人狼の村 (人狼ゲーム)※△

文字数 13,693文字

美しい夏の朝だった。午前6時を告げる教会の鐘が、澄んだ空に響いている。
「俺じゃない! 信じてくれ!」
「嘘をつくな! お前がイザベルの家に入っていくのを見たやつがいるんだ!」
最後まで無実をうったえながら、農夫のジョンが村を追放された。今朝、食堂の看板娘イザベルが、自宅で食い殺されているのが発見されたのだ。
教会前の広場には、子どもたちや、赤ん坊をかかえた母親、体の不自由なお年寄りなどをのぞき、ほぼ全ての村人が集まっている。情報を出し合う中で、夜中にジョンがイザベルの家に入っていったと誰かが言い出し、他に手がかりもないまま、多数決により、ジョンの追放が決まってしまった。誰もジョンをかばおうとする者はいない。下手にかばえば、今度はその人に疑いの目が向けられてしまうのだ。

「マックス、だいじょうぶ?」
ぼくは群衆の中、青い顔でたたずんでいる幼馴染を見つけ、近寄って声をかけた。マックスはぼくと同い年でまだ十八だが、独立して食堂を経営しているしっかり者で、明るい金色の髪に、人好きのする笑顔のハンサムだ。亡くなったイザベルは彼の店で、ウェイトレスとして働いていた。彼女も美人で社交的な性格だったので、店はいつも楽しい会話と笑い声の絶えない、村人たちの憩いの場だった。
「ああ、セオ。なんだかまだ信じられないよ。イザベルがもうこの世にいないなんて」
ふだんは周りを気遣い、明るくふるまっているマックスも、さすがに同僚を失ったショックをかくしきれない様子だった。

事のはじまりは二週間前。
ここは中世から残る城壁に囲まれた、小さな美しい村だ。村人はみな顔見知りで、犯罪などとは無縁のはずだった。しかしある朝、鍛冶屋のダニエルが遺体で発見され、村は突如として恐怖につつまれた。遺体ははげしく損傷しており、狼のような獣のしわざに違いないと思われた。
村を囲む城壁は、古いが堅牢そのもので、入り口が二か所ある。見張りは立てているものの、平和な村のことで、目を離すこともあったため、獣がいつのまにやら入りこんだ可能性はある。だとしても、夜間は門扉を閉ざしているので、それはまだ村の中にいるはずだった。しかし、村人総出でくまなく捜索したにもかかわらず、獣も不審者も見つからなかったのだ。信じたくなかったが、ダニエルを殺したのは村人の誰かということになる。
その日から、入り口の見張りを強化したが、悲劇はそれだけにとどまらなかった。次の朝、今度は農家の娘、エマが納屋で死んでいるのが発見され、やはり獣に食い殺されたとみられた。その日も人家のすみに至るまで捜索が行われたが、何も発見されなかった。
そして次の朝、また同じ惨劇が繰り返され、やはり村人の中にケダモノが紛れ込んでいるのだと、信じざるをえないことになったのだった。
人狼――姿を見たものはいないが、誰からともなく、このケダモノをそう呼ぶようになった。それは村に古くから伝わる話で、狼の化け物が、喰らった人間の姿形のみならず、記憶まで写し取ってその人になりすまし、夜になると正体をあらわして、村人をひとりずつ食い殺していくというものだ。それ以来、そのおぞましいイメージは、ぼくたちの心を恐怖でとらえ、片時も放してはくれない。
さらに恐ろしいことは、疑心暗鬼にかられた村人たちが、確証もないままに犯人さがしをするようになってしまったことだった。
四人目の犠牲者は、村長の息子さんで、役場で経理を預かっていたキャンベルさんだった。それまで冷静だった村長は、人が変わったように半狂乱になり、今日のようにほぼ全ての村人をここに集めた。推測の域をでない議論が繰り広げられたあげく、多数決という乱暴な方法で犯人にされてしまった人は、着の身着のまま、村を追放された。近隣の村にはすでに噂が伝わっていて、出入りを固く禁じられてしまったし、村を取り囲む森には、本当に野生の狼が生息している。武器も食料も持たずにうろつけば、もって数日だろう。
信じがたいことに、これによってかりそめの安心感を得た人は少なくなかった。冷静に考えればおかしいと分かるはずなのに、それができない人があまりに多かった。それほどまでに、人々は恐怖で追い詰められていた。
また次の日、人狼による犠牲者が出ると、多数決で犯人をひとり決め、追放した。これが暗黙のルールとなり、たった二週間で、村全体の一割近くにものぼる人たちが、人狼の犠牲となるか、追放されるかして、いなくなってしまった。

裁判が終わり、両腕をつかまれ、引きずられるようにして連れていかれたジョンの姿が見えなくなると、人々は散り散りになって仕事に向かった。こんなときでも食べていかなければならないし、それぞれにやるべき仕事はあった。仕事に向き合うことで、なんとか心を保っていられたのかもしれない。
ぼくとマックスは、広場が閑散としたあとも、動く気になれずに立ち尽くしていた。
「セオ。マックス」
ジョセフ神父のすらりとした姿が近づいてきた。黒い法衣に黒髪の、おだやかなたたずまいで、整った容貌に悲痛の色を浮かべている。
「神父様」
「イザベルのことは残念でした。とてもいい子だったのに……。二人ともまだ若いのに、よく耐えて村のために勤めを果たしてくれていますね。しかし時には辛さを吐き出すことも必要です。いつでも教会に来てくれてよいのですからね」
そういうジョセフ神父だってまだ若い。初等学校で、ぼくとマックスの上級生だった。優しく、成績優秀でいつも主席。町の神学校へ進んで卒業し、戻ってきて三年ほどになる。ふだん物静かな方だが、この惨事の中、村人の心の支えとなるべく、何かと気を配ってくださるのだ。
「ありがとうございます。神父様も、どうかご無理なさらず」
マックスが丁寧な言葉をかえすと、ジョセフ神父は軽くうなずいて教会へ引き返していき、ぼくとマックスも重い足取りで広場を後にした。

古い石造りの家並み。豊かではないが、歴史ある美しい村は、皆の誇りだ。広場からつづく、緩やかな石畳の坂道を下っていくと、その中ほどにマックスの食堂はある。
「今日、明日は、店閉めることにしたから。パン買ってやれなくて、ごめんな」
マックスは、こんなときだというのに、ぼくを気遣って痛々しい笑顔をみせた。
「そんなこと気にしないでよ。無理しないで休んでね」
そこから五分と歩かないうちに、自分の店につく。両親の残してくれた小さなパン屋だ。マックスは食堂で出すパンを、ぼくの店から買ってくれている。父はぼくが幼いころ亡くなり、母が女手ひとつで店を続けながら、ぼくを育ててくれた。その母も二年前に亡くして以来、ぼくはひとりで店を営みながら、二階に寝起きする暮らしを続けている。
厨房の壁にかかった写真には、若いままの両親の幸せそうな姿がある。母の腕に、赤ん坊のぼくが抱かれている。少し癖のある栗色の髪は、母ゆずりだ。
調理台の上には、明け方こねて、布巾をかぶせて寝かせておいた生地がある。手を洗い、生地をちぎって丸め、天板に並べていく。作業は体にしみついているので、何も考えなくても、ほぼ同じ形と大きさに仕上がる。窯に薪をくべ、天板を入れる。甘く香ばしい匂いが、厨房を満たしていく。パン屋の仕事はもともと好きだが、今はとくに、ずっと働いていたいくらいだ。こうしている間は、恐ろしい事件のことを忘れられる。
「セオ、もうやってるかい?」
焼きあがったパンを棚に並べていると、入り口のドアが開いて、ネルソンさんの人のよさそうな笑顔がのぞいた。近所に住んでいる、白髪交じりの初老の男性で、両親の代からのお得意さんだ。
「おはようございます、ネルソンさん。ちょうど今焼きあがったところですよ」
「どれもうまそうだね。そうだな、今日はロールパンを四つもらおうか。セオのパンは毎日食べても飽きないよ」
「いつもありがとうございます」
紙袋にロールパンを入れ、ネルソンさんに渡す。ネルソンさんはお代をぼくの手ににぎらせると、「それじゃ、また」と言って店を出て行った。

朝は仕事に向かう前に寄ってくれる人たちが、ひっきりなしに訪れる。それがおさまると、今度は家庭をもつ女の人たちが買いにきてくれる。そのあと夕方までは、ほとんど人のやってこない暇な時間になる。
店のカウンターの中で本を読んで時間をつぶしていると、厨房の勝手口から声がした。
「セオ! いつものところに置いておくぞ」
低いが、よく通る声だ。厨房をのぞくと、粉屋のレジーさんが、たくましい肩に大きな小麦粉の袋をかついで運び込むところだった。無造作なグレーの短髪に、男らしい引き締まった顔だちの、とても無口な人だ。正確な年齢は知らないが、ぼくより十歳くらい年上ではないかと思う。三か月ほど前、ふらりとこの村にやってきて、ずっと使われていなかった村はずれの水車小屋を修理して住みついてしまった。
この村は生まれたときから住んでいる人ばかりで、旅人さえ珍しい。少し前に、中年の女性がひとりで村を訪れたことがあったが、その時はその人の噂でもちきりになったものだ。ましてや新しい住人となると、めったにあることではない。村人たちはレジーさんに好奇の目を向けたが、必要最低限のことしか話さないうえ、威圧的な雰囲気があるので、誰もしつこく詮索することはできなかった。だから彼がどこで何をしていた人なのか、知っている人はいないのではないだろうか。
それまで農家がしていた製粉作業を、レジーさんは一手に引き受けるようになった。仕事の速さも質も格段に上がったので、ぼくたちパン職人にとっては、とてもありがたい存在だった。
「レジーさん、あの、小麦粉、すごく品質が良くて、パンがおいしくなったって、お客さんからも好評なんですよ」
「悪いが、話をしてる時間はないんだ」
「す、すみません。これお代です」
レジーさんはぼくの手からお代を受け取り、「どうも」とそっけなく呟き、行ってしまった。今日も話せなかったなと、その広い背中を見送りながら思う。悪い人ではなさそうだけど、なぜもっと打ち解けようとしてくれないんだろう。

夕方のお客さんも落ち着き、パンもほぼ売り切れてしまうと、入り口に閉店の札をさげて、店じまいした。マックスはどうしているだろう。気になって様子を見に行くことにした。
夕日が空を赤く染めている。歩いていると、涼しい風が頬にふれた。ここは標高が高いため、夏でも過ごしやすいのだ。
「マックス? いるの?」
「セオ」
マックスは、薄暗い店内でぼんやりテーブルに肘をついていたが、ぼくを見るとふらりと立ち上がって歩み寄ってきた。と思うと突然、つよく抱きしめられ、小柄なぼくは、マックスの腕の中にすっぽりおさまってしまった。驚いて身じろぎすると、さらに激しく抱きすくめられる。
「セオ、セオ!」
「マックス……」
イザベルのことが相当こたえているのだろう。無理もない。昨日まで、彼女はここで明るい笑顔をふりまいていたのだ。ぼくだってすごくショックだった。村がこんなことになって二週間、恐怖で感情が麻痺してしまったみたいに感じていたのに、身近な人が犠牲になった今、まるで心に大きな穴が開いてしまったように辛い。いっしょに働いていたマックスの悲しみは、その比ではないはずだ。ぼくはマックスの背に手をまわして、触れるようにとんとんと叩いた。次第に腕の力がゆるんで、マックスは体を離してぼくの顔を優しくのぞきこんだ。
「ごめんな、突然。驚いただろ?」
「いいんだよ。こんなことで良ければ、いつでもしてあげるよ」
「こんなに突然、人っていなくなるんだな」
マックスは目を細めて、ぼくの頬に手をそえた。
「セオ……おれといっしょに暮らさないか? もしお前に何かあったらと思うと、怖くてしかたないんだ」
突然の申し出に、ぼくは少し面喰らって答えた。
「でも、店もあるし、そんな急には決められないよ」
「お願いだ。セオ、おれ、ずっとお前のことが……」
きれいな青い目が、いつになく熱をおびてぼくを見つめている。胸に痛みを感じるほど、鼓動が高鳴った。
「ごめん、マックス。少し考えさせて」
「返事待ってるから」
マックスの声を後ろに聞きながら、逃げるように食堂を後にしてしまった。

無意識に、教会の裏手にある墓地へと足が向いていた。両親のお墓の前でお祈りを捧げてから、どう返事をしようか考えた。こんな時、マックスに相談できたらいいのにと思いかけて苦笑する。そのくらい、身近でかけがえのない存在だということだ。だけどあの言い方じゃ、マックスはぼくに対して、それ以上の関係性を望んでいるみたいだ。優しい彼に愛されていっしょに暮らすのは、きっと幸せに違いない。でも、村がこんなことになって、ぼくもマックスも、普段どおりの判断力があるとはいえないかもしれない。こんな状態で大切な決断をしてしまっていいのだろうか。マックスはそれで後悔しないだろうか。
「セオ? 日が暮れると危ないですよ」
「神父様」
声がして振り向くと、ジョセフ神父が心配そうにぼくを見ていた。
「大丈夫ですよ。主がきっと助けてくださいます。ご両親も、天国であなたを見守っていらっしゃいますよ」
ジョセフ神父は、優しく微笑んでぼくの肩を抱いた。
当然だがジョセフ神父は、ぼくが事件のことを気に病んでここに来たのだと思ったらしい。マックスのことを考えていたなど、言えるわけもなく、事件のことで気になっていたことを聞いてみようと思った。他の人とは話せないような辛い話題も、この人ならきっと受けとめてくれると思えた。
「神父様は、あれが本当に人狼の仕業だと思われますか? あんな空想じみた伝説が、本当だなんてことがあるんでしょうか?」
黒い瞳が、憂いの色をおびる。
「たしかに信じがたい話ですが、私はそうではないかと考えています。この村にあんなむごいことができる人間がいるとも思えないし、外から誰かが入り込むことも不可能なんですから」
「そうですか……。もし伝説のとおりだとしたら、占い師や狩人のような、特別な力を持った人たちもいて、いつか人狼の正体をあばいてくれるんでしょうか」
「私には分かりません。ですが、そう信じることにしましょう」
ジョセフ神父はそう言って、悲しげな笑顔を浮かべた。
ほんの少しの間だったが、ジョセフ神父と話したことで、不思議と安らいだ気持ちになったのを感じた。気づけば、夕闇が村を包みこんでいる。見上げると、森へ帰るのであろう鳥の影が、連れ立って空を横切っていった。教会前の広場も、人影がまばらになっていた。ぼくもジョセフ神父に挨拶し、家路につくことにした。
また夜がやってくる。今夜も犠牲者は出るのだろうか。いったいいつになったら、この悪夢から解放されるのだろう。

次の朝、ぼくたちはまた広場に集められた。農家のトンプソンさんが犠牲になったことが、事務的に告げられ、またいつものように、信ぴょう性のない話が口々に語られた。
「ネルソンが怪しい。トンプソンとは親しかったはずなのに、議論にまったく加わろうとしない」
「そうだ、あいつが発言してるのを聞いたことがない」
ぼくのすぐそばで、いつのまにかそんな話が持ち上がり、ネルソンさんが輪の真ん中に引きずり出されてしまった。
「違う! おれはやってない!」
「誰だってそう言うさ。だが証明はできないだろう」
「それを言うなら、おれがやったという証明だって、できないだろうが!」
「だが、村人の中にいることだけは確かなんだ。怪しいやつから追い出すしか方法がないだろう!」
このままではネルソンさんが犯人にされてしまう。ぼくはいてもたってもいられず、気が付いたらみんなの前に出て行って叫んでいた。
「待ってください! ネルソンさんは、毎日ぼくの店にパンを買いに来てくれてるけど、どこにも変わったところはありません。彼は人狼なんかじゃない!」
冷たい目が、いっせいにふりそそぐのを感じる。
「なぜかばうんだ? おまえら、仲間だな?」
「違います! そもそも、こんな裁判、まちがってますよ!」
「裁判をされては都合が悪いのか? さてはお前が人狼だな」
数人の男たちにあっというまに取り囲まれ、腕をつかまれる。
「やめろ、セオを放せ!」
マックスが、男たちの手からぼくを引き戻そうとしてくれる。
「皆さん、落ち着いてください。この子はだまって見ていられなかっただけです。人狼ではありません」
ジョセフ神父も彼らをなだめ、ぼくを助けようとしてくれた。
しかし彼らの興奮はおさまらず、大勢の力で、引きずられそうになった。
「その子に触るな! おれが人狼だ。おれを追放しろ」ネルソンさんが、ぼくを捕まえている腕にとりすがった。
「ネルソンさん!」
「もともとおれを疑っていたんだろう? なのにおれを追放しないでその子を追放するなんて、おかしいじゃないか」
男たちは互いに顔を見合わせた後、ぼくを放してネルソンさんを捕らえた。
「セオ、おまえへの疑いが晴れたわけじゃないからな」
「ネルソンさんじゃない! ネルソンさんを放せ!」
「セオ、だめだ!」「セオ、どうか自分を大切にしてください」マックスとジョセフ神父が、暴れるぼくを抑えた。
「いいんだ、セオ。ありがとう」
ネルソンさんは最後にぼくに笑顔をみせると、男たちに連れられて門の方へと歩いていった。少し前かがみの見なれた後ろ姿が、遠ざかっていった。

人前にもかかわらず、ぼくは涙を抑えることができなくて、うつむいて、声を殺して泣いた。
「おれも悔しいよ。ネルソンさんは、うちの店にもよく来てくれてた。本当にいい人だったのに」
マックスがぼくの肩を抱いてなぐさめようとしてくれていた。
「セオ、危ない!」
後ろでジョセフ神父の叫び声と、誰かが走りよってくる足音がした。
驚いてふりむくと、ジョセフ神父がこちらに背を向けて誰かと揉みあっている。
「人狼め、よくもうちの人を!」
殺されたトンプソンのおかみさんが、包丁をふりまわしているのだ。恨みのこもった目が、ぼくの胸を貫いた。
周りにいた人たちがかけよっておかみさんを抑え、なだめながらどこかへ連れていった。その間もおかみさんはぼくを振り返りながら、わめきつづけていた。
ぼくはショックで涙もひいて、茫然と立ちつくした。ジョセフ神父のあたたかい手が、肩に置かれた。
「かわいそうに。落ち着くまで、教会で休んでいきなさい。マックス、セオのことは私にまかせてください」
マックスは心配そうな顔でぼくを見ていたが、ジョセフ神父にまかせることに決めたらしく、「セオをお願いします」と言って頭を下げ、広場を去った。

薄暗い礼拝堂に、ステンドグラスが淡い光を落としている。どこかジョセフ神父に似たマリア様の像が、悲しそうにぼくを見ていた。
ジョセフ神父はずっとぼくの肩を、優しく抱いてくれていた。
「ネルソンさんを助けられなかった。あんな裁判、ぜったい間違ってるのに」
自分でもおどろくほど弱々しい声だった。
「私もそう思いますよ。じつは村長に再三申し入れをしているのですが、私のような若輩者の言うことなど、聞く耳を持ってもらえないのです。頼りにならなくて申し訳ありません」
「そんな! 神父様のせいじゃありません。神父様がいてくださって、ぼくはどれだけ救われているか分かりません」
ジョセフ神父は、ぼくの頭を胸に抱きかかえるようにした。細く見えるのに、意外なほどしっかりとして力強かった。守られているのだという安心感に包みこまれる。
「ありがとう、セオ。私は聖職者失格です。本来私が、人々の心のよりどころであるべきなのに、こんなにもあなたに癒されてしまっている。あなたは私の天使だ」
ぼくは黙ったままその胸に抱かれていた。ジョセフ神父の言葉と体の温もりとが、傷ついた心をじんわりと癒していった。

「今日は店を開けずにじっとしているんですよ」
ジョセフ神父は、ぴったりと寄り添うようにして店まで送り届けてくれた。まるで保護者みたいだ。恥ずかしさと申し訳なさで、顔が熱くなる。
「はい。本当にお世話になってしまって……。ありがとうございました」
今日はお客さんも来ないだろうし、神父様の言うとおり、戸締りをしておとなしくしていようと思ったときだった。勝手口をどんどんと叩く音がして、おそるおそるドアを細く開いてみると、レジーさんが立っていた。
「レジーさん、どうしたんですか? 小麦粉なら、まだこんなに……」
レジーさんは、突然ドアを開いて厨房に上がり込むと、ぼくの両手首をつかんで、すごい力で壁に押さえつけた。
「何するんですか!」
冷たい目で見降ろされ、本能的な恐れを感じた。体格の差は歴然としていて、押し返してもびくともしない。レジーさんは、ぼくの耳元に顔を近づけ、低くうなるように囁いた。
「今朝のは、なんのまねだ? 人をかばうとは、ずいぶん余裕があるじゃないか。おまえ、まさか本当に人狼か?」
「違います! やめてください!」
「おれが怖いか? 人狼なら、正体をあらわしたらどうなんだ?」
「セオに触るな!」
マックスの声だ。レジーさんの腕をつかんでひきはがし、ぼくをかばうように間に割って入った。
「おまえも余裕だな。人狼はおまえか?」
「違う! おれもセオも人狼じゃない!」温和なマックスが、今まで見せたことのないような鋭い目でレジーさんをにらみつけている。
「口だけなら、なんとでも言える」
レジーさんはそう言い捨て、マックスを押しのけて出ていった。
「セオ、大丈夫か? あいつ、よくもセオに!」
マックスは、震えているぼくの肩を抱き、背中をなでてくれた。少し恥ずかしかったけど、安らいで、気持ちがよくて、そのまま甘えていた。
「少しは落ち着いた?」
「ありがとう、もう大丈夫だよ」
優しいマックス。小さい時からいつも傍にいて、ぼくのことを助けてくれる。できるかぎり誠実な返事をしたい。
「昨日のことだけど、こんな時に大事なことを決めない方がいいと思うんだ。マックスだって、元の日常に戻ったら、気持ちが変わっちゃうかもしれないだろ。せっかく言ってくれたのに、ごめん。でも、マックスのこと大切に思ってるから、それだけはわかってほしい」
「……わかったよ。無理強いはしたくないからな。けど、おれの気持ちは変わらないよ」
マックスは困ったような笑顔を見せて、ぼくの髪をくしゃっとかき回した。

マックスが帰ってしまうと、戸締りをしてひとりですごした。あるもので夕食をすませ、身支度をしてベッドに入った。
何時くらいだろうか。階下でがたんという物音が聞こえ、浅い眠りから覚めた。ベッドの上で半身を起こし、周りの様子を伺う。窓の木戸を閉めているので、室内は物の輪郭がかろうじて分かるくらいの暗さである。
階段の軋む低い音が近づいてきて、ドアの前で止まった。獰猛な獣を思わせる、荒い息遣いが聞こえる。蝶番が音をたてて、ドアがゆっくりと開く。そこに、人間のようだが、それにしては異様に大きな、見なれない形の影が立っていた。
床を蹴る音がして、影がこちらに向かって軽々と跳びかかってきた。肩をつかまれ、あっけなく押し倒される。ベッドが壊れそうなくらい大きく軋んだ。
恐怖で金縛りにあったように、声も出せず、体も動かせない。喉元にするどい爪の先があたり、布のさける音とともに、体に衝撃を感じた。シャツをやぶりとられたのだ。あらわになった胸から首すじへ、獣の大きな舌が這い上がり、耳元に熱い息がかかる。それは、唸るようなしわがれた低い声で、人の言葉をしゃべった。
「かわいいセオ。追放などさせない。ゆっくりと味わって食ってやるよ」
ひと思いに殺さず、苦痛を与えて楽しむつもりなのだろうか。涙が、目尻からこぼれてこめかみを伝った。
はじけるような音が鳴り、獣が驚いたようにぼくから離れた。恐怖のあまり意識がぼんやりしていたので、それが銃声だと気づくのに少し間があった。
獣が木戸を破るように押し開けた。月明かりがその恐ろしい姿を映しだす。暗い色をした毛におおわれ、頭の上に尖った耳がある。巨大であることと、二本足で立っていることを除けば、それはまさしく狼だった。獣が窓から飛び降りた。物音がしてドアの方を向くと、誰かが走りさる後ろ姿がちらりと見え、階段をかけおりる音が遠のいていった。
ぼくはそのまましばらく、動けずにいた。

開いたままの窓から朝日がさして、まぶしさに目がさめた。いつのまにか眠ってしまったらしい。まるで悪い夢でも見たようだったが、ぼくは裸で、やぶれたシャツが床に落ちている。勝手口のドアは、蝶番が外れて、部屋の内側に倒れていた。
店の玄関に役場の若者が顔を出し、また広場に集まるようにと指示を伝えていった。
「おはよう、セオ。一人じゃ危ない。広場までいっしょに行こう」
広場とは反対方向なのに、マックスがわざわざ迎えに来てくれた。
人々の心とは無関係に、今日も雲一つない青空だ。
よけいな心配をかけたくないので、夕べ起きた出来事は黙っていることにした。マックスも、何か考え込んだ様子で、ほとんど口をきかなかった。

広場には、すでに大勢の人が集まっていた。ジョセフ神父の姿もある。ぼくに気づいて、安心させるように優しく微笑みかけてくれた。
村長から、今朝は死体は発見されていないと発表があった。この二週間で始めてのことだ。
しかしぼくを見る村人たちの目は、昨日と同じだった。
「こいつをどうする?」
「追放しておいた方がいいだろう。昨日は疑いをかけられたから、おとなしくしていただけかもしれん」
昨日の男たちが、マックスを押し退け、ぼくを取り囲んだ。
「そいつは人狼じゃない」
声がして、皆の目がそちらに注がれた。レジーさんが、群衆をかきわけて傍にやってきて、ぼくを囲んでいる男たちをにらみつける。その迫力に、男たちがたじろぐのが分かった。
どうしてレジーさんが、ぼくを庇うのだろう。昨日はぼくを疑っていたはずなのに。
「そうだ、セオは違う。誰が人狼か、おれは知っている」
続いてマックスが、固い声でそう口にすると、場にざわめきが起こった。
ぼくもやはり、驚いて彼を見た。無表情で、一点を見つめている。どうしたんだろう。何を言い出すつもりなんだろう。
「どういうことだ?」
「おまえ、自分が伝説の占い師様だとでも言うつもりか」
「べつにそういうわけじゃない。前に女の旅人が村に来たことがあったのを覚えているだろう」
「ああ、一年くらい前だったか? それが?」
「おれが一人で店にいたとき、その人が来て、おれにある鏡を渡して言ったんだ。これは真実の姿を映し出す鏡で、近くこれが必要になるから、誰にも言わずに持っているようにと。鏡といっても、古い金属の板のようなもので、曇っていて何も映らない。ばかげた話だったが、おれはその人の言葉にのまれてしまい、だまってそれを受け取った。最初の殺人が見つかった日の夜、鏡のことを思い出して、引っぱり出してきて覗いてみたんだ。すると何も映らないはずの鏡に、セオの顔が映った。おれは旅の女の話と考え合わせてみて、この鏡は、思いうかべた人間の本当の姿を映すのではないかと思った。その時ちょうどセオのことを考えていたからだ。次の晩、父親のことを考えながら鏡を覗くと、やはり父親が映った。どうやら一晩に一人見ることができるらしい。それから母と、兄弟と、イザベルを順に見ていったが、結果は同じだった」
にわかには信じられないような話だ。だけど、マックスがそんな作り話をするような人ではないことは、ぼくにはよく分かっている。
「それがほんとだとしたら、なんでもっと早く言わなかったんだ」
「言えなかったんだ。相手の尻尾を掴む前に、下手にそんなこと言えば、おれが殺されて終わりだろ。その次はレジーさん、あんたを見てみた」
マックスはそう言ってレジーさんを見た。
「おれたちはあんたのことを何も知らないからな。だが鏡に映ったのは本人の顔だった。ほかに特別に怪しい人間というのは思いあたらなかったから、犠牲者の身内を何人か見てみたが、みな違った。そして昨日、ついに人狼の姿が映った。その時思い浮かべたのは……」
一瞬、言いよどんだあと、ふりしぼるような低い声で告げた。
「ジョセフ神父、あなただ」
そんなこと、ありえない。たとえマックスの言葉でも、ぼくの心は全力でそれを否定した。あんなに優しくて、周囲に安らぎを与えてくれる人が、人狼であるはずがなかった。
「マックス、どうしたの? なんでそんなこと……」
「セオ、マックスには、きっと何か考えがあるのですよ」
ジョセフ神父は、なおもぼくに微笑みかけている。
「昨日、セオに疑いがかけられた後も、あなたは全く態度を変えず、二人きりになるのを恐れなかった。最初は、さすが神父様だと思いましたが、もしかしたらセオが人狼じゃないことを知っているんじゃないかと気になってきて、鏡を見てみたんです。あなたの顔は映らなかった。映ったのは化け物の顔だった」
「その鏡の話は、前にいた村でも聞いた。そいつの言ってることは本当だろう。それにそいつには嘘をつく理由がない。それが作り話だったとして、自分の首を絞めることになるだけなんだからな」
レジーさんが感情の読めない声で、マックスの発言を支持した。
たしかに、マックスが嘘をつくわけないけど、ジョセフ神父が人狼だなんてことも、あるはずがない。きっと何かの間違いなんだ。
ぼくはすがるようにジョセフ神父を見た。ジョセフ神父は美しい眉を寄せてぼくを見ている。
「セオ、信じてください。私ではありません」
「マックス、その鏡は本当に信じていいの? 神父様が人狼だなんて、そんなこと……」
もう一度マックスを見ると、その隣で、レジーさんが猟銃を構えた。その時はじめて、レジーさんが背中に猟銃をかついでいたことに気づいた。スローモーションのように妙にゆっくりした動きに見えたが、実際には一瞬の出来事だったのだろう。
乾いた銃声が響いた。
ふりかえると、ジョセフ神父が倒れている。地面に血が広がっていった。
「神父様!」
ぼくはすぐに、ジョセフ神父の異変に気付いた。顔と手が、黒い毛に覆われている。細くしなやかだった指は、太く、鋭い鉤爪があった。うつろな金色の目を大きく見開き、宙を見ている。妙に付き出して耳まで裂けた口が、わずかに動いた。
「セオ……かわいい……食べたい……」
夕べ耳元で聞いた声だった。
ジョセフ神父の体が、痙攣しながら徐々に肥大化し、やぶれた法衣の下から、黒い毛皮の体が現れた。そこに横たわっていたのは、いびつで巨大な狼だった。

その日、教会の地下を捜索すると、ジョセフ神父のものと思われる人骨がみつかった。おそらく、彼が最初の犠牲者だったのだ。
ぼくが慕ったジョセフ神父は、人狼だった。本物のジョセフ神父を最後に見たのは、いつだったのだろう。どのような気持ちで、どの彼を思い出せばよいのだろう。悲しくても、涙を流すことすらできなかった。どこに怒りを向ければいいのかも分からない。恐ろしい人狼の姿を思い浮かべても、それはすぐに、優しいジョセフ神父の笑顔に変わってしまうのだ。

次の日、ぼくはひとりで水車小屋を訪れた。
絶え間のない水の流れが、水車をゆっくり回し続ける。水音が、やりきれない心をほんの少しだけ慰めてくれるようだ。
レジーさんは荷物をまとめているところだった。
「村を出て行ってしまうつもりですか?」
「ああ。人狼はあいつだけじゃない。次の村へ行くよ」
なんとなく、行ってしまうのではないかという気がしていた。きっと引き留めることなんてできないのだろうけど、何も言わずにはいられなかった。
「村に残ってもらえませんか? レジーさんは命の恩人です。恩返しさせてください」
「それはできない。そういう契約なんだ」
レジーさんは作業の手をとめず、ぼくの方を見ようともしなかったが、ぼくはかまわず話し続けた。
「あの晩、なぜ助けてくれたんですか? ぼくが人狼だと、疑っていたんじゃなかったんですか?」
「それを確かめるために脅しをかけたんだ。おまえは本気で怯えていた。演技には見えなかった。乱暴にして、すまなかったな」
「どうして、ぼくが襲われると分かったんです?」
「実をいうと、おれはマックスを疑っていたんだ。あいつは何か知っているように見えたからな。だとしたら、おまえが危ないと思った。勘ははずれたが、結果的におまえを守れてよかった。……おまえは死んだ弟に似ているんだ」
「弟さんに?」
「人狼に殺された。それでおれは狩人になって、人狼を追っているというわけだ」
不愛想な態度の下に、そんな重荷を背負っていたのだ。そう思うと、たまらない気持ちになり、思わず口走ってしまった。
「そんなことしていたら、いつか死んでしまいますよ! 弟さんだって、レジーさんに生きていてほしいはずです。お願いだから、行かないでください!」
レジーさんは手元から目を上げ、ぼくをにらんだ。
「おまえが口を出すことじゃない」
「ごめんなさい……」
出過ぎたことを言ってしまった。黙ってうつむいていると、レジーさんがすぐ目の前まで近づいてきた。
「悪かった。言い過ぎたよ」
そう言って、ぼくの頭をふわりと引き寄せ、抱きかかえた。
「少しだけ、こうしていてもいいか?」
弟さんを思っているのだろうか。その手はとても優しくて、温かかった。
しばらくそうしてから、レジーさんはぼくを放し、頭をぽんと軽くたたいた。
「セオ、おまえに会えてよかったよ。元気でな」
初めて見る笑顔。それがレジーさんとの別れだった。

それから数日が過ぎ、数週間が過ぎた。
村の外に捜索隊が出され、運よく生きて発見された人の中に、ネルソンさんが含まれていたことが、ぼくにとってはせめてもの救いだった。
村は表向き、日常を取り戻しつつある。触れてはいけない傷のように、だれもが事件の記憶は心の奥にしまったままで。
そして時の流れが、いつかはこの出来事も、昔話に変えてしまうのだろう。


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