戸惑い

文字数 2,348文字

ある村に、リョクウとアオイというふたりの若者が住んでおりました。
共に幼い頃に親をなくしたため、兄弟のように仲良く助け合って大きくなりました。
幸いなことに、その村は豊かで、人々は親切であったため、食べ物に困ったりすることもなく、ふたりともまっすぐで美しい青年に育ちました。

リョクウはアオイより歳上で、背が高くて力があり、勇敢で優しい心を持っていました。アオイはそんなリョクウを心から尊敬し、「リョクウ兄さん」と呼んで兄のように慕っておりました。
リョクウの方も、アオイを実の弟のようにかわいがり、気にかけてやっていました。

まだふたりが幼い時、こんなことがありました。
アオイが山菜を取りにひとりで山に行き、夢中で取るうちにどんどん山奥へと入ってしまい、帰り道が分からなくなってしまったのです。
迷っているうちに日が暮れ、辺りは暗くなってきました。
どこからか獣の鳴き声が聞こえてきます。
アオイは、いつそれが襲いかかってくるかと思うと怖くて身動きもとれずに、大きな杉の木の下にうずくまって、ただ周りの音に耳をすませていました。
すると遠くの方から、ひとの声が聞こえたような気がしました。
「アオイー! どこにいるんだー?」
それはよく知っているリョクウの声でした。
木の間から、小さな松明の灯りがちらちらと見えます。
「リョクウ兄さん、ここだよ! ここにいるよ!」
アオイは叫びながら、灯りの方を目指して歩きはじめました。
だんだんと灯りが大きくはっきりと見えだして、とうとうそこにリョクウの姿をみとめました。
ふたりは互いに走りよりました。
「心配したよ。ケガはないか?」
リョクウに優しく背をなでられながら聞かれ、アオイはほっとして涙が出そうになるのを、恥ずかしさから懸命にこらえてうなずくばかりでした。
リョクウにはアオイの気持ちがよく分かりましたから、その後ふたりの間で、その話をすることはありませんでした。

そんなふうに、リョクウはいつも優しく、さりげなくアオイを気づかってくれたのですが、いつのころからか、時々思い詰めた表情をするようになったことに、アオイは気付きました。
アオイが畑で汗を流して働いているときなど、少し休もうとふと後ろをふりかえると、リョクウが自分をじっと見つめていたりするのです。
その目が辛そうで、ふだんの穏やかなリョクウとは別人のようなので、アオイが驚いてどうしたのかと尋ねると、リョクウは繕ったような笑顔で、「なんでもないよ」と答えるので、それ以上は聞けずにいるのでした。

ある日、久しぶりにふたりで山の渓流へ、魚を取りに行こうということになりました。
川のほとりの土手を歩いていた時、前の日にふった雨でぬかるんでいたところでアオイが足を滑らせましたが、すぐ後ろを歩いていたリョクウがとっさに抱きとめました。
アオイは気恥ずかしく思いながら、礼を言って離れようとしましたが、リョクウの力強い腕に、ますます強い力で抱きしめられたのです。
驚いてリョクウを見ると、またあの思い詰めたような眼差しで、まっすぐに自分を見つめています。
そして目を閉じると、アオイに顔を近づけ、唇を重ねたのです。

突然のことにアオイは頭が真っ白になって、リョクウを突き飛ばして走り出してしまいました。
何も考えられないまま夢中で走ったため、村へ帰る道とは反対の方へずいぶん来てしまったことに気付き、ようやく足を止めました。
徐々に息は落ち着いてきましたが、先ほどのことを思い出すと、アオイの胸は早鐘を打ち、顔は火がついたように熱くなりました。
いったいリョクウ兄さんはどうしてしまったのだろう。弟のように思っているはずの俺にあんなことをするなんて、とアオイは思いました。

どんな顔をしてリョクウに会えば良いのか分からず、ただ戻りたくないという思いでうろうろしていますと、昔迷いこんだ辺りへとやってきました。
幼い自分がうずくまっていた大きな杉の木もあります。
その木を見て、あの時どんなに恐ろしかったか、リョクウの声を聞いた時どんなにほっとしたか、そんなことをまざまざと思い出しました。
それからこうも思いました。
ーーあの時俺はまだ小さかったけれど、リョクウ兄さんだってほんの子どもだった。夜の山道が怖くなかったはずがない。それなのに、俺のことを心配して、探しに来てくれたんだ。

今はもう、ここで迷うことはありません。ちゃんと自分で帰ることができます。
でもアオイの帰るところは、リョクウの側であることに変わりはないのです。

俺は本当は、リョクウ兄さんの気持ちにとっくに気付いていたのではないだろうか、とアオイは思いました。
ただ昔のままの関係が心地よく、それが変わってしまうのが怖かったから、気付かないふりをしていただけなのかもしれない。そして今までどおり、優しい兄のままでいてもらおうとした。あんなふうに逃げ出したりして、どんなに傷つけてしまっただろう。

アオイはリョクウに対してすまない気持ちになりました。
リョクウに会いたいと思いました。

山道を下りていくと、すでに日は暮れかかっていましたが、リョクウは元のところでまだ待っていました。
リョクウは、それまで見せたことのないような悲しそうな顔で、「あんなことをしてすまなかった。もうしないから、どうか許してほしい」と謝りました。
アオイは彼に歩み寄ると、今度は自分から口づけをしました。
そして、驚いているリョクウに言いました。
「俺の方こそ、逃げたりしてごめん。俺はずっとリョクウ兄さんと……リョクウといっしょにいたい。これからも、俺の側にいてくれる?」
リョクウはうれしそうに、目を細めてうなづきました。
「ああ……もちろんだよ。ずっといっしょにいよう」

ふたりは仲良く手に手をとって、村へ帰る道を歩いてゆきました。



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