文字数 2,309文字

失敗できない日というものがある。たとえば今日がそうだ。なにしろ安達先輩が初めて遊びに来るのだから。
俺の部屋は二階で日当たりはいいが、古い学生用アパートのワンルームで、必要最低限の物しか置けない。手前がキッチン、中央にテレビとローテーブル、奥にベッド。それでも念入りに掃除して窓を開けると、春の午後の陽光が差し込んで、やわらかな風がカーテンを揺らし、見違えたようになった。ちゃんと干しておいた布団は温かく、お日様の匂いがする。準備は完璧だ。
テーブルの上のスマホが、LINEの着信を告げる。安達先輩からだった。
『近くのコンビニまで来たよ』
『今迎えに行くんで、ちょっと待っててください』と返信し、家を出た。

「松永!」
コンビニの前で、安達先輩が俺を見つけて手をふっている。男性にしては華奢な方なので、ゆったりした白いTシャツが余計に大きく見える。
「行きましょっか」先輩の身長は平均くらいだが、俺がでかいので隣に並ぶと少し見下ろすような感じになり、シャンプーの香りが鼻をかすめた。さわり心地のよい髪は、染めていないのに日に当たると茶色く見える。
「楽しみだな。どんな部屋なんだろ」
はしゃいでいる先輩の横顔を、目を細めて見ていた。

「綺麗にしてるんだ」先輩は感心したように部屋を見回した。
「実ははりきって掃除しました」「やっぱり?」視線を交わして笑い合う。
「映画にはこれがないとね」と言いながら、先輩はコンビニの袋からお菓子や飲み物を取り出してテーブルに並べた。
「すいません、金払いますよ」
「いいよ、いいよ。手土産だから。それからこれね」
と言って、リュックからDVDを取り出す。一昨年の秋、映画研究会で自主制作した短編映画で、俺が入学する前、先輩が一年生の時のものだ。

俺は背が高くて運動が得意だったので、高校までは野球やバスケなど、誘われるままに色々やってきた。どれもそれなりに楽しかったが、のめり込むという程ではなかった。
一年前、大学では何か他のことをしてみたいと思いながらサークルの勧誘を見てまわっていた時、初めて先輩に会った。
「映画研究会に入りませんか」
映画は話題になったものを見る程度で全く詳しくなかったが、チラシを手渡してくれた先輩の可憐な笑顔に一目で心を奪われ、その場で入会を決めた。
映画は観る方も撮る方もそこまで夢中になれたわけではなかったが、先輩には夢中だった。サークルでは気のきく後輩としてアピールしつつ、映画や買い物に積極的に誘って、二人で遊ぶ仲になった。先輩・後輩という関係性は崩さなかったけど、時々想いを込めて短い視線を送った。最初は全く意識してもらえなかったが、次第にその意味に気付いたのだろう。恥ずかしそうに目を伏せるようになった。
もしかしたら先輩も同じ気持ちでいてくれるかもしれない――淡い期待を抱き、勇気をふりしぼってバレンタインに告白した。
「好きです。恋人として付き合ってください」
「俺で良ければ……」小さな声で、嬉しそうにはにかんで、そう答えてくれた。

映画のストーリーは、若い男女の恋愛物で、すれ違いを乗り越えて恋が成就するという平凡なものだったけど、演出のセンスが良かったので飽きずに見れた。
でもその映画を観てみたいと言ったのは、あくまで先輩を部屋に呼ぶための口実にすぎない。
観ている間も、部屋の隅に置かれたベッドが気になった。
「けっこうよく出来てるでしょ?」
「はい、面白かったです。先輩が出演してないのは残念ですけど」
「雑用係だったからなあ」
会話が続かない。なんとなくぎこちない。先輩も同じことを考えているのだろう。
「先輩」囁くように呼んで体を引き寄せた。
「カーテン閉めて……」
もどかしく席を立ってカーテンを閉める。電気をつけていない室内はうす暗い。隣に戻って抱きしめると、またシャンプーの香りがした。
「好きです」「ん、俺も」目を閉じて唇を重ねた。次第に深くしながら、二度、三度と口づける。
「ベッド行きましょう」「うん……」先輩は素直にうなずいてくれた。

興奮と緊張とを感じながら、ベッドの側に先輩をうながし、布団をめくる。
すると突然、中から何かが飛び出してきて、「うわあ!」と二人同時に叫んで後ずさった。
それは猫だった。背中側が茶色くて腹側が白い。鋭い目つきで少しこちらを見た後、開いている窓の隙間から表に飛び出していった。窓から見ていると、器用に庇から塀に飛び移って地面に降り、アパートの角を曲がって見えなくなった。
「猫?」
「いつのまに?」
「さっき窓開けたまま出かけたから、その間かな……」
「びっくりした……」
せっかくいい雰囲気だったのに、完全に空気が変わってしまった。でもこんな事で諦めたりはしない。
「先輩、いいですか?」気を取り直してもう一度、先輩を抱きしめる。
「うん、いいよ……」先輩も俺の背中に腕をまわした。
二人でベッドに座り、先輩をゆっくり押し倒す。緊張した表情で俺を見上げる先輩の頬を優しくなでて、キスしようとした。
その時、視界の隅でゴマ粒のようなものが跳ねた。それは枕の脇でもぞもぞと動いている。
「ノミだ!!!」「えええ!?」二人とも飛び起きてベッドから降りた。

さすがにこのまま続けるのは無理だ。
「すいません、こんな事になって。特別な日にするつもりだったのに……」
がっくりとうなだれる俺の肩に先輩が優しく手を置く。
「松永、気にしないで。元気出しなよ」
先輩は気遣うように俺を見ていたが、突然ぷっと吹き出して、クスクス笑い出した。
その様子に、俺もつられて照れ笑いする。
「掃除しよっか」
笑顔でそう言ってくれる先輩が愛しい。「はい」と言いながら抱きしめて、やわらかな髪に頬をすり寄せた。



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