人魚の王子様 (人魚姫)

文字数 8,219文字

深い海の底に、人魚の国がある。わずかな光がようやく届く、青の世界だ。
美しくて、静かで、平和で……。

「退屈だ」というのが、カイ王子の口癖だった。
海のように青い瞳に、月の光のような銀色の髪をしている。しなやかで強いからだに、エネルギーをもてあましている。仲間の人魚は髪を腰まで伸ばした者が多いが、カイは無造作にナイフで切っていた。柄と鞘に模様が刻まれた美しいナイフで、カイはとても気に入っていた。人間の国で作られたもので、海底に沈んでいた箱から見つけた。
人魚の国はごく小さな国だ。身分の差などもあまり気にしない。だからカイは王子といっても、家来にかしずかれるということもなく、言動にもまったく王子らしさはない。住んでいるのは、不思議な形をした岩の柱に囲まれた、簡素な城である。

「いいか、くれぐれも人間に見つかるんじゃないぞ」
兄のハンスが釘をさす。
カイと同じ色の髪と瞳を持ち、顔立ちもよく似ているが、髪は長く、六歳年上で落ち着きがあり、雰囲気はまるでちがった。
「うるせえな、何度も言わなくてもわかってるよ!」
カイは兄が苦手だ。
幼いころから品行方正で、しきたりを守って暮らすことになんの疑問も抵抗もない。人間にも興味をしめさず、人魚の国が一番と信じきっている。きっと母親の腹の中に若さを置き忘れて生まれたんだろう、自分がその分、二倍もらったんだと、カイは思っている。

カイは十五歳になり、海の上に行くことを初めて許されたところだった。
幼い頃から祖母がよく話してくれる、人間の世界。上の世界には水がなく、泳ぐことができない。だから人間は、しっぽの代わりに足が生えていて、歩くのだそうだ。まるでエビやカニみたいだけど、人間の足は二本しかない。前に、海の底に沈んでいる大理石の像を見たことがあるので、姿形だけは知っていた。美しい少年の像だったが、少し悲しそうな顔をしていたのをよく覚えている。それから人間は、石を積んで家や城をつくり、畑で麦や野菜を育てる。四つ足のけものが野を駆け回り、鳥が空を飛んでいる。早く自分の目で確かめたかった。
カイは祖母のことは大好きだ。好奇心旺盛で、若いころはずいぶん危険な冒険もしたらしい。自分は祖母に似たんだと思う。カイの祖母は、川をのぼって人間の国の中まで入っていき、町や村の様子を間近に見ていたので、人間の生活をよく知っていた。数年前に、女王の位を娘にゆずり、悠々自適に暮らしている。
現女王であるカイの母は、美しく、厳格なところは兄と同じだが、迫力は百倍くらいあってとても怖い。父親は、カイがまだ幼いころに亡くなっていた。

「行ってきます」
家族にそっけない挨拶をすると、カイは見送りを拒んでひとり出発した。首にさげた袋には、宝物のナイフが入っている。海の上を目指して浮き上がっていったが、とちゅうで方向を変え、集落の外れにある、イソギンチャクの園へと入っていった。
「よお、じいさん。約束の薬、もらいに来たぞ」
じいさんと呼ばれた老魔法使いは、イソギンチャクの園の真ん中にある洞窟に、ひとりで暮らしている。灰色の長い髪と髭の中に、鋭い目が光っている。変わり者だが、カイはこの老人と話すのがおもしろく、よく遊びに来る。本当は、ベアンハートという立派な名前があるのだが、カイは名前で呼んだことはなかった。たぶん覚えてすらいないのだろう。
べアンハートは、水の中でも燃える魔法の火に、大きな鍋をかけて何やらグツグツ煮込んでいたところだったが、カイの姿を見てため息をついた。
「だめだと言ったはずだ。あの薬は危険なんだ」
「じゃあなんで作ってるんだよ。自分だって興味本位でやばい薬作ってるんだろ? ばあちゃんにばらしてもいいのか?」
ベアンハートは若い頃からカイの祖母にあこがれており、ほとんど崇拝していると言ってもよかった。カイはそのことに気づいていて、それを利用した。
「老人を脅迫しおって! あの人の孫じゃなかったら、舌を切り取って口がきけんようにしてやるところだ!」
ベアンハートはぶつくさ言いながらも、岩でしつらえた棚のところへカイを連れていった。棚には小さな瓶が並んでいて、その中には白い光を放つ液体が入っている。べアンハートは瓶をひとつ手にとってカイに渡した。
「これを人魚が飲めば人間に、人間が飲めば人魚になることができる。ただし、効果は一日だけだ。元の姿に戻る前に、必ず帰ってこいよ」
「ひとつだけ? ケチケチしないで、いくつかくれよ」
「それだけはだめだ! なにしろ薬の効果がきれる前にもうひと瓶飲むと、二度と元に戻れなくなるんだからな」
その時、火にかけていた鍋が大きな音をたてて爆発した。ベアンハートがあわてて鍋のところへ行っているすきに、カイは棚から薬瓶をもう一つくすね、ふたつとも袋にしまった。とりあえずひと瓶飲んでみて、人間の暮らしが気に入ったら、そのまま人間になってもいいなと思ったからだ。そして何も言わずに立ち去った。

カイは生まれて初めて、海の上に顔を出した。
空には、いつも水を通してぼやけていた月がくっきりと見え、星も光っている。波が月の光を映してきらきらと揺れ、頬に風があたって、潮の匂いがした。
波の進む方へ向かえば、人間の国があるのだ。
しかししばらく泳ぐと、陸地を見る前に、鯨のように大きな船が浮かんでいるのを見つけた。時々水面を横切る黒い影が、船という人間の乗り物であることは、祖母に聞いて知っていたし、海底に沈んだ古い船も見たことがある。さっそく人間の姿を見れそうだと、カイは船に近づいていった。
船にはたくさんの灯りがついていて、にぎやかな話し声や音楽が聞こえた。水面の近くには丸い窓があり、中をのぞくことができた。着飾った人間の男や女が、楽しそうにおしゃべりをしている中に、ひときわ目をひく黒髪の少年がいた。カイと同い年くらいに見えたが、仕草には気品があり、濡れたように黒い瞳を優しく細めて笑う。カイはその少年から目が離せなくなり、陸地を目指すことなどすっかり忘れてしまった。

どのくらいそうしていたのだろう。
気づいたときには、風はだいぶ強くなっていて、すぐに雨が降ってきた。空は真っ黒で月も星も見えない。風と雨は急激に強くなり、目を開けているのも難しいくらいになった。船はしばらく波に激しく揺られていたが、やがて何かが割れる大きな音がして、ゆっくりと傾いていった。
人々は小舟で脱出しようとしていた。持ちこたえて浮かんでいるのもあったが、沈んでしまうのもあった。大小さまざまの木片がたくさん浮かんでいて、カイはそれを避けながら、黒髪の少年を探していた。といっても真っ暗で、手の届くくらいの範囲しか見えない。雷光が辺りを照らしたほんの一瞬、波間に浮き沈みしている彼の姿が見えたように思って、その辺りまで泳いだ。その人間は、気を失っているようだった。抱きかかえて顔を見ると、間違いなく彼だ。カイは彼を抱えてその場を離れた。

嵐は来たときと同じように、急に静まった。雲も晴れて、また月が姿を現したが、だいぶ低いところに動いていた。カイは少年を陸まで送り届けるつもりで、波の進む方向へ泳いでいた。腕に抱いた体は、海で暮らす自分のそれとは違い、細くていかにも頼りない。おれが守ってやらなきゃ――初めて感じる気持ちだった。
月の光の下で改めて彼の顔を見ると、目を閉じたその顔は、船で見たときよりもあどけない。この瞳がひらいて自分を見つめるところを想像すると、胸が甘くうずいた。そしてふと思い出した。
あの薬を人間が飲めば、人魚になるのだ。このきれいな少年が人魚になって、右も左もわからない海の世界で、自分を頼ってついてきたら、どんなに楽しいだろう。その考えに夢中になった。
遠くに陸地が見えてきた。黒かった空が青に近づいて、夜が終わろうとしていた。陸地の海岸は入り江になっている。カモメが飛びまわる影が見え、騒々しい高い鳴き声が聞こえていた。入り江の手前に、岩でできた小さな島がある。その平らになっているところに少年を横たえて、服を脱がせた。そして袋から薬の瓶をひとつ取り出して中身を口に含み、口移しで飲ませた。少年の脚は、腰のあたりからだんだん人魚の尾に変わっていった。

すっかり人魚の姿に変わった少年を、カイはほれぼれと見つめ、その尾を水につけて、目を覚ますのを待った。まもなく陸地の丘の上のほうの空がうっすらと白んできて、日の光がさした。まぶしそうに少し顔をしかめて、とうとう少年が目を開け、あの黒い瞳でカイを見た。
いざ目が合うと、カイは何も言えなかった。少年は視線をさまよわせて、ここがどこなのか確認しようとしているようだった。
「ここは……? どうして海の上に? きみは誰?」
「船が嵐にあったんだよ。おれが溺れているおまえを助けて、この島に運んだんだ」
「そうだ。急に嵐になって、ボートも沈んでしまって……。きみが助けてくれたんだね。ありがとう」
笑顔を見せて感謝してくれたので、カイは嬉しかったが、照れて黙っていた。
少年は何かに気付いたように自分の体を見て、ショックをうけたような顔でカイの顔と、それから尾に目をやった。
「どういうこと? ぼくの体はどうなってしまったの?」
「……おれが見つけたとき、おまえは息をしてなかったんだ。だから魔法の薬を飲ませて、人魚として生き返らせたんだよ」
うしろめたい嘘だったが、元いた場所をあきらめさせるために、そう言った方がいいと思った。少年は黙り込んでうつむいてしまった。
人間は、人魚を想像上の生き物だと思っているという。それが目覚めたら人魚になっていたなんて、しかも人間としての命を失ってしまったなんて、どれほど辛いだろう。ようやくそこまで思いがいたって、さすがにかわいそうになったが、今さら本当のことは言い出しにくく、何より彼を手放すのは嫌だったので、黙っていることにした。
「信じられない。こんなことが、本当にあるなんて。いったい、これからどうしたらいいんだろう?」
「心配しなくていいよ。おれといっしょに来ればいいんだ」
カイは慰めるように優しく言った。

「名前はなんていうの? おれはカイっていうんだけど……」
「クラウス」
陸地を望む島の上に、ふたりは並んで座っている。
「あの丘の上に城が見えるだろう? あそこに住んでたんだよ」
逆光で、陸地は暗いシルエットになっていて、はっきりとは見えなかった。
「城に? 王子様だったの?」
どうりで気品があるはずだ。カイは自分もそうだとは、とても言えなかった
「そうだよ。きのうはぼくの十六歳の誕生日を祝う船上パーティーだったんだ。それがこんなことになっちゃって……」
クラウスが尾を動かすと、水がはねて光った。
「十六? 細っこいから、年下かと思ったのに。おれは十五だ。おれも昨日が誕生日だったんだ」
カイは残念そうに言った。

クラウスは、青い海の中をゆうゆうと横切る巨大な生き物に目を見張っていた。
人間の世界を早く忘れさせたい、そのために特別な、びっくりするような景色を、たくさん見せてやろう。そう思ってまず、鯨が見られそうな海域に連れてきたのだ。思ったとおり、クラウスの反応はカイを満足させた。
「襲われない?」
怖がって身を寄せてくるのを、カイは秘かに喜んだ。
「大丈夫だよ。鯨は人魚も人間も食べないから。こいつらは小さいエビを食べるんだ」
「鯨って、初めて見たよ。こんなに大きいんだ。海の中は本当にすごいところだね」
黒い瞳を輝かせて鯨に見いっている横顔を、カイはチラチラと盗み見た。元気そうなことに安心し、隣にいてくれる喜びに胸がふるえた。
鯨が浮かび上がってゆく。ふたりはその後を追って水面から顔を出した。鯨が体を反らせ、空中に舞い上がる。着水した時、大量の水しぶきがふたりの頭上からふりそそいで、声をあげて笑った。

つぎは北へ向かった。だんだん水が冷たくなってくる。氷の山が、水面から差す青い光に照らされて、海の中へ逆さまに突きだしているのが見えた。幻想的な光景だった。水の上では、氷の山ははっきりと白く輝き、その後ろに青い空がどこまでも広がっていた。
だがクラウスは、「きれいだね」と言ったきりじっとしていた。
「どうした? 元気ないな」
「じつは、ちょっと寒いんだ……」
カイは平気だったが、人魚になりたてのクラウスにはきつかったようだ。
「そういうのは早く言えよ!」
「ごめん。氷山、見たかったから……」
カイはあわててクラウスを抱きかかえ、急いで泳いで帰った。
水が温かくなってきて、クラウスが「もう大丈夫」と言って腕から離れた時、カイはもう少しこうしていたかったと思った。

それから、ずっと昔に海底に沈んだ大理石の神殿や、カイですら驚くような奇妙な形の深海生物を見たり、イルカの群れと競争したりした。
もう一度町が見たい、とクラウスが言ったとき、カイは少なからずがっかりした。クラウスは楽しそうに見えたし、海のこともカイのことも気に入って、そろそろ人間の国のことなど忘れてくれたのではないかと思っていたからだ。でもクラウスの望みは全て叶えてあげたかったので、それを表には出さず、朝いた島まで連れていった。
陸地は夕日を浴びて、金色に輝いていた。クラウスは何も言わずにそれをぼんやり眺めている。
「……城に戻りたいの?」
カイは恐る恐る口を開いた。
「戻りたいよ」
クラウスは町を見たまま答えた。
「どうして? 今日楽しかったろ? クラウスは海が好きだろ?」
「海は大好きだよ。ぼくの部屋からは海が見えて、毎日飽きずに眺めてた。船が沈んで死んじゃっても、やっぱり海は嫌いになれない」
「人間の国は、海の中より楽しいの? 王子の生活がよかったの?」
「楽しいだけではなかったよ。毎日たくさん勉強して、行儀作法だって、小さいころからそれは厳しくしつけられた。ぼくは生まれた時から国のために生きることが決まっていたからね。自由なんて無かった」
「じゃあ、なんで? ……恋人でもいるとか?」
「恋人なんていないよ。婚約者ならいたけど」
クラウスは少し笑ってそう答え、カイは激しく動揺した。
「もうすぐ結婚するはずだった。まだ会ったことはなかったけど」
「会ったことない相手と結婚するの? 嫌じゃなかったのか?」
「そういうものだと思ってたから。美しくて聡明な人だと聞いていたしね。その人は隣の国の王女なんだ。ぼくと同じで、自分の生まれた国のために生きてきた人だ。きっとその人となら分かりあえて、いっしょに国を守っていけるだろうって、思ってたよ」
カイは、言うべき言葉が浮かばず、ただ茫然と聞いていた。
「好きなところに行って、好きなことがしたいって思うことだってあったよ。海を見てると、心だけでも自由になれた。カモメになって空を飛べたらとか、イルカになってどこまでも泳いでいけたらとか、空想したりもした。だから今日は本当に楽しかったよ。だけど、もう自由なんだって思うと、やっぱり寂しいんだ。国を守るという役目が、もうぼくではなく、他の誰かのものなんだと思うと、たまらなく悲しい……」
その顔は、いつか見たあの大理石の少年を思わせた。クラウスは自分の国を心から愛しているのだと、カイは思った。

日が沈みかけていた。
カイはクラウスの手を引いて泳いだ。離すまいとするように、強く手を握った。
海藻の森は、集落から少し離れたところにある、カイのお気に入りの場所だ。クラウスを家族や仲間に見せるわけにはいかないので、今晩はここに泊まろうと思った。
だいぶ疲れていたのか、横になるとクラウスはすぐに寝息をたて始めた。カイはとなりに寝て、その寝顔を見つめた。そして袋から薬の瓶を取り出し、白く光る液体を眺めた。夜が明ける前にこれを飲ませれば、クラウスはもう人間に戻れなくなり、ずっとカイの傍にいてくれるのだ。
クラウスが海を気に入ってくれたら、そうするつもりだった。でもクラウスは、自分の国を愛している。人魚に変えてしまえば、それを奪うことになる。あの時の悲しそうな顔が、カイの胸に焼き付いていた。
カイは薬瓶を袋に戻すと、ぐっすり眠っているクラウスを残し、海藻の森を離れた。

眠りを妨げられたベアンハートは、それがカイだと分かると怒鳴りつけようとしたが、その思いつめた表情を見て黙った。
「これ、返すよ。勝手にとったりして、ごめんなさい」
カイは持ち出した薬を差し出し、いつになくしおらしく謝った。
「じつは、お願いがあるんだ……」
「何があったんだ?」
カイが事情を説明するのを、べアンハートは黙ったまま聞いていた。聞き終わると、何も言わずに薬棚のところへ行き、青い液体の入った瓶を取ってきた。そして「持ってけ」とだけ言って、カイに手渡した。

クラウスはよく眠っている。カイは眠らずにその寝顔を見つめつづけた。わずかな光の変化が、夜明けが近づいていることを知らせている。カイはもらった薬を口に含み、クラウスに口づけた。クラウスの喉が、ゴクリと音をたてる。
「ん……」
クラウスが目を覚まし、唇にふれ、カイを見た。
「カイ……今……」
言い終わらないうちに薬が効いてきて、また眠りに落ちた。
ベアンハートにもらったのは、忘れ薬だった。
これでクラウスは前の日の記憶を失くしてしまう。自分のことを忘れてほしくはなかったが、人間に戻る以上、人魚のことは忘れてもらわなければならない。せめて目が覚めた時、何か楽しい夢を見たという幸せな気持ちでいてくれることを願った。
クラウスを抱き上げて水面に浮かびあがった。陸に向かって泳いでいるうちに空が白んできて、カイの腕の中でクラウスは人間に戻った。

たくさんのカモメが頭上を旋回している。入り江の真ん中は砂浜で、端の方は岩場になっていた。なるべく平らで波のかからなそうな岩をさがし、そこにクラウスを寝かせた。
カイは、胸に刺すような痛みを覚えながら、その寝顔を見つめた。髪と頬をなで、額に別れのキスをして、傍を離れた。
それから少し離れた岩かげに身をひそめ、ナイフを握りしめて、誰かが来るのを待った。優しい人間ならばよいが、もしクラウスに危害を加えるようなら、海にひきずりこんでナイフで刺し殺すつもりだった。
しばらくすると、海岸にある白い建物からひとりの娘が現れた。娘は海辺を歩いていて、倒れているクラウスに気づき、走り寄った。それから白い建物に戻って、数人の人間を連れてきた。カイは、人間たちがクラウスを抱えてその建物の中に消えるまで、じっと見守っていた。

人が変わったようにふさぎこんでいるカイを、家族は心配した。カイは何があったか聞かれても、「なんでもない」としか答えなかった。必要最低限しか顔を見せず、昼間は海藻の森でひとりぼんやりと過ごした。夜になると島まで出かけ、あの灯りの中のどこかにクラウスがいるのだと思いながら、城を眺めた。
ある日、ハンスがカイを捕まえて声をかけた。
「事情はベアンハートから聞いたぞ」
カイは、きっと怒られるだろうと思って黙った。
「おまえは本当にバカだな」
辛辣な言葉とは裏腹に、いたわるような優しい声だった。
「うるせえよ、言われなくてもちゃんとわかってる」
カイは弱々しく口ごたえをし、そっぽを向いた。

ある晩のこと、カイがいつものように島に向かっている途中、あの夜のような船が浮かんでいるのが見えた。前にもまして華やかな光で彩られ、にぎやかな音楽が遠くまで聞こえてくる。カイは、クラウスの姿が見られるかもしれないと思い、吸い寄せられるように船に近づいていった。
いくつか窓をのぞいてまわり、とうとうクラウスを見つけた。
なつかしさで、胸がしめつけられるようだった。クラウスは大勢の人々に囲まれていて、隣には、美しい少女が寄り添うように立っていた。あの朝の娘にどこか似ている。ふたりは時々視線を交わしながら、幸せそうに笑い合っていた。
きっとこれは結婚式のパーティーなんだと、カイは思った。わかっていたことだったが、実際に目にするのは、想像していたよりも辛かった。

初恋は、泡のようにはじけた。
カイの心は悲しみでいっぱいだったが、クラウスが幸せそうだったことに、救われるような気持ちも感じていた。
カイは船を離れ、陸に向かった。あの夜するはずだった冒険に、今夜こそ出かけようと思った。
銀色の満月が、海を明るく照らしている。



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