第十三話 燐灰石(四/四)

文字数 3,466文字

「やはり、彼女は今もそこにいるのかな? 燐灰石」
「僕は死んだものと言葉を交わしているわけではないよ。槐。そこのところが、皆わかってない」
 呆れたような声で、燐灰石はそう答える。
「過去にあったものは、たとえ今はなくなったとしても、今この時にまで、その存在を伝えてくることがある。僕は生きものが最後まで形を残すもの――骨を媒介にその残された思いを読み取っているに過ぎない。本の一ページにだけ犬が描き込まれていたとしても、その犬は次のページには行けないけれど、僕は次のページにいながら犬の姿を見つけ出すのさ。そんな力だよ」
 わかるようなわからないような例えだ。
 なずなも顔をしかめている――かと思えば、不服そうにこんなことを呟いた。
「どうして犬なの……」
「犬もかわいいよ」
 何だか、ずれているような。しかし、それを指摘する者はいない。椿はすでに自分の好奇心を満たしてしまったのか、いつの間にか本を読み始めていた。自由なことだ。
「そういえば、あの場にいた子どもには猫の姿が見えていたでしょう。だったらやっぱり、猫の魂はあそこにいたのかしら」
 話しているうちにふと思い出したのか、なずなは燐灰石にそうたずねた。燐灰石は――けものはそういうものだよ、と言って軽くあしらう。あるいは、はぐらかしたのかもしれない。
 燐灰石はさらにこう続けた。
「そもそも、僕の力が役に立つということは、あまりいいことではないのだろう。君たち命あるものにとってはね。僕の力が必要になる前に――今このときに、君たちはちゃんと言葉を交わしておくべきだ。それだけは、どうか忘れずに」
 燐灰石はそう言い終えると、沈黙してしまった。普段はほとんど姿を現わさない方なので、もう眠って――これはあくまでもたとえで、実際にそうしているというわけではないが――しまったのだろう。
「そうだ。なずな」
 話が一段落したところで、槐がそう声を上げる。軽く首をかしげるなずなに、槐はこう続けた。
「鷹山花梨さんのことを伝えたのを覚えているかい? 彼女に呪いの噂のことをたずねられていてね。学校での噂なら、小松(こまつ)くんが何か知っていないかと思って。たずねてみてはくれないかな」
「小松さんに?」
 田上(たがみ)小松(こまつ)はなずなの夫だ。大学で講師をしている。
 なずなは軽く顔をしかめながら、考え込んだ。
「呪いの噂……それが、鷹山さんのお姉さまの行方不明に関係しているかもしれないのね? そうねえ。どうかしら。聞くだけ聞いてみるわ」
 なずなの答えに、槐は、お願いするよ、とうなずいた。

     *   *   *

 空木の実家は寺だった。
 名の知れた寺ではない。どこにでもある、いわゆる檀那寺(だんなでら)だ。田舎にある小さな寺で、住職の地位は、空木の曾祖父、祖父、父へと――代々世襲されている。
 しかし、だからといって空木がいずれ僧侶になる、というわけではない。兄が立派に継いでいるので、なる必要もない。今の空木は実家の手伝いをしながら生活している――というだけの、そんな中途半端な身分だった。
 自分のことを知る人にこれを言ってもなかなか信じてはもらえないのだが、空木は実家であるこの寺のことを決して嫌ってはいない。兄のことは苦手だが、両親は温和だし、寺の手伝いだって別にたいした苦ではなかった。
 ただ、かつて空木が、実家から出たい、と周囲にこぼしていたことも確かだ。それが端から見れば、嫌っているように見えたのだろう。
 しかし、それは単に空木が――ここは自分の居場所ではない、と思っていたからに過ぎない。
 大学への進学をきっかけに、空木は家を出て、東京でひとり暮らしを始めた。そうした学生生活の傍ら、空木は小さな出版社で働くことになる。
 その会社は、あまり名の知られていない専門雑誌などを細々と扱っているようなところだった。空木は筆が早い方だし、兄にこき使われることに慣れていたので案外重宝されていた――と思う。大学を卒業するときには、正式に社員にならないかと声をかけられたほどだ。
 しかし、空木はこの場所に対しても、自分の居場所ではないという思いを抱く。
 仲の良かった社員が故郷で新しく会社を始めるというので、声をかけられた空木はそれに便乗し、大学卒業と同時に古巣の京都へと戻って来た。実家で暮らし始めたのは、空いている部屋を使わないのも馬鹿馬鹿しいと思ったからだ。そうして、空木は心を入れ替えて、新しい会社で働き始めた――かと言えば、そうでもない。
 結局、空木がその会社に入ることはなかった。
 会社にさそってくれたその人には、今でも仕事を斡旋してもらっている。それだけでなく、働きたかったらいつでも声をかけてくれ、とまで言ってくれていた。見限られても仕方がないことをしていることを考えれば、それは本当にありがたい話なのだろう。
 何にせよ、こんな若造がふらふらとしながらフリーランスを名乗れるのは、そんな事情があった。兄など、いまだに顔を見るたび、働け働けと言ってくる。一応、働いてはいるのだが――
 結局のところ、これは居場所がどうの、という問題ではなかったのだろう。
 おそらく空木は、自分は特別な何かになれると思っていた。あるいは、ここではないどこかなら、本当の自分になれるのだと。
 しかし、実際にいろいろと経験して、空木はそれが、それほど単純な話ではないと思い知る。
 まず、空木には人よりすぐれたところなどなかった。筆が早いといってもそれだけで、空木には無難な文章しか書けない。何か人に興味を持ってもらえるような、おもしろい知識があるわけでもない。そんな状態で、特別になどなれるはずもなかったのだ。
 ここは自分の居場所ではないと感じていたのも、結局のところ、場所が悪かったわけではなく、空木にたいした才能がなかったというだけの話だった。今にして思えば、その感情は単に自分への失望だったのだろう。
 なまじ、ある程度は器用にできてしまうのが仇となったとも思う。挫折することもなく、中途半端にくすぶっていたせいで、勘違いをしてしまった。しかし、それもまた、空木という人間の(ごう)だ。
 自分探し――などという馬鹿げた言葉は使いたくないが、おそらく空木はそれに失敗していた。そうして、何者にもなれずに、空木はいまだに自分の居場所を探し続けている――
 境内の掃きそうじを終えた空木は、ほうきに寄りかかりながら、実家である寺を無言で見渡した。無心で落ち葉を掃いていると、どうしても余計なことを――自分の来し方行く末を考えてしまう。そのことに、空木は深くため息をつく。
 ふいに、からからと風に吹かれた落ち葉が飛んでいった。一瞬、先日に見た妙な生きものがまた現れたのでは――と思ったが、そんなはずもない。
 空木は寺の息子だが、今まで生きてきた中で怪奇現象とはほぼ無縁だった。当然、幽霊も見えないし、気配を感じることもない。しかし、寺の息子だからと、そういうことを期待されることはあった。だからこそ、空木はそういう話――怪談やら、怪奇現象やらの相談が大嫌いだ。
 ただ、何の因果か、今はそれらしきことに関わっているのだが――
 ふと向けた視線の先。そこに見慣れないものを見つけて、空木は思わず顔をしかめた。
 御堂の裏手には墓場があって、さらにその奥は山中の雑木林になっている。寺の土地ではあるのだが、人が往来するようなところではない。木々の世話はしているが、そんなに簡単に見た目が変わるはずもないだろう。
 しかし、空木が毎日ながめているはずのその風景に、今日は明らかな変化が見えた。
 変化、というか――その場所に、あるはずのない一本の木が見えたのだ。一枚の葉もなく、まるで枯れているようにも見えるが、それでいて周囲の木々を圧倒するほどの高さを誇る大木だった。
 あんな木が、あんなところに生えていただろうか。いったい何の木だろう。いや、そもそもあの場所には――
「この気配……いったい、何が起こっているのか――」
 ふいにどこからか、声が聞こえた気がした。周囲には誰もいない。
 何かの音を聞き間違えただけか。それとも――
 混乱のあまり、以前のできごと――百鬼夜行だったか――あの経験から、何か妙な霊能力でも覚醒したのでは、という妄想が頭をよぎった。しかし、空木は馬鹿馬鹿しい、とすぐにそれを一蹴する。
 幻ではないことを確かめるように、その木をにらみつけると、空木はあらためて考え込んだ。このどうしようもない男の人生に、いったい何が起ころうとしているのだろうか、と。
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