第23話 磯崎さん
文字数 1,597文字
「自分の妊娠と友達との約束と、どっちが大事なんだ、まったく」くたびれた鞄を手に取った私は、ため息をついた。
「それは約束が大事でしょう。だって何人も集まるらしいから」冷蔵庫の扉に手を掛けた妻が視線を向けた。
「そんなもんか? だって妊娠だろ」
「別に具合が悪いわけでもないんだし、明らかに妊娠だと分かったわけでもないし」
「まあ、それはそうだけどさ」
娘の妊娠と聞いて、私など仕事が手に付かなくなりそうな勢いなのに、命を産み落とす女だからなのか、なんと淡々とした受け答えだろう。
それは別にしても、喉元まで出かかっているのに、それが思い出せない。そんなもどかしさは続いている。
妻の髪を見た瞬間、モヤがかかっていた顔と、謎の言葉の一部を思い出していた。
そうだ、磯崎さんだ。
「302号室だったかなぁ、磯崎さんって知ってる?」
「302号の磯崎さん?」妻は首を傾げた。
「冷蔵庫閉めたら」あ、こもった音をさせて扉が閉まった。
「40代ぐらいの、頭のてっぺんにバカでかいバレッタをしてる女の人」
「あぁ、小太りの?」立ち上がった妻は、両腕を曲げて脇でOの字を作った。おまけに頬っぺたも膨らませている。
「そこまで太ってはいなかったと思うけど、たぶんそう」
ついでに頭の上でガシガシと指を開いたり閉じたりしている。確かに、挟まれたら痛そうなバレッタだった。
「そうそう、そんなバレッタ」
「そう言えば一度、趣味の集まりがあるとかなんとか、誘われた人かしらね。お断りしたけど。その人が何か?」
あの人、実在するんだ。
「いや、ならいいんだ」右手を振った。
「でも、頭の上にベレッタって変わった人よね。最初見たときカーラー巻きっぱなしなのかと思っちゃった。ところであなた、今夜は何にしますか」
「なんでもいいさ」
「じゃあ、カレーにしましょう。今日はガーリックとカイエンペッパー多めがいいかしらね、寒いから」
「それはいいね」
十数種のスパイスはブレンドして瓶に寝かせてある。私の希望に応じてカイエンペッパーやガーリック、クミン、コリアンダー、ターメリックなどの量を調節してくれる。市販のルウに頼らないカレーは絶品だ。
「で、何時ごろ出かける予定だ」
夢ははっきりとした形を見せてきた。その夢の中で、妻は死んだのだ。
そのせいだろうか、そうですねぇ、と、壁掛け時計を見上げた妻の横顔を、愛おしいと感じた。
「いつも2時頃ですね。でも今日はカレーだからお昼ぐらいにしましょうかね。ちょっと寝かせたぐらいが美味しいし」
「じゃあ、今日は午前中にすませなさい。それがだめなら、いつも通り2時にしなさい。これは絶対だ。絶対だからな。帰ってきたらレシートで確認するから」
夢で妻の死亡が確認された時間は、午後の1時半過ぎ。
「あらあら、おかしな要求だこと」
「絶対だからな。あ、そうだ、電話も入れるからな」私は右手の人差し指を、指差し点検をする駅員さんよりも、しつこく振った。
「はいはい、わかりました。ラブコールお待ちしてます」
再び壁掛け時計を見上げた妻は、記憶に刻み込ませるように、午前中か2時ね、と呟いた。こんな意味不明な要求も素直に実行しようとしてくれている。頭が下がる。
「うん、そうしてくれ。いつもありがとう」
「あら!」
「うん?」妻が指さした後方を、私は振り返った。
「雪が舞ってます」
「えぇ!」ベランダに向かって二、三歩歩み寄った。
「嘘です」
「それは約束が大事でしょう。だって何人も集まるらしいから」冷蔵庫の扉に手を掛けた妻が視線を向けた。
「そんなもんか? だって妊娠だろ」
「別に具合が悪いわけでもないんだし、明らかに妊娠だと分かったわけでもないし」
「まあ、それはそうだけどさ」
娘の妊娠と聞いて、私など仕事が手に付かなくなりそうな勢いなのに、命を産み落とす女だからなのか、なんと淡々とした受け答えだろう。
それは別にしても、喉元まで出かかっているのに、それが思い出せない。そんなもどかしさは続いている。
妻の髪を見た瞬間、モヤがかかっていた顔と、謎の言葉の一部を思い出していた。
そうだ、磯崎さんだ。
「302号室だったかなぁ、磯崎さんって知ってる?」
「302号の磯崎さん?」妻は首を傾げた。
「冷蔵庫閉めたら」あ、こもった音をさせて扉が閉まった。
「40代ぐらいの、頭のてっぺんにバカでかいバレッタをしてる女の人」
「あぁ、小太りの?」立ち上がった妻は、両腕を曲げて脇でOの字を作った。おまけに頬っぺたも膨らませている。
「そこまで太ってはいなかったと思うけど、たぶんそう」
ついでに頭の上でガシガシと指を開いたり閉じたりしている。確かに、挟まれたら痛そうなバレッタだった。
「そうそう、そんなバレッタ」
「そう言えば一度、趣味の集まりがあるとかなんとか、誘われた人かしらね。お断りしたけど。その人が何か?」
あの人、実在するんだ。
「いや、ならいいんだ」右手を振った。
「でも、頭の上にベレッタって変わった人よね。最初見たときカーラー巻きっぱなしなのかと思っちゃった。ところであなた、今夜は何にしますか」
「なんでもいいさ」
「じゃあ、カレーにしましょう。今日はガーリックとカイエンペッパー多めがいいかしらね、寒いから」
今日を最後と思って
、日々を大事に生きてください
。「それはいいね」
十数種のスパイスはブレンドして瓶に寝かせてある。私の希望に応じてカイエンペッパーやガーリック、クミン、コリアンダー、ターメリックなどの量を調節してくれる。市販のルウに頼らないカレーは絶品だ。
「で、何時ごろ出かける予定だ」
夢ははっきりとした形を見せてきた。その夢の中で、妻は死んだのだ。
そのせいだろうか、そうですねぇ、と、壁掛け時計を見上げた妻の横顔を、愛おしいと感じた。
利他の心で生きてください
。「いつも2時頃ですね。でも今日はカレーだからお昼ぐらいにしましょうかね。ちょっと寝かせたぐらいが美味しいし」
「じゃあ、今日は午前中にすませなさい。それがだめなら、いつも通り2時にしなさい。これは絶対だ。絶対だからな。帰ってきたらレシートで確認するから」
夢で妻の死亡が確認された時間は、午後の1時半過ぎ。
「あらあら、おかしな要求だこと」
「絶対だからな。あ、そうだ、電話も入れるからな」私は右手の人差し指を、指差し点検をする駅員さんよりも、しつこく振った。
「はいはい、わかりました。ラブコールお待ちしてます」
再び壁掛け時計を見上げた妻は、記憶に刻み込ませるように、午前中か2時ね、と呟いた。こんな意味不明な要求も素直に実行しようとしてくれている。頭が下がる。
「うん、そうしてくれ。いつもありがとう」
「あら!」
「うん?」妻が指さした後方を、私は振り返った。
「雪が舞ってます」
「えぇ!」ベランダに向かって二、三歩歩み寄った。
「嘘です」