第15話 ゴゥドッ

文字数 1,871文字

「あなたはゴゥドッを信じますか」
 吉野屋で牛丼を食べて会社に戻る途中、栗毛の外国人女性に問いかけられた。瞳孔の周りの虹彩(こうさい)が青みを帯びて、吸い込まれてしまいそうな目をしていた。

 アタマの大盛り牛丼に生卵、それが今日の昼食だった。
 運ばれてきた牛丼に七味唐辛子を振りかけ、隣の人がびっくりするぐらいの紅ショウガを乗せて、牛丼の五分の二ぐらいを口にする。それから、温存しておいたお醤油で溶いた生卵を投入して、かき回して箸でかき込む。




 せっかくの卵飯が美味しく味わえないから、つゆだくはご法度である。学生だった頃を思い出してしまう味だった。

 生卵をたくさん入れた牛丼は究極にうまいというのをだいぶ以前に聞いたことがあるが、やってみたことはない。コレステロールをそれほど気にしなくてもよかった若い頃に食べておくべきだった。

 いや、卵のコレステロールは気にしなくてもよくなったんだっけな。板東英二大喜びだな。でも、過剰摂取は好ましくないんだろうな。
 ん? 板東英二ってなにやってるんだろう?

 そんな他愛もないことを考えながら食べた。そうでもしないと妻の作ってくれた朝食を思ってしまうから。

 女は魅惑の瞳でじっとみつめたままだ。
「それって何ですか」立ち止まるのみならず、質問までしてしまった。男はやっぱり美人に弱い。

語弊(ごへい)を恐れず申し上げるなら、神です。すべての源となった大いなる存在です。それを信じますか」
 ああ、ゴッドと言ったのか。これは多分、米語ではなく英語の発音なのだな。それに語弊なんて言葉を操るとはたいしたものだ。

 持ち手の付いていない黒い書類入れのようなものを胸に抱き、黒いミモレ丈のワンピースには白い襟。これで頭にシスターヴェールを乗せたら修道女に見えるだろう女は、微笑みながら髪を揺らした。

「もちろんです!」勢いよく口にしたら小さいげっぷが出た。それは紅ショウガの匂いがした。

 妻がいなくなってから朝食はしなくなった。というか、できなくなったというべきだろう。そのせいで昼間にしっかり食べることになった。そして案の定、眠くなる。

「それは何よりです。ところで、あなたの信じる神はどのようなものですか」
「どのようなものも何も……神は神です」
「あなたはクリスチャンですか?」まっすぐな視線を向けてきた。

「妻はそうでした。私は違いますが」
「クリスチャンではないとすると、あなたが信じているのは聖書の神ではないのですね」




「聖書の神であるかどうかは分かりません。まだ勉強中ですから。でも、人類を創造した神です」
「ならば、聖書の神ですね」
「そうなんですか?」
「ええ。聖書の神は人類創造の神です」
「だったら、それでいいんじゃないんですか」
「あなたは真実の神を知りません」
「知っています」いささかムッとした。

「ならばあなたは、因果の法則を知っていますか?」私が質問するとちょっと困惑したような表情を浮かべた。

「すべての原因は、はっきりとした結果を生むのです。すべての結果には、原因があるのです。結果として妻を殺したのは私です。あ……妻は交通事故で亡くなりました」ふぅっと息を吐く。女は痛ましそうに眉を曲げて頷いた。

「では訊きますが、あなたが言う神とは何ですか」

「大いなる存在はエネルギーです。ヴァイブレーションです。愛の波動です」女は微笑んだ。

 愛の波動?
 かつて、最高ですか! 幸せですか! とかなんとか問いかける、詐欺男を教祖とする妙にテンションの高い人たちに出会ったことはあるが、これまた胡散(うさん)臭い奴に捕まったものだ。

「それで何か、救われるのですか?」
 ヴァイブレーションだの愛だの、脳天気なことを口にする女に、私は少し興味を持った。教祖様の話でやり込めてやろうかとも考えた。

「真実を分かれば、きっと魂が救われます」
「真実って──本当に分かってるんですか。聖書の神だかなんだかはよく分からないけど、人類を作ったのは誰だか、あなたは知っていますか?」
 さらりと髪を揺らして首を傾げた女は口を開いた。
「あなたは、知っているということですか」

「エロヒムです」
「なるほど」女は頷いた。私の言葉に驚き、二の句が継げないはずだ。
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