芦矢家の崩壊 (アッシャー家の崩壊)

文字数 5,817文字

秋のつめたい風を頬にうけながら、ぼくはひとり自転車を走らせていた。鉛色の低い空のしたに霧がたちこめ、枯草でおおわれた地面のなかを、未舗装の一本道がつづいている。いくら郊外だからって、個人の敷地がなんだってこんなに広いんだ。しばらくすると、前方に古めかしい西洋風の大きな屋敷が見えてきた。とても立派な、でもなんだか不気味な家だ。ここの住人には失礼だけど、そう感じてしまった。傷んだ灰色の壁面に、うつろな目のような窓が開き、雨垂れが涙のような跡をつけている。そして屋敷のすぐそばに、黒々とした水をたたえた沼があって、そのおもてに屋敷の姿を映しているのだった。
この屋敷の住人、芦矢陸郎くんは、中学校時代の友だちだ。そだちの良さそうな美少年で、どこか浮世離れした神秘的な魅力があった。勉強はいつも一番で、芸術的才能もあって、絵や作文のコンクールですごい賞をたくさんもらっていた。おとなびていて、大勢で騒いだりするのは苦手だったみたいだけど、なぜかぼくのことは気にいってくれていたようだ。とくに取り柄のない平凡な子どもだったぼくには、それがひそかな自慢だった。
ぼくはその後、地元の公立高校に進学したけど、芦矢くんは高校には進まなかった。独学でも勉強はできるから、と彼は言った。たしかにあれほど優秀なら、学校で習うより、かえって独学の方がはかどるくらいだろう。それに彼には、平凡な高校生活よりも、ひとりで本を読んだり、芸術にうちこんでいる姿の方がしっくりくるという気もした。
卒業してからしばらくの間はメールのやりとりをしていたけど、いつしかそれも途絶え、一度も会わないまま三年が過ぎていた。でも先日、ひさしぶりに彼からメールが届いた。そこには、彼がいま病に苦しんでいて、たったひとりの親友であるぼくにどうしても会いたいという内容が、切々と綴られていた。すぐに会いにいくと返事をして、住所を教えてもらい、週末を待って彼の家を訪れた。学校では毎日いっしょだったけど、家に来るのははじめてのことだ。
沼を横目に通りすぎて自転車をとめ、かごから手みやげの包みをとると、玄関前の階段をあがった。ものものしい木の扉を前に、緊張しながら呼び鈴を鳴らす。やがてゆっくりと扉が開いて、芦矢くんが姿をあらわした。記憶の中の彼は、ぼくと同じくらいの背丈の少年だったけど、目の前の彼は、ぼくを少し見おろすくらいの背丈の青年に成長していた。ひどく痩せていて、ゆったりした白いシャツにジーンズというふつうの格好なのに、退廃的な感じで、それがまた様になっていた。顔は相変わらず美しく整っていたけど、やつれて青ざめていて、心が痛んだ。
「久しぶり。よく来てくれたね」
芦矢くんは、目にかかったさらさらの前髪を長い指でかきあげながら、気だるそうな笑顔をうかべた。
「芦矢くん、ほんと、久しぶりだね。起きてて大丈夫なの?」
「寝込むほどではないんだ。さあ、あがって」
そう言うと親しげにぼくの肩を抱き、中へと招き入れた。
その瞬間、異界に足をふみ入れたかのような奇妙な感覚をおぼえた。うす暗く、しんと静まりかえった空気。古びた床板や壁紙。立派だけど、年代を感じさせる調度品の数々。この家はどこかがおかしいと、本能が告げている。
「どうかした?」
芦矢くんは、少し首をかしげてぼくの顔をのぞきこむようにして尋ねた。
「ううん、なんでもないよ」
お見舞いに来たというのに、ぼくが心配をかけてどうするんだ。きっと気のせいだと自分に言い聞かせて、違和感の正体についてはそれ以上考えないことにした。
ホールの先には長い廊下がつづいている。その奥を、白い人影が通りすぎたようだった。
「今のはだれ?」
「妹の茉莉子だよ。覚えてる?」
覚えている。茉莉子さんは、芦矢くんのふたごの妹だ。彼とよく似たきれいな少女で、やはり優秀だった。もっとも、同じクラスになったことはなかったし、彼も妹の話をほとんどしなかったので、よくは知らないのだけど。彼は早くにご両親を亡くしていて、近い親戚もいなかったので、茉莉子さんとふたりきりで暮らしているのだと聞いたことがある。
「もちろん覚えてるよ。茉莉子さんも、変わりはない?」
「じつは妹も、ある病に冒されているんだよ……」
「そうなんだ……」
かけるべき言葉が見つからず、芦矢くんも何もいわなかった。ふたりで黙ったまま並んで廊下を歩き、階段をあがって右手の部屋へ通された。
「ここがぼくの部屋なんだ。散らかってるけど」
「そんなことない、十分きれいだよ。あ、これおみやげのプリン。芦矢くん、好きだったよね?」
「わあ、覚えててくれたんだね。ありがとう。そのソファに座って待ってて。いまお茶をいれてくるよ」
「お茶なんていいよ。具合がよくないんだろう?」
「大丈夫だよ。少しは動いたほうが調子がいいんだ」
彼が出ていくと、ソファに腰をおろし、室内を見まわしてみた。天井の高い広い部屋で、中央には、今ぼくが座っている大きなソファと、ローテーブルが置かれている。一方の壁には本棚がそなえつけられていて、本がびっしり詰め込まれている。反対の壁には窓があり、その下に、彼が描いたと思われる絵がたくさん並んでいて、隅にギターがたてかけてあった。この部屋は彼の好きそうなものに埋め尽くされている。でもやはり、なんとなく奇妙な感じを与えるのだった。
まもなく芦矢くんが、コーヒーカップとおみやげのプリンを載せたトレーを手に戻ってきた。彼はトレーごとテーブルに置くと、となりに座って、うれしそうにぼくをまじまじと見つめた。
「きみはちっとも変っていないね。会えてうれしいよ」
「ぼくもだよ。芦矢くんは、ちょっと変わったよね。大人っぽくなったというか……」
久しぶりに会う友達というのは、初対面よりも緊張するものみたいだ。それに以前の彼は、こんなふうに距離をつめてきたりしなかった気がする。落ちつかなくてきょろきょろと視線をさまよわせていると、ふと、壁にたてかけてあった一枚の絵が目にとまる。淡い色合いの不思議な抽象画だ。
「あれは、芦矢くんが描いたの? 何の絵?」
「自分でもよくわからないんだけど、今のぼくの心境を絵にして表現してみたんだ。出口のない部屋……って感じかな」
「そ、そうなんだ……。他にもたくさん絵があるね。昔から絵がうまかったもんね」
「ありがとう。まあ、そのくらいしかやることないからね」
「……そ、そんなことないよ。勉強だってできたし、それにほら、たしかギターだって弾けたじゃないか」
返しに困るようなことばかり言うので、裏返ったような声が出てしまった。あたふたしながら部屋の隅のギターを指さす。
「ああ。ギターの音は落ち着くから好きなんだよ」
芦矢くんは立ち上がると、歩いていってギターを手にとった。そして、悲し気な短調のコードを、いくつかかき鳴らした。
「よかったら、なにか弾いてくれないかな?」
「うん、いいよ」
彼は少し息をついて、ぼくの知らない曲を奏ではじめた。せつなく美しい曲で、うっとりして聞き入った。
「やっぱり上手だね。なんていう曲?」
「曲というほどのものじゃないよ。即興で適当に弾いたんだ」
「そんなことできるの? すごくいい曲だったよ。感動するくらい」
興奮ぎみにほめると、彼は照れたように笑った。頬にほんのり赤みがさして、さっきまでの青ざめた顔色より元気そうに見えた。
彼はギターを元にもどすと、またとなりに腰かけてぼくを見つめた。
「きみは相変わらず優しいね。離れてみて、どれほどきみの存在が大きなものだったか思い知らされたよ。きみも忙しいだろうから、遠慮して連絡をひかえていたんだけど、もう長くないと思ったら、最後にひと目会いたくて、がまんできずに呼びつけてしまった。迷惑じゃなかった?」
「迷惑なわけないよ! でも、長くないって……。そんなに良くないの?」
「うん……。いつも目まいがしていて、夜もあまり眠れないんだ。体は弱る一方で、そのうち起き上がることもできなくなりそうなんだよ。でも医者の話では、とくに原因は見あたらないらしい。……こんなことを言ったら笑われるかもしれないけど、じつは、ぼくはこの屋敷の呪いではないかと思っているんだ」
「どういうこと?」
「昔はそんなことなかったんだけど、いつごろからだろう。この屋敷に、なにかゆがんだ悪意のようなものを感じるようになって、それがぼくと妹を、徐々に蝕んでいってるような気がするんだ。もっとも、これも病からくる妄想なのかもしれないけど」
ぼくはこの屋敷を見たときに感じた恐怖や、中に入ったときに感じた奇妙な感覚を思い出した。
「そうなんだ……。ここを出て、あたらしい場所で暮らそうとは思わなかったの?」
「先祖から代々伝わる土地と屋敷だし、人手に渡すのは気がひけるんだよ。それに正直言うと、もうそんな気力も残っていないんだ」
「そんなこと言わないでよ。ぼくにできることならなんでもするから」
「なんでも? それなら……ひとつだけ、お願いしてもいいかな?」
「なに?」
「抱きたい」
「へ?」
ぼくは一瞬耳をうたがって身をひいた。
「きみが好きだ。最後の思い出に、一度でいい。きみとひとつになりたいんだ」
芦屋くんはぼくの肩に手をかけて、思い詰めたような目で顔を寄せてきた。
「ま、待って……芦矢くん、落ち着いて」
そのときだった。軋むような音がして、部屋のドアが傾いてきたかと思うと、そのまま内側に倒れて大きな音が鳴り響いたのだ。そしてその向こうには、さらさらのロングヘアーが印象的な、白いワンピース姿の美少女が立っていた。
「茉莉子! 立ち聞きしていたのか?」
茉莉子さんは質問には答えず、恥ずかしそうに顔をおさえて走りさった。
「見苦しいところを見せてしまったね。じつはあれが妹の病なんだ。男性同士の色恋に、異常な関心を示すんだよ。きっとぼくらの会話を盗み聞きしていたんだろう。ドアが倒れるほどに耳を押し当てて」
「それって腐……」
言いかけたとき、足元の床がぐらつくのを感じた。
「地震?」
とんでもなく大きな地震のようだった。メリメリと音をたてながら床が傾いて、ぼくたちの座っているソファーをふくめ、部屋中のあらゆるものがすべり落ちていく。天井が割れて、板や梁が頭の上からなだれ落ちてくるのが見えた。
「危ない!」芦矢くんがぼくをかばうように覆いかぶさる。
すさまじい轟音の中、ぼくは固く目を閉じて体中をこわばらせ、芦矢くんはぼくを強く抱きしめて、ぴったり体をかさね合わせてひとつになって落ちていった。それはほんの少しの間で、それから叩きつけられるような衝撃の瞬間、体がはずんで止まり、やがて音がやんで静かになった。恐る恐る目を開けると、目の前に芦屋くんの端正な顔があった。心臓が、激しく音をたてていた。
「大丈夫? ケガはない?」
「うん……大丈夫みたい。芦矢くんは?」
「ぼくも大丈夫だよ」
彼の背中に太い梁が乗っているように見えてあせったけど、ソファーの背もたれがかろうじてそれを支えていた。ソファーはいくらかクッションの役割も果たしてくれたようで、あちこち痛むものの、骨が折れたりなどはしていないようだった。苦労してそこから這い出すと、立派だった屋敷は跡形もなく、大量の瓦礫の山の上にいた。空はあいかわらず厚い雲に覆われていたけど、霧は晴れていて、まるで原っぱのような広大な庭が見渡せた。
「茉莉子! 無事か?」
芦矢くんが心配そうな顔で、周りを見まわして叫んだ。少し離れたところで瓦礫がガラガラと音をたて、その下から茉莉子さんが体を起こすのが見えた。よかった。彼女も無事みたいだ。運がよかったとしか言いようがない。三人とも膝がガクガクで立ち上がれず、四つん這いになって瓦礫の山から這い下りた。
ズボンの後ろポケットに入れておいたスマホは、奇跡的にそのままで、壊れてもいないようだった。
「変だな。地震のニュースは出てないみたいだよ。この家だけが急に崩れるなんてこと、あるのかな」
芦矢くんは黒い沼があったあたりを見ていた。沼は、家の瓦礫で埋め尽くされて見えなくなっていた。
「地震……。そういえば、二年くらい前にわりと大きな地震があったのを覚えてる? あの時、地盤が沈下してここに沼ができたんだよ。それに屋敷の土台にヒビが入ってしまった。それから沼はすこしずつ大きくなっていったんだ。もしかしたら気づかないうちに、徐々に地盤が沈んで、屋敷が傾いてきていたのかもしれない。思えば、ぼくの具合が悪くなっていったのは、そのころからだった気がする。ぼくは三半規管が強い方じゃないから」
それを聞いて、屋敷に入ったときに感じた、なんとも奇妙な感覚に説明がつくような気がした。芦矢くんは、無意識に感じているゆがみに、神経を苛まれていたのだろう。
「きっと茉莉子がドアを倒した衝撃で、ついに耐えきれなくなって崩れたんだ。なんだか、長い間みていた悪夢から、さめたような気分だよ」
芦矢くんは、さっきまでとは違う、憑き物がおちたみたいな晴れやかな顔でそう言ったが、すぐにまた表情を曇らせてしまった。
「きみを危険な目に合わせてしまったね。ぼくのせいでケガをして、最悪、命を落とすところだった。どう謝ったらいいのか……。それに、さっきは思い余ってとんでもないことを口走ってしまったし……。ぼくのこと、嫌いになっただろう?」
芦屋くんは長いまつげを伏せて、消え入りそうな声で言った。
嫌いだなんて、全然思ってなかった。笑顔を見せてほしくて、彼の手をとり、心をこめて言った。
「嫌いになんてならないよ。芦矢くんは一生懸命ぼくを守ろうとしてくれたじゃないか。ぼくは芦矢くんのこと、大好きだよ」
「ほんとに……?」
「うん。ほんとに!」
そのとき、雲のすきまから夕方の柔らかい光がさした。金色の光を浴びた彼は、まるで天使のように、見とれてしまうくらい美しかった。
「じゃあ、また会ってくれる? あたらしい部屋を借りたら、そこへも遊びに来てくれる?」
「もちろん! ぼくの家にも来てほしいし、他にもいろんなところへ、いっしょに行こうよ」
「うん。ありがとう……。…………。茉莉子! じろじろ見るな!」
白い人影が、さっと物かげにかくれるのが見えた。彼女の症状、というより性癖は、屋敷とは関係のない、生来のものだったみたいだ。ぼくが思わずふきだすと、芦矢くんもつられて笑った。


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