深海魚神話

文字数 3,239文字

夏休み。学校のある日よりのんびりできるとはいえ、受験を控えた中学三年生の僕は、勉強のノルマに追われる日々を過ごしていた。自室の机に向かって数学の問題集と格闘していると、セミの鳴き声を破って幼なじみの湊の声が響いた。
「佑真、リュウグウノツカイ見に行こうぜ」
階段を下りていくと玄関に、背の高い湊の姿があった。
「悪い、勉強中だった?」
短めの髪に、日に焼けた明るい笑顔はいかにも快活な印象を与える。一週間くらい会ってなかっただけなのに、なんだかすごく懐かしく、胸が締め付けられた。もちろん僕はそんなことは表に出さずに、普段通りの調子で言った。
「いいよ。僕も行きたいと思ってたんだ。たまには気分転換しないとね」

今朝、近くの浜に深海魚、リュウグウノツカイが打ち上げられているのが発見され、たちまちそのニュースは退屈な小さな島の隅々まで知れ渡った。お母さんはパートに出ていて家には僕一人だったから、窓と玄関の鍵を閉めて家を出た。
防波堤沿いの県道を、二人並んで自転車で走る。頬に受ける潮風が心地よかった。よく晴れていて、夏の朝の日差しが海面をきらきらと輝かせている。
十分ほどで例の浜に到着すると、すごい人だかりが出来ていて、本土からテレビ局まで来ているようだった。人混みの中に、漁協で働いている同級生のお父さんがいたので、湊が声をかけた。
「おじさん、おはようございます。打ち上げられたリュウグウノツカイって、あそこにいるんですよね?」
「ああ、おはよう。今本土から来た専門家が調べてるとこだよ。午後には船で運ばれて、大学の研究室に行くらしいね」
せっかく来たのに、間近で見ることはかなわないようだ。なんとか人の少ない所に移動して、遠目に見ることができた。大きな細長い体で、白くて背びれは赤い。頭に糸のようなひれが付いている。そんな不思議な姿の魚が、砂浜の上に体をくねらせて横たわっている。
「初めて見た。すげえ変な魚だね」目線をリュウグウノツカイへ向けたまま湊が言った。
「うん。僕も本物見たのは初めてだ」
ずっと前に、図鑑でなら見たことがある。本当にこんな空想上の生き物みたいなのがいるんだ、海の中ってなんて不思議な世界なのだろうと思った。その時まだ生きていたおじいちゃんが、リュウグウノツカイにまつわる、この島の伝説を教えてくれたことを思い出した。
「ねえ、知ってる? この島を作った神様は、海のすごく深いところに住んでいるんだってさ」
「小さいころばあちゃんから聞いたことある気がする。ずっと忘れてたけど」
「それで神様が人間に伝えたい事があると、リュウグウノツカイがメッセージを運んでくるんだって」
「なんで神様は海の底なんかに閉じこもって、出てこないんだろうな」
独り言のようにそう呟いた湊の表情には、いつもの快活さはなくて、心がどこか遠いところにあるように感じられた。
僕も深い心の底に、湊への思いをしまいこんで住まわせている。その心の中の世界だけで生きられたなら、寂しさも苦しさも、感じなくてすむのだろうか。
「そろそろ帰ろうか」と湊が言った。太陽は次第に高くなり、いつまでもここにいると熱射病を起こしそうだったし、そろそろ勉強もしなくてはならない。まだいっしょにいたかったけど、何でもなさそうに「そうだね」と答えた。
「夕方もう一回来ないか? 海を見たら、久しぶりに泳ぎたくなった」
そう誘われて、しぼみかけていた胸を弾ませながら、「いいね、そうしよう」と返事した。

楽しみなことが待っていたおかげで、午後の勉強はいつになく集中できてはかどった。朝の喧騒が嘘のように、夕方の海には人の気配がない。まだ明るかったけど、焼け付くような日差しは弱まっていた。
湊が目の前でTシャツを脱いだ。広くて引き締まった背中を見て、自分の薄っぺらい体が少し恥ずかしくなる。背だって頭一つ分くらい湊の方が高い。小学生の頃は同じくらいだったのに、いつの間にかこんなにも差がついてしまった。
日中の日差しで温められた海水は、程よい冷たさで体を冷やしてくれる。水の中にいるとそれだけで、子供にかえったみたいにはしゃいだ気分になって、泳いだり、追いかけっこしたりするだけでも十分楽しかった。
一時間くらいそうやって遊んだ後、日も沈みかけてきたので、「そろそろ上がるか」と湊が言った。
僕が砂浜で体をふいていると、湊が黙ったままこちらをじっと見ているのに気付いた。好きな人からそんな視線を向けられて、急に裸同然の姿が恥ずかしくなる。隠すのも変だと思ったので、そのまま平気なふりを装って、「何?」と聞いたけど、湊の顔を見ることはできなかった。
「いや、色白いなと思って……」そう言いながら腕にそっと触れてきたので、僕はこらえきれずに、ビクンと体をすくませてしまった。湊も驚いたように手を引いて、「悪い。早く服着ないと寒いよな」と俯いて言った。

服を着終わった後、県道から浜へと降りる階段に並んで腰かけて、二人とも黙ったまま、海に沈んでいく夕日を見た。髪が濡れていることもあり、夕方の海辺は涼しいのを通り越して肌寒いくらいだ。オレンジ色の太陽がゆっくりと吸い込まれるように海の中に消えてしまうと、闇がだんだんと濃さを増していく。
湊がおもむろに口を開いた。
「来年から本土の高校だね」
「うん、そうだね」しんみりした気持ちで相槌を打つ。島にも高校は一つだけあるけど、あまりレベルが高くなくて生徒の数も少ないので、寮生活をするか、二時間かけて船で通うかして本土の高校へ進学するのが一般的だ。
「俺、早くこの島出たいって思うけど、ほんと言うと、それと同じくらい出るのが怖いんだ」
「え?」僕は意外な気持ちで湊を見た。湊は僕と違って、小さい頃から何をするにも物おじしなくて、人見知りもしなくて、どんどん広い世界を切り開いていくものだと思っていたから。
「こんな小さい世界しか知らないのに、外に出たらどうなっちゃうんだろうな。いい方に変われればいいけど、だめになっちゃうかもしれない。今朝のあの魚みたいに……」
「そんなことないよ!」
思わず大きい声で言ってしまったけど、夢中で続けた。
「外の世界に出たって、ここでこれまで過ごしてきた時間が消えるわけじゃないだろ。湊はいつだって強くてかっこよかった。僕はずっと側で見てきたから分かるよ。変わるとこもあるかもしれないけど、根っこのところでは、きっと湊は変わらない」
海に入ってはしゃいだせいだろうか。夕闇で、顔がはっきりと見えてないせいだろうか。いつもは言えないような本心が口からこぼれ出た。引かれたんじゃないかと少し心配になった時、「佑真……」と名前を呼ばれて、そっと抱き寄せられた。冷えた体に湊の温もりを感じる。苦しいくらい、胸がドキドキした。
「佑真の方が強いよ。一見頼りなさそうなのに、俺なんかよりずっと芯が強い。俺、佑真の側にいるとすげえ安心するんだ。これからもずっと一番近くにいて、俺のこと見ててくれないか?」
それはあまりにも自分に都合が良くて、思わず耳を疑ってしまうような言葉だった。湊の声は少し震えていて、僕と同じくらい鼓動が早くなっているのが伝わってくる。湊の言った意味が飲み込めてくると、喜びが胸にこみ上げてきて体が震えた。
僕は湊の背中に腕をまわして、「うん……。僕もずっと湊の側にいたい」と、ちょっと涙声になりながら答えた。

湊は僕を家の前まで送ってくれた。別れ際、「今日はありがと。楽しかった」と僕が言うと、湊は「お互い勉強がんばって、いっしょの高校行こうな」と言って、おでこに触れるようなキスをした。顔を赤くして「うん」と頷く僕に、湊は照れたように笑いながら「おやすみ」と言って、自転車をこいで帰っていった。
寝る前に部屋で一人、今日一日のことを思い出してみる。今朝のことが、まるで遠い昔のことのように感じられて、不思議な気分だった。
明かりを消すと、暗闇が部屋を満たした。僕は深い海の底を思いながら眠りについた。



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