番外編 分光石(三/四)

文字数 3,684文字

「兄さんに知られたら、怒られるだろうなあ。でも、仕方ないか。あまり怪我とかは、させたくなかったんですけどね」
 青年はそこでなぜか、空に浮かぶ月を仰ぎ見た――かと思えば、息を大きく吸い込むと、犬の遠吠えの真似をした。
 茴香は思わずぎょっとする。そうしているうちにも、どこからか聞こえてきたのは、近づいて来る犬の息づかいとその足音。
 それは、音だけが真っ直ぐに男たちのところへと向かったようだった。そのうち犬のうなり声がしたかと思うと、ぎゃ、とか、何だ、とか悲鳴を上げながら、男たちがばたばたと倒れ始める。しかし、そこにいるだろう犬の姿は、どこにも見えない。
 何が何だかわからずに、茴香が問いかけるような視線を送ると、青年はにこにこ笑いながらこう言った。
「まあ、しばらく立てなくなるだけです。大した怪我じゃないですよ」
 よくわからないが、ちょっと怖い。茴香はそう思ったが、青年は平然とした顔でこう続ける。
「とにかく、警察が来る前に逃げましょうか」
 ここは大人しく従うことにして、茴香は青年の後ろをついて行った。茴香は知らなかったのだが、どうやら裏口のようなところがあるらしい。
 池のほとりを通り過ぎるとき、ふいに四阿の方で何かが動いた。どきりとしながらも、そちらの方に視線を向けると、青白く光る何かがあることに気づいて、茴香は思わず立ち止まる。
 いろいろあって、すっかり忘れていたが、そういえば、青白い光を見た、という話もあったような。
 息を詰めて見守る中、四阿の柱の陰から現れたのは細い脚と長い首を持つ水鳥。
 月明かりのせいで、その羽が輝いて見えたのだろうか。しかし、光の反射にしては異様なほどに明るいような。
 そんなことを思っていると、その水鳥は長いくちばしを開けて、そこから青白い炎を吐き出した。それをまといながら翼をはためかせると、水鳥は夜の闇へと飛び立っていく。
 茴香は驚きのあまり、ぽかんと口を開けた。
 青白い炎の尾を引きながら、水鳥は夜空の向こうへと消えていく。その姿を見送ってから、茴香はちらりと青年の方へと目を向けた。青年はその目をきらきらと輝かせながら、水鳥が去った方向を見上げている。
 彼はふいに、ほうと息をはくと、高揚したようにこう捲し立てた。
「もしかしたらって思ったんですが。やっぱりいたんだ。きれいだなあ。でも、驚かせちゃったみたいだから、もう戻っては来ないかな。惜しいなあ」
 彼の目当てはこちらの怪火だったようだ。茴香がぽかんとしていると、青年はうれしそうにこう話す。
「あれは青鷺火(あおさぎび)ですよ」
「青鷺火……?」
 青年は勢いよく、うなずいた。しかし、茴香のきょとんとした顔を見て、すぐにはっとした表情に変わる。
「すみません。わからないですよね。木も石も器物も、そして動物も……年を経ると化けるんです。だから、あれは幻想のもの。秘密ですよ?」
 よくわからないが、少なくとも茴香は話す石のことは知っていたので、そんなものか、と納得する。
 そうして、何とはなしにあの鳥のいた辺りに目を向けると、そこにまだ小さな光が残っていることに気づいて、茴香は無意識のうちに手を伸ばした。
 そこにあったのは、青白く光る炎――ではなく、石が嵌め込まれたブローチだ。手にとってみると、ひやりと冷たい。あの鳥が落としていったのだろうか。
「それは、ラブラドライト、ですね」
 青年はそう言った。
「ラブラドライト?」
「ええ。宝石ですよ。そんなに高価なものではないと思いますけどね。泥棒が落としたのかな」
 青年は茴香からラブラドライトを受け取った。その黒っぽい石を手のうちで動かすと、角度を変えるたびに、光が当たる部分だけが青く煌めいている。
 その不思議な輝きに、茴香は思わず目を奪われた。
「確か、曹灰長石(そうかいちょうせき)という種類で、分光石(ぶんこうせき)とも呼ばれているそうです。この青い光が、同じく構造色で青く見えるモルフォチョウに似ていたから、覚えていたんですよね」
「モルフォチョウ! 見たことあるの?」
 茴香はその言葉に、すばやく反応した。モルフォチョウは主に南米で生息しているあざやかな青い蝶のことだ。そのモルフォチョウが翔ぶ姿は、茴香がいつか見てみたいと思っている景色のひとつだった。
 青年は笑みを浮かべながら、こう答える。
「うちの家族は皆、生きもの好きなので。小さい頃から、いろいろと見て回りましたから――ともかく、これは疾風(しっぷう)に返してきてもらいましょうか」
「疾風?」
 茴香が問い返すと、青年はこう答えた。
「僕の犬ですよ」
 やはり犬がいたらしい。青年はラブラドライトのブローチを持って、木陰にしゃがみ込むと、それをそこにいる何かに手渡した――ようだった。しかし、やはり犬の姿は見えない。
 何だかふれてはいけないような気がして、茴香はそれ以上何も言わなかった。


 表の道路に出た茴香たちは、早々に洋館から遠ざかっていった。途中、パトカーとすれ違ったので、あの泥棒たちはおそらく捕まるだろうと思う。
 夜半も過ぎていたので、茴香は青年に送ってもらうことになった。道中、モルフォチョウを現地で見たという彼の話で盛り上がる。
 その間、ずっと後ろの方でひたひたと犬の足音がついて来ていた。おそらく、彼の犬だろう。よほどの人見知りなのか、やはり姿は見えないが、彼の方は気にする様子もない。
 長い道行きで話題が少し途切れると、ふいにさっきまでのことが思い返されて、茴香は思わず黙り込んだ。冷静になると、自分の行動の危うさに、今さらながらひやりとする。あらためて考えると、あの泥棒たちのことを笑えはしないな、と茴香は思った。
 どうかしましたか、と青年が言うので、茴香は思わず苦笑する。
「今さらだけど、やっぱり無謀だったなって。あたし、いつも考え無しで。これじゃあ、あの泥棒たちと変わらないね」
「でも、あなたはお友だちのために、怪火の正体を調べに行ったんでしょう? あの人たちとは違いますよ」
 茴香は小さく肩をすくめた。
「それでも、人に迷惑かけているようなら、結局は同じことだよ。今回はあなたに助けられたから何とかなったけど……こんなことじゃ、ダメだなって思うし」
 そのとき茴香の頭の中にあったのは、自分が抱く夢のことだ。けれども、それは自分でも叶えられるかどうかわからないような、手に余るほどの夢だった。
 今のところ、その夢を話したのはひとりだけ。家族にも他の友人たちにも、何となく笑われるような気がしていたから。
 だからこそ、こんな弱音を知らない人に話していることも妙な感じだった。あるいは、知らない人だからこそ、話せているのかもしれないが。
 何かの答えを期待していたわけではなかったけれども、青年は笑い飛ばすこともなく、こう返した。
「失敗なら、僕にも覚えはありますよ。今だって、至らないところは多いですし。ただ、そのせいで気後れしまうと、本当に何もできなくなってしまいます。だから、うまくいったことは、うまくいったな、でいいんですよ。ダメだと思ったことだけ、反省していれば」
 よく知らない相手なのに、励まされてしまった。何だか照れくさくなって、茴香はごまかすように話題を変える。
「そっか。そうだよね……昔のことを思い返すと、どうしてもダメだったなってことが多いんだけれども、そうした中にも、よかったと思える欠片はある気がする。そのことを、ちょっとだけ思い出したよ」
 茴香は無意識のうちに、遠い昔の記憶を思い起こしていた。今の自分に続いている、茴香にとっての忘れがたい過去を。
「何だか、夢みたいな話なんだけどね。小さな頃に、すごくきれいな庭を見たことがあって。何だろう。桃源郷みたいな感じ? 桃源郷を見たことあるわけじゃないんだけど……その景色が、ずっと心の中に残ってるんだよね」
 茴香のとりとめもない話を、青年は黙って聞いている。
「そんなことがあって、あたし、世界中のいろんな風景を見たいなって思ってるんだ。あのときの景色をもう一度見たいってわけじゃないんだけど――たぶん、あそこにいた人たちには、あたし、嫌われてるだろうし――でも、あたしはきっと、あのときのことを嘘にはしたくないんだと思う」
「桃源郷、ですか……それは不思議な話ですね」
 青年の反応に、茴香は思わず苦笑する。
「変な話でしょ? 自分でも、夢みたいだなって思ってる。そういえば、あの庭を世話していた人も、少し変わってたかな。右腕にある――刺青? それが真っ黒に見えて……」
「――え?」
 青年がふいに表情を曇らせたので、茴香は首をかしげた。
「どうかした?」
 茴香が問い返すと、青年はすぐさま、にこにことした顔つきに戻る。
「いえ。何でもありませんよ」
 そうこうしているうちにも、いつの間にか下宿先についていた。お礼を言って別れるときになって、茴香はようやく大事なことを忘れていたことに気づく。
 慌てて引き返して、茴香は彼の背にこう問いかけた。
「あたし、笹谷茴香。あなたの名前、聞いてなかった」
隼瀬(はやせ)伊吹(いぶき)です」
 茴香の声に振り向きながら、青年はそう名乗った。
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