恐怖症

文字数 2,443文字

うそだろ?
なんでそんなとこに倒れてるんだよ。よりにもよって、うちの玄関先なんかに。
死んでるのかな? やつは仰向けに倒れたままぴくりとも動かない。死んでるならまだいい。なるべく見ないようにして、そっと脇を通りすぎればいい。
だけどこいつは、死んでると見せかけていきなりすごい勢いで暴れだしたりするから安心はできない。
おれがこの世でもっとも忌み嫌う存在。そいつの名はセミだ。
何かで読んだけど、足を閉じてたら死んでて、開いてたらまだ生きてるらしい。こいつは……くそっ! バッチリ開いてる。
だめだ。あそこを通り抜けるなんて、おれには不可能だ。もうすぐ姉ちゃんが帰ってくるはずだから、それまでここで待ってた方がいい。
それにしても暑い……。太陽がジリジリと照りつけてくる。そして体にまとわりつくようなこの湿度。たしか今年は十年に一度の暑さとかテレビで言ってたな。
こんなことになるなら、家でおとなしくしてればよかった。コンビニにアイスなんて、買いに出るんじゃなかった。
そうだ、アイス! このままじゃ溶ける。
おれは左手に下げたビニール袋をじっと見つめた。
はずかしいけど、ここで食うしかないか。この暑いのに、わざわざ家の外でひとりでアイス食ってるとか、絶対変なやつだと思われるよな。だけど背に腹は変えられない。どうか誰にも見られませんように。
「あれー、向井じゃん。なんでこんなとこでアイス食ってんの?」
「吉沢……」
なんでよりによってこいつに見られるんだよ。
成績優秀で、スポーツ万能で、背が高くて、女子にモテる。おれの劣等感を刺激してやまない、この男なんかに。
おれの気も知らないで、吉沢は無邪気にきらきらした笑顔を向けてくる。この暑さの中で、どうしておまえはそんなに爽やかに笑っていられるんだ。
「家に入れないんだよ……」
「なんで? 鍵ないの?」
「鍵はあるけど…」
「じゃあなんで?」
こいつには言いたくない。男のくせにセミが怖いだなんて。
頼むからほっといてくれ。これ以上おれをみじめにさせないでくれ。
「アイス、溶けかかってるよ」
吉沢が急に顔をよせて、おれの手にしたアイスをなめた。不覚にもドキッとしてしまった。
「うまっ。ごちそうさま」
屈託なく笑うと前歯がきらっと光った。眩しすぎる。
「ねえ、ほんとにどうした? なんか元気ないじゃん」
今度は心配そうにおれの顔を覗き込んで、優しくささやきかけてくる。
なんなんだよ、さっきから。これじゃ女の子が落ちるのも無理はない。なんなら男のおれだってグラグラきてる。
ていうか、もう降参だ。変な意地を張らず、ここはこいつの優しさに甘えてしまおう。
「あれ……」
吉沢はおれが指さした先に目をやった。
「セミ? もしかして、セミが怖いの?」
「うん」
吉沢はおれの顔をまじまじと見つめて呟いた。
「やば……」
馬鹿にされた!
顔から火が出そうだ。
やっぱりイケメンにいいやつなんていないんだ。見せかけの爽やかさと優しさに、まんまと騙されたんだ。こんなやつに頼ろうとしたのが間違いだった。
吉沢はおれの横を通り過ぎてセミに近づくと、なんと素手でつまみあげた。ジジジッと音がしてセミが吉沢の指の間で暴れだし、その音を聞いただけでおれはビクッとなってしまった。
吉沢はおれにセミを見せないようにしながら、道路の反対側に行ってセミを置いて戻ってきた。
「もう大丈夫だよ、向井」
吉沢は優しく微笑んで、おれの頭をぽんぽんした。
「あーもう、そうやって馬鹿にしてろよ。つうか、セミ触った手でおれに触んな!」
おれは吉沢の手をふりはらいながら言った。吉沢は手を宙に浮かせたまま顔を凍りつかせる。
「あ、ごめん。でも馬鹿になんてしてないよ。なんでそんなこと言うの?」
「だって、頭ぽんぽんとかしたり、さっきだって『やば』とか言ったり、そんなの絶対馬鹿にしてるだろ?」
おれ、最悪だな。助けてもらったうえにこんなこと言って。かっこわるいにもほどがある。
「そうじゃないって。あれは……向井が可愛かったから」
「は? なんだよそれ! まだ馬鹿にする気かよ!」
「だから違うって……。ていうか、アイスめっちゃ溶けてる」
言われなくてもわかってるよ!
さっきから溶けたアイスが右手をつたっててすごく気持ち悪いけど、ここでそれを気にしてアイス食べはじめるのはさすがに間抜けすぎるから、がんばって気づかないふりしてたんだよ!
だけど指摘されてしまった以上しかたない。おれは少しでも威厳を保つため、努めて不機嫌そうな顔をしてアイスをなめはじめた。
吉沢は黙ったまま、そんなおれの様子をちらちらと見ていた。
気まずさに耐えてアイスはなんとか食べ終えたけど、手がべとべとしたままで気持ち悪い。
「これ使って」
「……ありがと」
おれは吉沢が差し出したティッシュを受け取って手をふいた。おかげで手はすっきりしたけど、心はいよいよすっきりしなかった。
みじめだ。ものすごくみじめだ。
これというのも全部セミのせいだ。セミなんてこの世から絶滅してしまえ!
そのとき、ゴロゴロという音が空から聞こえてきた。さっきまであんなに晴れてたのに、いつの間にか暗い雲が空を覆っている。
空に黄色い光が走り、バリバリッという雷鳴がそれに続いた。
「ひゃっ!」
おれは目と耳を疑った。
目の前のイケメンが、体をすくめて女子みたいな悲鳴をあげたのだ。
「え? 吉沢、まさか雷怖いの?」
吉沢は眉をハの字にして弱々しい笑顔を浮かべた。
「かっこわるいとこ見られちゃったな。じつは雷だけは大の苦手なんだ。わっ! また光った!」
悲鳴をあげながらおれにしがみついてくる。
こんなの、なんかほっとけない。母性本能をくすぐられるって、こういう感じか。
おれは彼の背中をぽんぽんしてやりながら言った。
「よかったら、雷やむまでうち上がってく?」
「ありがと、そうさせて。ひゃあっ!」
か、かわいい……。こいつにこんな一面があったなんて。思わず顔がにやけてしまう。
怖いものがあるって、かっこよくはないけど、そんなに悪いことでもないかもしれないな。

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