? 海外に本部があるという集団のことですか? マイトレーヤを名乗る人物がいるという」
「いえ、本部は日本です」平静を装ったが、海外にもあるのかと驚いた。しかし、本物は間違いなく教祖様だ。
「それは勉強不足でした。話を戻しましょう」ミシュアは微笑んだ。
「あの方たちは誰の
「違います! エロヒムの使者です」
「そこはどうお考えになろうと自由ですが──では、イエス・キリストがユダヤ教の伝統や律法を重視するパリサイ派とことごとく対立したのはなぜでしょう」
「誰もユダヤ教の話などしていません」
「ご存知でしょうが旧約聖書はユダヤ教の聖典です。それにイエス以降のものである新約聖書を加えたものがキリスト教の聖典です。
ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、一神教の元をたどれば同じです。そしてそれは、誤りです。神の使徒や預言者を名乗る者の数だけ本物の神が存在するはずがないからです。いるとすれば、あなた方が宇宙人と呼ぶ者たちです。
イエス・キリストは生まれてから死ぬまでユダヤ教徒でした。ユダヤ教の異端児、それがイエスです。イエス自身も、キリスト教が起こり、それが世界に布教されてゆくとは考えてもみなかったでしょう。活動期間は二年ほどしかないのですから」
どうにも、私程度の知識では歯が立たない相手だ。ここに教祖様がいてくれれば。
「イエス・キリストは神の使者ではなかったというのですか」
「その通りです」
「妻と私は決して意見は合いませんでしたが、私は止めたことはありません。妻が信じたものですから。けれど、妻は間違ったものを信じたんですか?」
慈しみ深き 友なるイエスは
こころの嘆きを 包まず述べて などかは下ろさぬ負える重荷を──
家事の合間に聞こえてきた賛美歌が、耳の奥に蘇る。妻の背中が見える。色の白いほっそりとした手が見える。彼女が信じ、求めたものは嘘だったというのか。胸が痛い。
「いえ、奥様が間違ったものを信じたのではなく、後年付け加えられていったものに原因はあります。イエス自身が間違いを犯したわけでもありません。そもそも彼は、
「こっかい? しょくざい?……」
「告解はいわゆる
告解にせよ、罪さえ明かせば何も学ばなくとも
永遠の命は、それらに従わずとも保証されています。
あり得ないことですが、神がその命を閉じれば、きっと我々も消えてしまうでしょうが。
それに、罪などというものはそもそも存在しないのです。ですから、神の命令に背いたとされるアダムとエヴァの
神は何者に対しても命令しません。どんな現象も裁きません。ただそこに存在して、愛を放射するだけです」