ドーナツ記念日 (銀河鉄道の夜)

文字数 1,496文字

おれは執筆の手をとめて、まどの外に目をやった。つかれた目をやすめるために、とおい夜空を見つめる。
月のきれいな夜だ。部屋があかるいので星はよく見えない。
机に目をもどすと、夜食の皿が目に入った。
いちごチョコのかかったピンク色のドーナツを見ながら、思わず苦笑する。
「こんな時間にドーナツって……」
三十すぎて夜にこんなカロリーの塊を食べたりしたら、バチが当たるんじゃないだろうか。
おもむろにドーナツをつまみあげて、一口かじった。さくっとくずれる食感と、いちごチョコの甘ずっぱさ、生地のバターの風味が口中に広がる。ドーナツがこんなにおいしいものだったということに、あらためて驚きを感じた。
ドーナツといえば、子どものころに見たあの夢のことを思いださずにはいられない。

おれとあいつは幼馴染で小さいころはいつもいっしょだったけど、成長するにつれてあいつとの距離はみるみる広がっていった。
あいつは人気者で、いつもみんなの輪の中心にいた。それに対しておれは、その輪に入ることすらできずに、ひとりで本を読んでいるような子どもだった。そんなおれのことをあいつが気遣ってくれているのはわかってたけど、その輪の中へ入っていくことはおれにはできなかった。
だけどその夢の中では、おれとあいつはいっしょに旅をしたのだ。ふたりで、星空を走り抜ける汽車にのって。
途中停車した駅で、おれたちはなぜかドーナツを買った。それは銀河ステーションに入っている有名な店のストロベリードーナツだった。
おれは夢の中でも抜けていて、せっかく並んで買ったドーナツを落としてしまった。ドーナツはころころ転がって天の川に落ちて、あっというまに流れていって見えなくなった。
がっかりしているおれを見て、あいつはすぐに自分のドーナツを半分に割ってわけてくれた。
あいつは優しかった。おれにだけじゃなくて、みんなに優しかった。
おれがそんな夢を見ているあいだに、川でおぼれた同級生を助けて、自分がおぼれてしまうくらい、本当に優しかった。

ノックの音がして、はっと現実にひきもどされた。
「どう? 執筆はかどってる?」
ドアのすき間から恋人が顔をのぞかせる。
「まあ、ぼちぼち。きょうはこのくらいで終わりにしようかな」
「そっか。じゃあ、寝室に行こうか」
彼は熱をおびた目でおれを見ながら、おれの肩に指をはわせた。
「おまえはなんでいつもそう性急なんだ!」
「だって今日はドーナツ記念日なんだよ? ほんとはもっと思う存分いちゃいちゃしたかったのに、こんなに待たせてひどいよ」
「ほんとに変わったな、おまえ。昔はもっと自分をおさえて、人のことばかり気にするやつだったのに」
「だから、あの日ぼくは生まれかわったんだよ。君にいのちを救われたあの日にね。これからはもっと自分を大切にして、幸せを求めて生きていこうって思ったんだ。つまり、君とぼくとの幸せをね」
そう言いながらおれに抱きついてキスをしようとする。
「待てって! 歯くらいみがかせろよ。それに何度も言ってるだろ。あれは偶然!」
「いいや! あれはたしかに君のドーナツだったよ。君が天の川に流したストロベリードーナツ!」
あの日。
川でおぼれたこいつは、上流から流れてきた浮き輪にしがみついて、九死に一生をえた。
その浮き輪は、おれが夢の中で落としたのにそっくりな、ピンク色のドーナツをかたどったものだった。
さらにふしぎなことに、混濁する意識の中で、こいつはおれが見たのとおなじ夢を見たのだと言う。
「今日は二十回目のドーナツ記念日だよ。今夜は眠らせないから覚悟してね」
ついに抵抗をふうじこめられて、ドーナツの味がするであろうくちびるをふさがれた。

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