第22話 朝に不似合いな食べ物

文字数 1,445文字

 睡眠と覚醒の波打ち際を、(しき)りと香りが寄せては返す。

 ハヤシライス……

 掛布団から鼻先を上げてそれを嗅ぐ。眠気に勝てず再び枕に顔を埋めた私の鼻腔(びくう)に、それでもやはり、香りが残る。

 違う。これはハヤシライスじゃなくてカレーだ。
 そうか、カレーだったか。納得して眠りに戻ろうとした私に疑問がわいた。ハヤシライスとカレーって、香りは似て……ないんじゃないのか?

 それにそもそも、カレーの香りなどするはずがないじゃないかと。

 ぼんやりとする私の頭は、枕の上で夢の中を漂い始めた。
 夢の中で私は、目覚め始めていた。

 出勤の身支度を整えた私は、ダイニングテーブルに腰を下ろし、朝の食卓に似つかわしくないそれを、じっと見つめていたのだ。

 頭がもやもやとする。思い出せそうで思い出せない。のど元まで出かかっているのにその名前がついぞ出ない。そんなもどかしい感じに襲われていた。これはやはり歳のせいなのだろうか。

 しかし、なぜ朝にビーフシチューなのだろう? 私はそれをなおも見つめた。



 

……

 なんだっけ?

 ああ、そうだった。昨夜の夕食に私がリクエストしたビーフシチューだった。同僚と酒を飲みに行ってそれを食べなかったのだ。
 それなら今夜の夕食に回せばいいものを、なぜ朝なんだろう?

 

……

 今日を最後? 頭に浮かんだ言葉を反芻(はんすう)した。これなんだったっけ……

 私はフォークを手に取った。今日を最後?……

 頭に去来する色んなことを手探りながら、噛み締めながら、私はそれを食べた。美味しい。申し分ない味だ。
 朝の出がけの突然のリクエストにもかかわらず、夕食にここまでの味に仕上げるとはやはり並の腕ではない。しかし、今は朝。私はフォークを置き妻に声をかけた。

「優子、悪いな。美味しかったけど、朝からこれはちょっと食べきれないかな」
「いえ、こっちこそ。絵里から電話があったりしたものだから」エプロンで手を拭いながら妻が現れた。

「絵里から? どうせまた、夫婦げんかの愚痴かなんかだろう?」
「それが」妻は意味ありげに微笑んだ。

 

……

「まだはっきりしないけど、妊娠したかもって」妻は自分のお腹をぐるぐると撫でた。

「本当か!」立ち上がった途端、椅子がびっくりするぐらいの音を立てた。これが妊娠なら初孫になる。
「いえいえ、はっきりしないんですよ。妊娠検査薬が微妙だって。だから、明日にでも病院に行くそうです」

「そうか。で、なんで今日じゃないんだ」座りなおした私はコーヒーを口に運んだ。興奮で心なしか手が震えた。

「ビーフシチューに日本茶は変だと思って、コーヒーにしました」
「うん大丈夫だ。いい味に()れてある」
「豆を()く時間もなくて、インスタントですけど」妻はにゅっと笑った。
 インスタントか。私は少し恥ずかしさを覚えた。まるで腕の悪いソムリエみたいだ。

「嘘です。ちゃんと()れました」
「お前のそれ、治らないな。言わないと気がすまない」

「治らないって、病気にしないでください。それに絵里は、今日はお友達と食事会ですって」

 これはあたしのお昼ご飯。妻はそう言いながら、私の食べ残したビーフシチューを台所に運んで行った。
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