第28話 ラビリンス 吹き過ぎた風

文字数 1,361文字

 見つめた妻の姿はガラスに描かれた薄い絵のように、その存在をクリアにしつつあった。それは廃墟に立つ教会の、儚げなステンドグラスのようにも見えた。



 夢ではなかった。幻ではなかった。あれは、妻の死は、現実だったのだ。上腕から二の腕、肩から首筋、脇腹から背中、悪寒が上半身を這い回った。

 ミシュア、ミシュア、約束が違う!

 妻の二の腕をつかんだ。
「いなくなるのか? またいなくなるのか!? なあ、なあ、優子嘘だろ。嘘ですって、いつものように言ってくれよ」
「いますよ」妻は優しく私の手の甲を叩いた。

「もう、いないじゃないか!」指の間から乾いた砂が(こぼ)れ落ちるように、つかんだはずの腕は無残にも空を切る。
「います。いつもいます」

「もう、つかめない! 見えない! 行くな! 行っちゃダメだ!」
「ちょっとお別れが早かったけど」妻の涙声が聞こえた。
「復活が許されるのはイエス様だけですよ。あ、そうだわ、手袋とマフラーは天袋のクリアボックスの中にあります。くれぐれも風邪をひかないでください。さ、行きましょう。黄色く色づいた銀杏を見に」

「行くな! な! 頼むから行くな! 俺をひとりにしないでくれ」
「大丈夫よあなた、わたしはどこにも行きません。あなたが呼べばわたしはいつでもそばに来ます。光よりも速く、あなたの元へ飛んできます。今だからわかります。あなたとわたしは、ずっとずっと一緒でした。前世もそのまた前世も」
「行くな! ダメだ!」

「あなた、来年は孫も生まれますよ」

「そんなものいらない!」
「そんなこと言ったら絵里が悲しみますよ。さあ、行きましょうよ。まだ若かったあなたが、しどろもどろになりながらプロポーズをしてくれたあの場所に」
「ダメだダメだダメだ、行くな……優子。これからは何でもするから、行かないでくれ……」

 私の指先にも、視線の先にも、もう何も、存在しなかった。
 ぼやけた視界が映し出すものは、涙の水面(みなも)に揺れる、妻のいない空虚な場所だった。

「ありがとう。そしてあなた、時々はふたりで過ごした時間を思い出してください。私はあなたを忘れません。あなたの今の涙も」
 妻の、穏やかな声だけが耳朶(じだ)に残った。

『一部はきっと叶うでしょう』
 ミシュアは言った。

 そう、一部は叶った。私は妻にお詫びがしたかったのだ。一番先にお詫びがしたかったのだ。そして、いつまでも愛していると、伝えたかったのだ。
 今となればそれが、すべてだったのかもしれない。

 ひとり立つ駅前の広場を、ダウンジャケットの襟を殴るように一陣の風が吹き過ぎた。
 そして、()いだ空間を、柔らかな風がためらいがちに吹いた。

 それはあたかも、妻がその細い指で、乱れた私の髪を()いてくれたようにも思えた。
 若かりしあの頃のように。



 ありがとう、優子。頬が唇が震えて上手くいかなかったけれど、私は空に向けて思い切り笑顔を作ってみた。そして、言いそびれた言葉たちを呟き続けた。

 ─fin─
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