第二十二話 閃亜鉛鉱(三/六)

文字数 4,048文字

「お願いだから、もうここには来ないで」
 そんな言葉とともに腕を引かれたのは、部室棟にある例の部屋の前だった。
 姉が所属していたサークル、古都文化研究会――その部室に花梨が入ろうとした、まさしくその直前。
 現れたのは、茴香と一緒に訪れたときにも声をかけてきた先輩だった。あのときは、どうして深泥池に行ったのか、とまるで責めるような口調だったが――
 そのときよりは幾分か落ち着いた様子で、しかし、それでも険しい表情を浮かべながら、彼女はさらにこう続ける。
「あなたが探しているものはここにはない。だから、もうここには来ないで」
 そう言って、彼女は花梨の腕をつかんでいた手に力をこめた。突然のことに呆然としていた花梨だが、これにはさすがにぎょっとして、その手を振りほどこうとする。
 とっさの抵抗に逆らって相手がさらに強くその手を引いた、ちょうどそのとき。ふいに目の前の扉が開いた。
「あれ。どうしたの。住吉(すみよし)さん、と――君は……」
 中から顔を出した青年は、そう言って先輩と花梨を交互に見た。先輩は驚いた顔で花梨の腕から手を放したかと思うと、部室の方をちらりと見やってから、すぐさま踵を返してしまう。
 青年はけげんな顔で立ち去る彼女の背を目で追っていたが、それが見えなくなると、その場に残った花梨の方へと視線を向けた。
「あー。その……やあ。ここに何か用かな」
 少しばつが悪そうにそう声をかけた彼に、花梨は会釈をしながらもこう返した。
「こんにちは。都島(つしま)先輩……でしたよね」
 彼とは何度か会ったことがある。大学に入ってすぐ、姉のことを調べていたときにサークルの勧誘を行う場で知り合って、話を聞かせてもらう約束をしていた。
 ただし、それに関しては、結局うやむやになってしまったが――なぜなら、そのとき黒い影が現れて、それどころではなくなってしまったから――つまり、黒曜石と出会った、そのきっかけのできごとのときに会うはずだった相手だ。
「あー。その節は、その。悪かったね。あれから連絡もせずに。まあ、お互い何もなかったようで、何より……」
 しどろもどろにそう話す彼の背後から、ふいに別の誰かの声が聞こえてくる。
「化けものを見たとかで、怯えて逃げたときの話? あのあと、しばらく部屋に引きこもって出てこなかったらしいじゃない。それなら――そう、あなたが鷹山さんの……」
 部室には、彼以外にも人がいたらしい。中をのぞいて見ると、眼鏡をかけた女性の姿が目に止まった。花梨にとっては初めて見る顔だ。
 彼女は花梨のことをじっと見ていたかと思えば、すぐに手元のノートパソコンへと視線を戻してしまう。都島の方は花梨を部室に入るよう促しつつも、こう言い訳し始めた。
「いやあ。あのときは、ついに俺のとこにも来たか、て思っちゃったんだよね。バイク事故のときもさあ、あいつ言ってたし。現場で血まみれの男の姿を見たんだ――とか、何とか」
 黒い影のことは、どちらかというと花梨の方に原因があったのだが、都島の方はそう思ってはいないらしい。かといって事情を説明するのも難しいので、それに関してわざわざ訂正するのはやめておくことにする。
 それよりも、見知らぬ相手が自分を知っていたことが気になって、花梨は思わずこう言った。
「私のことをご存知なんですね」
 初めて会う彼女に向けた言葉だったが、応えたのは都島の方だ。
「そんなかしこまらなくていいよ。君はここではけっこう有名人だから。いや、変な噂とかは抜きにして。お姉さんと、かなり仲がよかったでしょ。ことあるごとに君のことを話してたからなあ。鷹山さん」
 彼女が花梨のことを意味深に見ていたのは、噂云々ではなく、姉が原因だったようだ。いったい、どんな話をしていたのだろう……
 ともかく、花梨は気を取り直すと、あらためて都島の方に向き直った。
「それから、その……先ほどおっしゃっていた、ついに来たか、というのは、やはりこのサークル内で不幸が続いていたことでしょうか」
 花梨がひとまずそうたずねると、都島は困ったような表情を浮かべつつも、こう答えた。
「まあ、ね。さすがにもういろいろ知ってるか。その割りには、君はあんまり怖がってないみたいだけど。やっぱりまだ鷹山さんを、お姉さんを探している――んだよね。今日は、そのことで?」
 花梨はうなずいた。
「ええ。でも、先ほど部室の前で、探しているものはここにはない、と……どういうことでしょう。姉のことでしょうか。それとも――」
 花梨がそう言うと、都島は苦々しい表情を浮かべながら目を泳がせた。
「あー。住吉(すみよし)さんか……彼女、どうしちゃったんだろうね……」
「白々しい」
 と口を挟んだのは、部屋の片隅で我関せずといった風にキーボードを打っていた女性だ。
「呪いだの何だの、彼女が一番さわいでたじゃない。今さら恥ずかしくなったんじゃないの。自分の発言を知られるのが嫌だったんでしょ。鷹山さんが呪われてたんだから、その妹も危ない。近づくなって、散々言ってたし」
 彼女の言葉に、都島は苦笑した。
「あのときは、みんなどこかヒステリックだったから……芦屋(あしや)さんは、そういうの気にしない方だよね。けっこう部室にもいるみたいだし」
「当たり前でしょう。呪いだの祟りだの馬鹿馬鹿しい。そんなことで、みんなここに来なくなって。まあ、静かになったのをいいことに、いい休憩所として利用させてもらってはいるけどね」
 芦屋と呼ばれた女性はそこでようやく、ぱたりとノートパソコンを閉じた。
「都島くんだって、しばらく顔を出してなかったじゃない。今日はここに何しに来たの」
「今年の新入生の勧誘とか、どうするのかなって」
「呑気なものね」
 芦屋の冷ややかな返しにたじろぎながらも、都島は逃げるように花梨へと向き直った。
「まあ、それはいいとして、えーと……鷹山さん。聞きたいことは何かな。君のお姉さんのことは、俺も心配はしているからさ。できる限り協力するよ。俺に答えられることなら、だけど」
 その申し出にうなずくと、花梨はさっそくこうたずねた。
「ありがとうございます。それなら、まず……姉が失踪する前のことですが――姉は深泥池に行ったんでしょうか?」
 花梨の問いかけに、都島と芦屋は顔を見合わせた。首をかしげながらも、答えたのは都島の方だ。
「鷹山さんが深泥池に行ったか、ねえ。というか、みんな行ってたんじゃないかな。一時期流行ってたし。まあ、誰が行って、誰が行ってないかなんて、さすがに把握してないけど」
「都島君は行ったの?」
 芦屋の問いかけに、都島は乾いた笑いを浮かべている。
「いやあ。俺はほら。興味があるのは、古戦場とか武将の首塚とかだから。オカルトは守備範囲外で――」
「ビビりなだけでしょ」
 芦屋の辛辣なひとことにしょんぼりとしながらも、都島は花梨に向かってこう答える。
「鷹山さんが行ったとは断言できないけど、そもそも噂の出所は、鷹山さんと仲の良かった誰かだったような気がする。彼女と親しかったのは、宝坂(ほうさか)さん、戸隠(とがくし)さん、あとは……白峰(しらみね)さん、かな――京都が地元だとしたら、宝坂さんか戸隠さんのどちらかだろうね」
 都島のおぼろげな発言を、芦屋が引き継ぎこう言った。
「宝坂さんの方だったと思う。確か、弟から聞いたって。願いを叶えられる、とか何とか」
 願いを叶える? 呪いを引き受ける、という話から、だいぶ内容が変わっている気がするが――とはいえ、そこで石を手に入れた人たちのことを考えると、ある意味では、願いを叶える、でも合っているのかもしれない。
 都島はこう続ける。
「宝坂さんは大学中退しちゃったんだよね。戸隠さんは……今は何してるのかな。ここには来てないみたいだし、近頃は大学内でも見かけなくなった気がする」
 姉と親しかったという人たちの名前を、花梨は頭の中でくり返した。とはいえ、その人たちに話を聞くのは、どうやら簡単なことではなさそうだが――
 それまで調子よく話をしていた都島だが、何か言いにくいことでもあるのか、そのときふいに口をつぐんだ。問いかけるような視線を送ると、都島は渋々といった様子でこう続ける。
「まあ、ここの空気がおかしくなったのは、深泥池に行くのが流行ってからって感じだったけど……明確に事故だとか何だとかが起こり始めたのは、白峰さんが亡くなってから――だと思う」
 都島がそう言い終えると、部室内がしんと静まり返った。
 同じサークルに所属していた友人の死。ある程度は時が経ったとはいえ、そう気軽に語れるようなことではないだろう。ましてや、それが不吉なできごとに関係しているかもしれないとなれば、なおさら口が重くなるのも仕方がないように思える。
 この辺りでそろそろ一旦、切り上げた方がいいかもしれない。そう判断して、花梨は彼らに礼を告げた。何かあれば連絡してもいいと言って、都島は今後も協力を約束してくれる。
 そうして先輩たちと別れて部室棟を出た直後、近くに人の気配を感じて、花梨は思わず立ち止まった。待ち伏せでもするかのように、その場で佇んでいたのは先ほど花梨のことを呼び止めたあの先輩だ。
 とっさに身を隠したからか、花梨のことに気づいた様子はない。そのうち、彼女は腕時計に目を落とすと、ため息をついて歩き始めた。
 わずかな逡巡の末、花梨は彼女の後を追うことにする。部室の前で突然引き止められたときには驚いたが、今となっては彼女にもいろいろとたずねたいことがあったからだ。
 彼女が向かったのは、大学の前にあるバス亭だった。呼び止める間もないまま、彼女はそのときちょうどやって来たバスへと乗り込んでいく。さすがに同じバスに乗ってまで彼女を追うのもどうかと思って、花梨はそれを見送った。
 何とはなしに、走り去るバスが向かう先を調べたところで、花梨は思わずどきりとする。これは偶然か、それとも――
 花梨の視線の先で、彼女を乗せたバスはゆっくりと遠ざかって行く。その行き先は、深泥池のある方向だった。
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