エリック様の執事 △

文字数 5,590文字

エリック様の書斎は、息が白くなるほど寒かった。窓の外の空はどんよりと灰色にくもり、裸の庭木が風でゆれている。
「暖炉に火が入ってないじゃありませんか。ナンシーは何をやってるんだ」
十二月のロンドンで暖房をつけないなんて、正気の沙汰ではない。エリック様は、厚手の外套を羽織って机に向かわれていた。袖口から出ているほっそりした手は青白く、いかにも冷たそうだ。
「ナンシーは悪くないんだ。ぼくの指示だよ」
「どういうことです?」
「町では薪が不足しているそうだから、切りつめないとね。この部屋はどうせぼくしか使わないし」
やれやれ、またか。
エリック様はいつもこうだ。薪や石炭は不足しがちで、貧しい人たちにまで行きわたらないことが多いため、こうやって節約しようとなさったり、家財を売って寄付金にまわそうとなさったり。さらには、救貧院や孤児の引きとり手の視察などに毎日いそがしく、この家やご領地のことは、執事であるおれにまかせっきりで、ご自分のことにもまるで無関心だ。
「ご立派ですが、限度というものがあります。お風邪でもひかれたらどうするのです」
「これくらい、平気だよ。ジェームスは心配性だな」
「エリック様が無茶をなさるからです。それにそのお靴ですが……」
おれはエリック様の足元に目を落とした。靴の甲の部分にしわがよって、革にひびが入っている。
「前々から申し上げていますが、いいかげんに新調なさってください」
「まだ十分履けるのに、もったいないだろう?」
「いけません。エリック様はハミルトン家のご当主として、もっと自覚を持っていただかないと」
つい口調がきつくなる。
「わかった、わかった。きみの言うとおりにするよ」
まるでおれのわがままをしかたなく聞いてやるというように、苦笑しながらおっしゃる。
おれは心の中で大きくため息をついた。

台所でじゃがいもの皮むきをしていたナンシーに暖炉の件を伝え、肉の切れはしの茹でたのをもらって、居間に向かう。そろそろチャーリーに夕飯をやる時間だ。下働きから執事になった今も、これだけは変わらずおれの仕事としている。なにしろチャーリーはおれの恩人……いや、恩犬なのだから、ないがしろにしたらバチが当たる。今ここにいられるのは、あのときチャーリーがおれの足にかみついてくれたおかげだ。
よかった、この部屋はちゃんと火が入っているようだ。暖炉の脇にはツリーが飾られている。明日はクリスマス・イブ。もう子どもではないけど、やはりなんとなくワクワクするものだ。
マントルピースの上には、エリック様のご家族の肖像画がかかっている。今は亡き先代のご主人アーサー様。お顔から、お人柄の良さがにじみ出ていらっしゃる。エリック様のお父君だが、だいぶお年を召されていたので、知らない人が見たらおじい様だと思うかもしれない。奥様はずっとお若く、おれがこの家に来たときには、すでに別のご家庭をお持ちだったので、お会いしたことはない。こぶりで形のよい鼻が、エリック様とよく似ていらっしゃる。そしてお二人に挟まれて笑っている子どもは、お小さいころのエリック様だ。まるで天使のように愛らしく、ここへ来るたび目をうばわれてしまう。エリック様はやさしいご気性をアーサー様から、うつくしい容姿を奥様から、それぞれ引きつがれたのに違いない。
チャーリーが鼻を鳴らしてエサを催促する。
「よしよし、今やるよ」
置いてやると、うれしそうに食べはじめた。まだまだ元気だけど、いつの間にかまつ毛がまっ白になり、動作ものんびりしてきた。エリック様がおっしゃるには、チャーリーはおれと年が同じだそうだから、十八歳だ。
「もう立派なおじいちゃんだな」
おれがここに来たとき、チャーリーは今よりずっと若々しかった。それも当然か。あれから七年が経つんだから。
アーサー様は、どこの馬の骨ともわからない孤児のおれをこの家に置いて、雑用の仕事を与えてくださった。おれはアーサー様のご親切にこたえたい一心で、けんめいに働いた。最初はおれに不審の目を向けていた使用人たちも、しだいにおれを信頼してくれるようになっていった。そしてある日、アーサー様が、おれと当時の執事ブラウンローさんを部屋に呼んでおっしゃったのだ。
「ジェームスはなかなか気がきくし、見栄えもいい。ゆくゆくはエリックの補佐をさせるから、下働きだけじゃなく、いろいろ教えてやりなさい」
仕事はもちろん、話し方や所作にいたるまで、ブラウンローさんが徹底的に仕込んでくれた。
そのころエリック様は寄宿学校に入っておられて、夏と冬の休暇になると家に帰っていらした。おれより三つ年上で、兄のように接してくださった。
「執事見習い、がんばってるそうだね。お父様がほめてたよ」
そうおっしゃりながら、おれの黒髪を指ですくようになさった。おれは口数がすくなくて、感情をおもてに出さない子どもだったけど、エリック様と過ごせることが本当にうれしかった。二人でチャーリーをつれて公園を散歩したり、学校の話をお聞きしたり、本をお借りして読み方を教えていただいたりと、夢のような日々だった。休暇が終わってエリック様が学校に行ってしまわれると、家の中は灯が消えたように感じられた。時々、寄宿学校あてに、たどたどしい手紙を書いたりして、また次の休暇を心待ちにした。エリック様が、お忙しい勉強の合間をぬってくださった返事の手紙は、すべて大切にとってある。
四年目の冬に、アーサー様がご病気で息をひきとられ、屋敷は悲しみに沈んだ。本当にお優しく、屋敷のものたち全員に慕われておいでだった。おれも辛かったけど、それ以上に、エリック様のさみしそうなご様子に胸が痛んだ。その年の九月、エリック様が寄宿学校を卒業して戻っていらした。そのころには、おれの目線はエリック様より高くなっていた。
その二年後、つまり去年のことだが、ブラウンローさんが高齢のため、バースで暮らしている息子さんのところへ身を寄せることになった。この家とエリック様をくれぐれも頼むと何度も言っていた。これからはおれが、エリック様を支えてこの家を守っていくのだと心に誓った。
おれ自身が孤児で、情けでここに置いていただいた身なのだ。エリック様の慈善活動に、どうこう言える立場じゃない。立派なことをされているのだし、そのような方にお仕えできることを、心から誇りに思ってもいる。
「でも……」チャーリーの頭をなでながら、話しかけるように独り言をいった。
「もう少し、ご自分のことやこの家のことも、気にかけてくださればいいんだけどな」
そしておれのことも……って、何を考えてるんだ、おれは。そうじゃなくて、あくまでエリック様ご自身と、この家のことが心配なのだ。おれは執事で、家と主人を守る責任があるのだから。

「おやすみ、ジェームス」
「おやすみなさいませ」
夕食が終わり、居間で少しくつろがれてから、エリック様は寝室に向かわれた。チャーリーがエリック様の足元に、名残惜しそうにまとわりついて甘えた声を出す。現金なもので、エリック様がいらっしゃるときはおれに見向きもしない。
「チャーリーもおやすみ」
首もとをさすられて満足げに見送る。そのあと、使用人たちも次々に持ち場をはなれて部屋へと引き上げていき、おれは最後に戸締りや火の元などを見てまわってから、ようやく自室に戻った。ベッドに入ってからも、しばらく物思いにふけっていた。
おれは幸せ者だ。この家に置いていただいて、エリック様におつかえできて。これ以上、なにを望むことがあるだろう。たとえエリック様にとって、おれがただの使用人にすぎなくて、おれにとってはエリック様がすべてだとしても、それでいいんだ。ただおそばにいられて、お役に立てさえすれば、それだけで……。
ふと物音を聞いた気がして、目を覚ました。いつの間にか眠りについていたようだ。ただの夢かもしれないが、気になってランタンを灯し、耳をすませていると、チャーリーの吠える声が静寂をやぶった。ランタンと火かき棒をつかんで廊下に飛び出し、声のする方へ向かう。たぶん食堂のあたりだ。廊下を急ぎながら、思い出さずにはいられなかった。あれも十二月の、凍えるような夜だった。おれはこの家に、盗みに入ろうとしていた。
九歳で孤児になって救貧院に入れられ、十一歳のとき煙突掃除夫のところへ見習いに出された。親方には毎日なぐられたし、煙突掃除は死ととなりあわせの仕事だった。ある日煙突から落ちて足の骨を折ると、親方はおれをどぶさらい屋に引きわたした。枯れ木のように痩せていて、陰険な笑顔をうかべた男だった。今にも崩れそうな掘っ立て小屋に連れていかれ、折れた足の手当てをしてもらった。そこには同じくらいの年の子どもが何人か住んでいた。彼らは日中どこかへ行って、どぶ底から出てきたにしてはきれいな財布や時計などを持ち帰り、男に渡していた。世間知らずだったおれも、それらは盗んだ品々なのだろうと気づいた。でもそれがわかったところで、他に行くあてもない。足の骨がくっついて、手伝いとして連れてこられた最初の仕事が、この家の強盗だった。鎧戸をこじ開けようとしていたやつが、手元をくるわせて音をたてると、屋敷の中から犬の吠える声がした。他のやつらは逃げおおせたが、一番うしろを走っていたおれは犬に追いつかれ、足をかまれて倒れた。犬はまだ若かったチャーリーだ。おれは追手の男たちに両腕をつかまれ、屋敷の玄関にひきずられていった。牢屋行きを覚悟していたけど、やさしそうな白髪の老人――アーサー様は、おれを見ておどろいたようにおっしゃった。「ほんの子どもじゃないか。警察を呼ぶまえに、話を聞いてやろう。まずは傷の手当てをしてやりなさい」
そのうしろで、おれより少し年上に見えるきれいな少年が、不安そうにこちらをうかがっていた。エリック様にはじめてお会いしたとき、おれは哀れな泥棒だった。幼いおれが、今も外に立っているような気がした。
食堂のドアの前でチャーリーが吠えたてている。ドアを開け、暗がりの中に人かげを認めた瞬間、銃声が響いた。とっさに入り口のかげに身をかくしながら中をうかがうと、人かげは窓を乗りこえたところだった。おれはその背中を追おうとした。
「ジェームス! 行くな!」
エリック様の声だ。
「でも、泥棒を捕まえないと」
「バカ! 銃を持ってるんだぞ。ケガでもしたらどうする!」
はじめてエリック様にしかられた。
「あとは警察にまかせるんだ」
「……承知いたしました」
ランタンが、エリック様の真剣な顔を照らしていた。おれの身を案じてくださっているのだと思うと、こんな時だというのに、うれしさをおさえられなかった。
調べたところ、さいわい盗まれたものは何もなかった。そもそもこの家に置いてあった銀器や宝石類は、エリック様がとっくに売りはらってしまわれて、残りは銀行だ。おれは他の使用人と交替で番をすることにして、エリック様には休んでいただいた。
翌朝はやく警察に使いをやると、太った中年の警官と若い警官の二人が、捜査のために派遣され、馬車で屋敷をおとずれた。クリスマス・イブだというのに、気の毒な話だ。壁には銃弾がめりこんでいたが、手がかりにはならなそうで、犯人をつかまえるのは難しいだろうということだった。被害もなかったし、半ばあきらめてもいるのか、型どおりの調査をすませるとすぐに帰っていった。

もうすぐ礼拝に出かける時間だ。夕べはほとんど寝ていないので、さすがに眠い。あくびをこらえつつ、エリック様にお声がけするため、書斎を訪れた。エリック様は机に向かってなにか読んでいらして、暖炉にはちゃんと火が入っていた。
「もう無茶はしないから、安心していいよ」
エリック様がおれの心を見透かしたように言って、にやりと笑った。
「そうしていただけると助かります」
「どうもやりすぎてしまうんだ。子どもたちを見ていると、何かせずにいられなくなってしまって」
「すばらしいことでございます。ご無理さえ、なさらなければですが」
「じつはけっこう寒かったんだ」
「当たり前です」
おれも思わず笑い、ふたりで笑いあった。
エリック様がふと目を細めて、手元の紙をご覧になる。ふしぎと見おぼえのあるような便箋だ。エリック様は、おれの視線に気づいておっしゃった。
「昔ジェームスにもらった手紙だよ。時々読みかえしてるんだ」
「……さようでございますか」
エリック様が、おれとの思い出を大事にしてくださっている。うれしい反面、あのつたない手紙を読みかえされるはずかしさで、顔があつくなる。
エリック様は、そんなおれをじっと見ていらしてから、おもむろにこちらへ寄ってこられた。どうされたのだろうと思うまに、ふわりと抱きしめられる。心臓がドキンとはねあがり、はげしく鼓動をうつ。深い茶色のさらさらの髪が、頬にふれている。
「銃声を聞いたときは、生きた心地がしなかったよ。ほんとうに無事でよかった」
「エリック様……」
「ぼくの大切なジェームス。きみに出会えたことを、神様に感謝してる。どうかいつまでも、きみがそばにいてくれますように」
よろこびで胸がふるえた。こんな言葉を聞けるときが来ようとは、夢にも思わなかった。
「そんな……わたしの方こそ、エリック様におつかえできて、どれほど幸せか。これからもずっと、あなたのおそばにいたい」
目に熱いものがこみ上げてきて、おもわずエリック様のお体を強く抱きしめ、首すじに顔をうずめた。執事としてあるまじき行為だけど、離すことはできなかった。エリック様はおれの背中を、やさしくなでてくださった。
「雪がふってる。これは積りそうだな」
エリック様がしずかな声でおっしゃる。まぶたの裏に雪がちらついた。庭の芝生に、石畳の街路に、家々の屋根にふりつもり、すべてを包みこんでいった。

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