星空とコーヒー

文字数 2,171文字

「おもしろいと思わないかい? 科学技術がどんなに進歩しても、人間の生活に関しては変わらないことの方が多いというのは。たとえばこのコーヒーも、昔から受け継がれてきた文化だ」
テーブルを挟んで向かいに座るアンダーソン博士は、そう言ってかすかに不精ひげの見える口元へカップを運んだ。
「うん。とてもおいしいよ」
一口飲んで満足そうな笑みを浮かべる。ぼくはほめ言葉に笑顔をかえした。
「お口に合ってよかったです。たしかに言われてみれば、変わらないことの方が多いかもしれませんね。変化に気をとられがちですけど」
ラウンジにはぼくと博士の2人だけだ。ここのテーブルは無垢のオーク材で、そのあたたかい手触りがとても気に入っている。
それにこの部屋には大きな天窓がある。夕食後、他のスタッフはサッカーのワールドカップ中継を見るため、大型テレビのある娯楽室へ向かったけど、ぼくはラウンジで過ごすことにした。照明を落として、天窓から星空を眺めながら、ゆっくり食後のコーヒーを楽しもうと思ったのだ。そこへ博士がやってきたので、彼の分も淹れてふるまった。
ブラックが苦手なぼくは、砂糖とミルクを入れてスプーンでかきまぜる。漆黒の液体に、白い渦が溶けてひろがっていく。
天窓を見あげると、オリオン座のリゲルが見えた。はるか遠くに、でもたしかに今見えている星の光が、じつは何百年も昔の輝きだということが、小さいころはどうしても理解できなかった。もっと知りたくて、近づきたくて、ずっと星空に憧れつづけてきた。
博士に視線をもどすと、こちらをじっと見つめていた。
「カズオミ、きみは本当に美しい。美しいものに惹かれる気持ちは、それこそ太古の昔から、ずっと変わらない」
そう言いながら手をのばし、テーブルの上に置かれたぼくの左手に重ねようとする。ぼくはその手をかわしながらぴしゃりと言い放った。
「博士! コーヒーが冷めますよ」
こういうところさえなければ、尊敬できる人なんだけどな。四十歳、独身。すっと鼻筋のとおった顔立ちは、黙っていればかなりのハンサムだし、物腰も優雅な人だ。若い女性スタッフたちから絶大な人気を得ているけど、博士は彼女たちに対しては、紳士的な距離感を保っている。なぜか一回りも年下の、男であるぼくにだけこういうちょっかいをかけてくるのだ。いまいち真意の読めない人だから、冗談なのか本気なのかもよくわからない。こういうときは、すげなくかわせばそれ以上は迫ってこない。始めこそとまどったものの、今ではあしらいも板についてきた。
「きみは相変わらずつれないねえ。まあ、そういう真面目なところもいいんだが」
博士が肩をすくめながら手を戻したそのとき、警報が鳴り響いた。
「システム障害が発生しました。至急確認してください」
「やれやれ、せっかくくつろいでいるところなのに」
博士は急にきびしい顔つきになって立ちあがり、コントロールルームへと向かう。助手であるぼくも、あわててその後を追った。いったい何事だろうか。スタッフの安全に関わるようなことでなければいいんだけど。心臓が、普段の倍くらいの速さで動いているようだった。

「また月塵による通信障害だったか。せっかくのコーヒーが冷めてしまったな」
アンダーソン博士はそうぼやきながら、ことも無げにカップに口づけた。彼は、新進気鋭の宇宙地質学者であり、一流の技師でもある。月面のロボットを遠隔操作して、ものの一時間ほどで復旧作業をすませてしまった。熟練の、芸術的ともいえる技だった。こういうとき、小さな子どもが父親を頼るみたいに、ぼくはこの人に絶対の信頼をよせているのだと思いしらされる。この美しくも無慈悲な宇宙の中で。
やっと手にいれた宇宙での仕事。奨学金を申請してまで宇宙物理学の博士号をとったというのに、なかなか希望の仕事が見つからず、もうあきらめようかと思っていた矢先だった。月面都市開発のための地盤調査を請けおった企業が、助手を募集していると知人に聞き、最後のチャンスとばかりに応募したのだ。専門とは少しちがうけど、とにかく宇宙に来たかった。調査員は三年の任期が終了するまで、ここ、月軌道上のステーションに滞在することになっている。
壁の時計が、無機質な光で時刻を告げている。グリニッジ標準時2070年12月1日20時。天窓には、まだ半分くらい欠けた姿で、地球が青く輝いている。
「はやく帰りたいな」
あれだけ憧れていた場所にいるというのに、そんな言葉がつい口をついて出て、少しはずかしさを覚える。博士はぼくにやさしい目を向けてほほえんだ。
「あと二年半だ。それまで仲良くやろうじゃないか。どうだい? 今夜ぼくの部屋でいっしょに過ごすというのは」
そう言いながら顔をよせてくる。またこれだ。さっきまでの凛々しい姿は、どこへ行ってしまったのか。
「まったく博士は……。せっかくさっきはかっこよかったのに、残念だな」
「なに? じゃあ今のは取り消すよ。やり直させてくれ。コホン……。もう一杯コーヒーはいかがかな? 今度はぼくが淹れるよ。よく眠れるように、ウィスキーなんかも加えてね」
芝居がかった調子でそんなことを言い、ゆるしを請う子どもみたいな目でこちらをうかがっている。その様子がおかしくて、思わず笑ってしまいながら答えた。
「ええ。喜んでご一緒させていただきます」

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