秘密

文字数 4,934文字

ぼくは暗い廊下をひとりで歩いていた。ある部屋の前で、ふと足を止める。ベッドのきしむ音、喘ぎ声。
開けちゃいけない――頭の中で声がするのに、手はドアノブをつかみ、扉を押していた。
重なりあった人影のひとつが、ぼくを振り返る。――朔也!

というところで目覚ましが鳴った。心臓が縮みあがり、冷や汗をかいていた。
月曜の朝だ。カーテンを開けると雲一つない青空が広がっている。中庭のよく手入れされた芝生が目に入る。
向かいのロフトベッドから朔也の寝息が聞こえる。朝が弱いのだ。
「朔也。そろそろ起きないと、授業遅れるぞ」
「……うん……今起きるよ」

ぼくがこの春入学した怜和学園は、全寮制の私立男子高である。北海道のスキーリゾートからほど近い広大な敷地に、校舎と寮がある。外界から隔絶され、冬は真っ白なパウダースノーに、夏は見渡すかぎりの緑に囲まれた理想的な環境で、勉学に励み、人間性を養うというコンセプトらしい。実際よい学校で、ぼくのように、ここのOBである父親に勧められて入学したという生徒は少なくない。

生徒の居室は二人部屋だ。向かい合わせに、階段の付いたロフトベッドがあり、その下はクローゼットになっている。窓に向かって、板で仕切られた勉強机が並んでいる。
今から二か月ほど前の春休み、先に入室を済ませたぼくは、緊張しながら名簿に記された「如月朔也」の到着を待っていた。同室のやつと気が合うかどうかは、これからの三年間を左右する重大な問題だった。コンコンとノックする音に続いて、ゆっくり開いたドアのすきまから現れたのは、すらりとした体つきで、切れ長の二重が印象的な美少年だった。

朔也にはひとつの秘密がある。気づいたのは二週間前の金曜日だった。
ぼくはぐっすり寝る方だが、その日はたまたま眠りが浅かったらしい。夢うつつに、ドアの閉まる音を聞いた気がした。
「朔也?」ベッドは空っぽだった。ロフトベッドの階段に常夜灯がついているので、消灯後も真っ暗にはならない。トイレだろうか? LEDの目覚まし時計が、11時28分を表示していた。
なんとなく気になって、寝付けなかった。十分、十五分が過ぎても帰ってこない。だんだん不安になってきた。
十二時をまわり、とうとうぼくはベッドから抜け出し、部屋を出た。消灯前はにぎやかな廊下がまるで人の気配がなくて薄暗く、別の空間のように気味がわるかった。部屋を出て左のつきあたりにトイレがある。センサーライトは点いていなくて、中にはだれもいなかった。
他にどこを探したらよいのか分からなくて、とりあえず部屋に戻った。朔也は自分で部屋を出ていったのだから、騒ぎを大きくしない方がいいという気もした。
机のスタンドを点けて参考書を開いてみたが、心配で頭に入ってこなかった。あきらめてもう一度ふとんにもぐったが、やはり寝付けなかった。
五分ごとに時計ばかり見ていた。とうとう、カチャッと小さな音がして、廊下の薄暗い光が室内に差し、黒い人影が入ってきた。「どこ行ってたの?」と声をかけると、朔也は驚いてからだをすくませた。まさか起きているとは思わなかったようだ。そして、「……トイレだよ。起こしてごめん」と嘘をついた。時計は12時35分を表示していた。

あれから気になって、毎日消灯後、三十分くらい寝たふりをしていたが、数日間は何事も起こらなかった。しかし先週の金曜日、やはり同じくらいの時間に、同じことが起きた。
後をつけようかと思ったが、ばれるに決まっているし、朔也が秘密にしようとしていることを詮索して、嫌われるのは怖かった。戻ってきたときも、寝ているふりをした。寮は施錠されているし、周りは真っ暗で何もない。外に出ていることはまずないと思うのだが、いったいどこへ行っているのだろう。

「日野、ちょっといいか?」
火曜日の夜。寮の部屋に入ろうとしていたところ、となり部屋のドアのすきまから、住人の佐藤が顔を出して小声でぼくを呼び止め、手まねきした。中には、佐藤と同室の山本もいた。二人とも神妙な顔つきをしている。ぼくたちはフローリングにあぐらをかいて座り、顔を突き合せた。
「何かあったの?」
「如月のことで、ちょっとさ……」佐藤が話を切り出した。
「朔也がどうかしたのか?」ぼくは動揺をおさえきれずに食い気味で聞いた。
「じつは変な話を聞いたんだよ。夜中に八神の部屋に入ってくのを見たっていう人がいるんだ」
「八神? 数学の?」
八神海里は数学教師だ。まだ若く、おそらく二十代だろう。上背のある端正な容姿で、眼鏡をかけている。怜和学園の教師はみなそうだが、彼も優秀で教え方はうまい。しかしまったく愛想がなく、一度も笑った顔を見たことがない。加えて、宿題や小テストがやたら多く、手を抜いた生徒には容赦ない。何をかくそう、ぼくは数学が苦手だ。入学したばかりのころ小テストで、二十点満点中、五点をたたき出した。八神は心底見下したような目で、「何を考えてるんだ。中学からやりなおしてこい」と冷たく言い、大量の宿題を課した。それ以来、あいつはぼくの天敵だった。
怜和学園の教師はみな男性で、原則として寮に住むことになっている。寮の監督という名目だが、警備や管理などの仕事は外注しているので、形だけの仕事しかない。もっとも半数以上は既婚者で、外に家を借りたり建てたりして、車で通っている。教師用の部屋は、個室にトイレと風呂が付いてホテルの部屋のようなつくりで、一階ホールを挟んで、食堂の反対側に位置している。生徒の部屋は二階と三階である。
佐藤が話を続けた。「テニス部の二年の先輩なんだけど、先週の金曜、食堂にスマホを置き忘れちゃったんだって」
怜和学園はスマホに関してかなり厳しく、校内はもちろん、寮内への持ち込みすら禁止されている。家族への連絡は、寮にある公衆電話を使わなくてはいけない。しかし中には、こっそり持ち込んでいる生徒もいるようだ。ばれたら没収の上、反省文を十枚くらい書かされるという話だが。
「それでその先輩は、消灯後こっそり食堂に取りに行ったんだ。そしたら誰かの足音が近づいてきたんで、あわてて隠れたんだけど、通り過ぎた後でこっそり見たら、如月が八神の部屋に入っていくところだったんだってさ」
「本当に朔也だったの?」
「間違いないらしい。その……如月、きれいだろ? その先輩も目付けてるらしくってさ」
今度は山本が言いにくそうに口を開いた。「もしかして如月、脅されてるんじゃないのか? ……つまり、八神に体の関係を求められてるんじゃないかって、心配してるんだよ」
ぼくは山本のことばにショックをうけた。だけど、そう考えるのが自然だという気がした。夜中に教師の部屋を一人訪ねる――それ以外の理由なんて、考えられないじゃないか。それで朔也が嘘をついたことにも、説明がつく。知られたくないのに決まっている。
「日野は同じ部屋にいて何か気づいたことないの?」
「……いや、特に何も」
噂に拍車をかけることになると悪いので、黙っていることにした。

「新、どうしたの? 何かいやなことでもあった?」
部屋に帰ってからろくに口をきかないぼくに、朔也はきれいな眉を寄せてそう尋ねた。自分の方こそひどい目にあってるというのに、なんて優しいんだろう。
「なんでもないよ。それより、朔也の方こそ、悩みとかない?」
「悩み? 特にないけど、なんで?」
あっけらかんと答える様子は、本当に悩みなど無さそうに見える。何も相談してくれないのは、少し寂しかった。
「言いたくないなら、無理に聞かないけど、何があってもぼくは朔也の味方だから!」
「新……。ありがとう」朔也は胸を詰まらせたようにそう言って、目をふせた。
朔也をこれ以上傷つけられてたまるものか。きっとぼくが助けてあげるからな。
その後も朔也は何ごともないかのようにふるまっていた。しかしあの話を聞く前は、とくに意識していなかったので気づかなかったのだが、数学の授業のとき、八神と朔也の間には、何かある種の緊張感があるように感じられた。なんとなく、目線を合わさないようにしているような、そんな感じがしたのだ。

「新、電気消すよ?」
そしてまた金曜の夜。消灯の十一時になり、ぼくたちはベッドに入った。
今夜も、きっと朔也は出かけるのだろう。行先は分かっている。少し時間をおいてからあとを追い、八神の部屋にいるところに突入してやろう。そして八神をこの学校から追い出して、朔也を救ってやるんだ。
しばらく寝たふりをしていると、朔也はやはり動き出した。足音をしのばせて階段を下り、少しのあいだこちらの様子をうかがっていたが、やがて静かにドアを開けて、ひっそりと部屋から出て行った。
五分ほど待って、ぼくは部屋を出た。部屋から一番近い階段で一階まで降り、食堂とホールを通り過ぎて、職員の部屋がある一角へと来た。一番手前が八神の部屋だ。
ドアノブに手をかけると、意外にも鍵はかかっていなかった。八神にドアを開けさせて踏み込むつもりだったので、少し拍子抜けしたが、そのままの勢いで中に入っていった。
ベッドの上で、朔也は裸で八神に組み敷かれていた……などということはなかった。
八神と朔也は、テーブルをはさんで椅子にすわり、なかよくお茶を飲んでいた。もちろん二人とも服を着ている。
「新! どうしてここに?」朔也は飛び込んできたぼくを見て、目を丸くした。
「朔也こそ、何してるんだよ、こんなところで?」質問を返すと、朔也はことばに詰まった。
「もういいよ、朔也。ここまできたら、おれたちの関係を話したほうがいいだろう」口を開いたのは八神だった。
「そうだね、兄さん。これ以上かくしておけないよね」
「兄さん!?」ぼくは思わず叫んだ。
「うん、八神先生はぼくの兄なんだ。苗字が違うのは、ぼくが小学生の時に両親が離婚して、ぼくは母さんに、兄さんは父さんに引き取られたからだ。しばらくは時々会ってたんだけど、両親がそれぞれ再婚してからほとんど連絡もとってなかったから、この学校で再会したときは本当にびっくりしたよ。なつかしくて、こうして金曜の夜にこっそり遊びに来てたんだ」
兄弟だったのか。言われてみれば、目元がそっくりだ。なんで気づかなかったんだろう。
「ひどいよ、朔也。どうして教えてくれなかったんだよ?」
「ごめんね。兄さんが、しばらくは黙ってた方がいいって言うから。それに、ぼくも言いづらかったんだよ。新、兄さんのこと苦手だったから」
「そうなのか、日野?」八神が鋭い目でぼくをにらんだ。
「いえ、そんなことは……」
「別にかくさなくていいぞ。生徒に嫌われているという自覚はあるからな。だがおれと兄弟と知られて、朔也が肩身のせまい思いをするとわるいから、学校になじんだころに、折を見て話したほうがいいと思ったんだよ」
「そんな! そんなことで朔也を見る目が変わるなんてことは、絶対ありません!」
「そうだな。心配してわざわざこんなところまで探しに来るくらいだからな」八神は初めて笑顔を見せた。

「ほんとにごめんね、新。余計な心配させちゃって……」
二人で自室に戻り、窓際の椅子にすわって話した。カーテンを開けると月明かりが意外と明るく、表情までよく見える。
「ぼくのことは気にしなくていいよ。それより、まちがった噂があるから、ちゃんと説明して誤解を解いたほうがいいと思うよ」
「噂? どんな噂?」きょとんとして朔也が尋ねた。それは少し……いや、かなり答えづらい質問だ。
「まあ、とにかく。ぼくは朔夜の味方だって言ったよな? これからはもっと信用してよ」
「ありがとう。新はいつもぼくのこと考えてくれるよね。ほんと、優しくて、可愛くて……。好きだよ、新」
「へ……?」
朔也は椅子から離れてぼくに詰め寄ると、頬に素早くキスをした。「そろそろ寝ようか」月の光のせいか、その笑顔はいつも以上に美しく、妖しい魅力があった。
ぼくは火照った頬をおさえて「あ、うん……」と間の抜けた返事をし、のろのろと立ち上がった。
「おやすみ」
「お、おやすみ……」
――いま、好きって言われた? キスされた? 本当に?
ぼくは明け方まで眠れなかった。
そして翌朝は、二人仲良く寝坊することになったのだった。



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