第十一話 黄玉(一/七)
文字数 3,323文字
「いやあ。ありがとう。悪かったね。急に来てもらって。助かったよ」
花梨に会うなり、店長は申し訳なさそうにそう言った。
場所はいつものアルバイト先。連絡を受けて予定外のシフトに入ることになった花梨が、店先に顔を出したときだった。
「いえ、ちょうど空いていましたから。それにしても、何かあったんでしょうか。その――」
軽く事情を聞いてはいたが、くわしいことまでは知らされていない。何でも、来るはずだった人員が、急に来られなくなったとのこと。それというのも――
「浅沙くん、ね。最近あまり入ってくれないし、もしかして、他に割りのいいバイトでも見つけたのかなあ」
言われてみれば、近頃は同じ日に入ることも少なくなっていて、花梨の方でも彼とはほとんど顔を合わせていなかった。
「何か聞いてる? 鷹山さん」
たずねられて、いいえ、と首を横に振る。それから、最後に話をしたのはいつだっただろう、とあらためて思い返した。
祇園祭のときに話をしたことは覚えている。そのあともシフトが重なることはあったが、ほとんど言葉を交わしていない。そこからすれ違うようになり、まったく姿を見なくなってからも、それなりの時が経っていた。
貼り出されたシフト表を見ていても、確かに彼が来る日は徐々に減っていた気がする。
「困るんだよなあ。年末年始に入れるって言うから採用したのに」
そんな店長のぼやきを聞きながら、花梨はバックヤードへと向かった。
西条浅沙。今の花梨には、もし彼がこの場にいたなら、たずねてみたいことがあった。しかし、そう考え始めてからこちら、その機会には恵まれていない。
実際には、シフトの時間を狙えば会うことはできたのだろう。しかし、問い詰めるほどのことではないと思って、後回しにしていたのだが――
ふいに、妙な胸さわぎがした。このことを、このままにしてはいけない――そんな予感が。
彼にたずねてみたいこと。それはささいな疑問だった。ささいではあるが、姉に関係することでもある。壁に貼られたシフト表をながめながら、花梨はしばし考え込んだ。
アルバイトを終えた花梨は、通い慣れた道をたどり槐の店へと向かった。店長が律儀にちょっとしたお礼のお菓子を用意してくれたので、せっかくだから椿と一緒にお茶でもできないかと思ったからだ。
店の周辺は、他の通りに比べれば人通りが少ない。しかし、今日は珍しく人影があった。
着物姿の女性だ。店の前をなぜか行ったり来たりしている。まるで店に入ることをためらっているかのように。
この人とは、以前にも会ったことがある気がする。彼女は、確か――
「何をしている? なずな」
黒曜石の声。なずなと呼ばれた女性は、はっとして花梨の方を振り向いた。
「黒曜石……?」
そう呟くと、彼女はいたずらが見つかった子どものようにばつの悪そうな顔をする。しかし、花梨の視線に気づくと、すぐにその表情を取り繕った。
「そういえば、今はあなたが持っていたわね。鷹山さん、とお呼びしていいかしら」
彼女は花梨のことを覚えていたようだ。花梨の方も、やはり見た顔だったか、と納得する。
槐の店を知ったばかりの頃、おつかいを頼まれたその相手だ。桜石のことを知っていたから、そうではないかとは思っていたが、彼女はやはり、黒曜石のことも知っているらしい。
ならば、ここにいるのは店に用があるからだろう。と花梨は思ったのだが――
「店に入られないのですか?」
「あなたは、これからこちらに?」
答えはなく、すぐにそう問い返された。花梨はいぶかしく思いつつも、素直にうなずく。
なずなはそれを見て、ほっと胸を撫で下ろした。
「だったら、あの……桜くんに伝えてくれないかしら」
「桜くん? 槐さんに、ではなく?」
思わずそう言うと、なずなは困ったような表情になる。
「槐の兄さまには――」
そこまで言いかけて、彼女はひとつ、軽く咳払いをする。
「槐さんには、むしろ、その……」
なぜかそう言い替えて、彼女はその先を言い淀んだ。槐には伝えたくないのだろうか。花梨はそう解釈する。何やら事情があるらしい。
「わかりました。どうお伝えしたらいいでしょうか」
花梨がそう言うと、なずなは少しだけ黙り込んだ。しばし考えた末に、彼女はこう告げる。
「そうね……通り雨が参りました、と」
「本当にそう言ったんですか? なずなさんが?」
場所はいつもの座敷。槐が席を外した頃合いを見計らって、花梨は桜になずなの言葉を伝えていた。それを聞いた桜は思わずといった風にそう返したが、はっとしたかと思うと、慌てたように声の調子を落とす。
「しかも、槐さんには伝えないで欲しい、ですか……」
桜は小声でそう言うと、顔をしかめて考え込んだ。
あの伝言は、思いがけず重要なことを伝えるものだったらしい。桜の沈黙に、意見を挟んだのは黒曜石だ。
「なずなの言い分はともかく、槐には伝えた方がいいと思うが」
しかし、桜はその提案に難色を示した。
「どうでしょう。なずなさんの性格は、よくわかってますから。あまり無理強いするとへそを曲げるし、かといって放っておけば、ひとりで無茶するに決まってますよ」
桜はそう言うと、ちらりとどこかに視線を投げてから――槐のいる方だろう――こう呟く。
「まあ、槐さんも似たようなところはありますけど。仕方ないですね……」
桜はそう言ってため息をつく。
事情のわからない花梨には、言づけを伝える以上にできることはない――と思っていたのだが、桜はふいに花梨の方へと向き直ると、こう問いかけた。
「花梨さん。このあとお時間いいですか?」
花梨が首をかしげると、桜はこう続ける。
「なずなさんに会いに行こうと思うんです。直接話を聞いた方が早いですし。くわしいことがわからないと、何とも言えないですから」
会いに行く。しかし、桜だけではこの店を離れることはできない。つまり、花梨に連れ出して欲しいと言うことだろう。
花梨はうなずいた。不安そうな声を上げたのは黒曜石だ。
「いいのだろうか? 槐に黙って勝手なことを……」
その言葉に、桜は軽く肩をすくめている。
「かといって、このままにはしておけないでしょう?」
さて、と呟きながら、桜は立ち上がる。何をするかと思えば、廊下に向かって大声でこう呼びかけた。
「槐さん。槐さーん」
「――どうしたんだい?」
少し間を置いて、槐が顔を出す。桜はすかさずこう言った。
「槐さん。久々に外に出たいんですが、花梨さんと一緒にお出かけしてもいいですか?」
「ああ。かまないよ。行っておいで」
いぶかしむ様子もなく、あっさりと許可が下りる。槐に、よろしくお願いします、と頭を下げられて、花梨も慌てて、わかりました、とうなずいた。
「これでよし、と」
槐が戻っていったことを確認してから、桜はそう言った。
とはいえ、伝言をしていったなずなとは、店の前で別れたばかりだ。これからすぐに会いに行く、となれば――
「急に行っても大丈夫かな? その――なずなさんと、すれ違いになるんじゃ……」
花梨がそう言うと、桜は、ふむ、とうなずいた。
「念のため、黄玉 さんを連れて行きますか。なずなさんには内緒ですよ。花梨さん」
桜に続いて、黒曜石がこう言う。
「確かに黄玉なら、なずなの居場所はわかるだろうが……」
そういうものなのか。それにしても、なぜ内緒にしなければならないのだろう。花梨は内心で首をかしげる。
桜は黒曜石にこう応えた。
「なずなさんのことなら、誰も文句は言わないですよ。碧玉さんには事情を話しておきます。黄玉さんが断るはずもないですし――」
そのときふいに、この場に青年が姿を現した。彼のことは、以前にも見たことがある。淡い黄色の髪をした、左腕のない隻腕の青年だ。
「ああ、もう。急に現れないでください。黄玉さん」
桜は顔をしかめて、その青年のことをそう呼んだ。
黄玉は無言で部屋の隅に立っている。
「今回は、とりあえず黙ってついて来てもらいますよ。いいですか?」
桜がそう問いかけると、黄玉はうなずいた。
「……かまわない。私も、なずなのことは気がかりだ。ともに行けるなら、それでいい」
それだけ言って、黄玉は姿を消した。
花梨に会うなり、店長は申し訳なさそうにそう言った。
場所はいつものアルバイト先。連絡を受けて予定外のシフトに入ることになった花梨が、店先に顔を出したときだった。
「いえ、ちょうど空いていましたから。それにしても、何かあったんでしょうか。その――」
軽く事情を聞いてはいたが、くわしいことまでは知らされていない。何でも、来るはずだった人員が、急に来られなくなったとのこと。それというのも――
「浅沙くん、ね。最近あまり入ってくれないし、もしかして、他に割りのいいバイトでも見つけたのかなあ」
言われてみれば、近頃は同じ日に入ることも少なくなっていて、花梨の方でも彼とはほとんど顔を合わせていなかった。
「何か聞いてる? 鷹山さん」
たずねられて、いいえ、と首を横に振る。それから、最後に話をしたのはいつだっただろう、とあらためて思い返した。
祇園祭のときに話をしたことは覚えている。そのあともシフトが重なることはあったが、ほとんど言葉を交わしていない。そこからすれ違うようになり、まったく姿を見なくなってからも、それなりの時が経っていた。
貼り出されたシフト表を見ていても、確かに彼が来る日は徐々に減っていた気がする。
「困るんだよなあ。年末年始に入れるって言うから採用したのに」
そんな店長のぼやきを聞きながら、花梨はバックヤードへと向かった。
西条浅沙。今の花梨には、もし彼がこの場にいたなら、たずねてみたいことがあった。しかし、そう考え始めてからこちら、その機会には恵まれていない。
実際には、シフトの時間を狙えば会うことはできたのだろう。しかし、問い詰めるほどのことではないと思って、後回しにしていたのだが――
ふいに、妙な胸さわぎがした。このことを、このままにしてはいけない――そんな予感が。
彼にたずねてみたいこと。それはささいな疑問だった。ささいではあるが、姉に関係することでもある。壁に貼られたシフト表をながめながら、花梨はしばし考え込んだ。
アルバイトを終えた花梨は、通い慣れた道をたどり槐の店へと向かった。店長が律儀にちょっとしたお礼のお菓子を用意してくれたので、せっかくだから椿と一緒にお茶でもできないかと思ったからだ。
店の周辺は、他の通りに比べれば人通りが少ない。しかし、今日は珍しく人影があった。
着物姿の女性だ。店の前をなぜか行ったり来たりしている。まるで店に入ることをためらっているかのように。
この人とは、以前にも会ったことがある気がする。彼女は、確か――
「何をしている? なずな」
黒曜石の声。なずなと呼ばれた女性は、はっとして花梨の方を振り向いた。
「黒曜石……?」
そう呟くと、彼女はいたずらが見つかった子どものようにばつの悪そうな顔をする。しかし、花梨の視線に気づくと、すぐにその表情を取り繕った。
「そういえば、今はあなたが持っていたわね。鷹山さん、とお呼びしていいかしら」
彼女は花梨のことを覚えていたようだ。花梨の方も、やはり見た顔だったか、と納得する。
槐の店を知ったばかりの頃、おつかいを頼まれたその相手だ。桜石のことを知っていたから、そうではないかとは思っていたが、彼女はやはり、黒曜石のことも知っているらしい。
ならば、ここにいるのは店に用があるからだろう。と花梨は思ったのだが――
「店に入られないのですか?」
「あなたは、これからこちらに?」
答えはなく、すぐにそう問い返された。花梨はいぶかしく思いつつも、素直にうなずく。
なずなはそれを見て、ほっと胸を撫で下ろした。
「だったら、あの……桜くんに伝えてくれないかしら」
「桜くん? 槐さんに、ではなく?」
思わずそう言うと、なずなは困ったような表情になる。
「槐の兄さまには――」
そこまで言いかけて、彼女はひとつ、軽く咳払いをする。
「槐さんには、むしろ、その……」
なぜかそう言い替えて、彼女はその先を言い淀んだ。槐には伝えたくないのだろうか。花梨はそう解釈する。何やら事情があるらしい。
「わかりました。どうお伝えしたらいいでしょうか」
花梨がそう言うと、なずなは少しだけ黙り込んだ。しばし考えた末に、彼女はこう告げる。
「そうね……通り雨が参りました、と」
「本当にそう言ったんですか? なずなさんが?」
場所はいつもの座敷。槐が席を外した頃合いを見計らって、花梨は桜になずなの言葉を伝えていた。それを聞いた桜は思わずといった風にそう返したが、はっとしたかと思うと、慌てたように声の調子を落とす。
「しかも、槐さんには伝えないで欲しい、ですか……」
桜は小声でそう言うと、顔をしかめて考え込んだ。
あの伝言は、思いがけず重要なことを伝えるものだったらしい。桜の沈黙に、意見を挟んだのは黒曜石だ。
「なずなの言い分はともかく、槐には伝えた方がいいと思うが」
しかし、桜はその提案に難色を示した。
「どうでしょう。なずなさんの性格は、よくわかってますから。あまり無理強いするとへそを曲げるし、かといって放っておけば、ひとりで無茶するに決まってますよ」
桜はそう言うと、ちらりとどこかに視線を投げてから――槐のいる方だろう――こう呟く。
「まあ、槐さんも似たようなところはありますけど。仕方ないですね……」
桜はそう言ってため息をつく。
事情のわからない花梨には、言づけを伝える以上にできることはない――と思っていたのだが、桜はふいに花梨の方へと向き直ると、こう問いかけた。
「花梨さん。このあとお時間いいですか?」
花梨が首をかしげると、桜はこう続ける。
「なずなさんに会いに行こうと思うんです。直接話を聞いた方が早いですし。くわしいことがわからないと、何とも言えないですから」
会いに行く。しかし、桜だけではこの店を離れることはできない。つまり、花梨に連れ出して欲しいと言うことだろう。
花梨はうなずいた。不安そうな声を上げたのは黒曜石だ。
「いいのだろうか? 槐に黙って勝手なことを……」
その言葉に、桜は軽く肩をすくめている。
「かといって、このままにはしておけないでしょう?」
さて、と呟きながら、桜は立ち上がる。何をするかと思えば、廊下に向かって大声でこう呼びかけた。
「槐さん。槐さーん」
「――どうしたんだい?」
少し間を置いて、槐が顔を出す。桜はすかさずこう言った。
「槐さん。久々に外に出たいんですが、花梨さんと一緒にお出かけしてもいいですか?」
「ああ。かまないよ。行っておいで」
いぶかしむ様子もなく、あっさりと許可が下りる。槐に、よろしくお願いします、と頭を下げられて、花梨も慌てて、わかりました、とうなずいた。
「これでよし、と」
槐が戻っていったことを確認してから、桜はそう言った。
とはいえ、伝言をしていったなずなとは、店の前で別れたばかりだ。これからすぐに会いに行く、となれば――
「急に行っても大丈夫かな? その――なずなさんと、すれ違いになるんじゃ……」
花梨がそう言うと、桜は、ふむ、とうなずいた。
「念のため、
桜に続いて、黒曜石がこう言う。
「確かに黄玉なら、なずなの居場所はわかるだろうが……」
そういうものなのか。それにしても、なぜ内緒にしなければならないのだろう。花梨は内心で首をかしげる。
桜は黒曜石にこう応えた。
「なずなさんのことなら、誰も文句は言わないですよ。碧玉さんには事情を話しておきます。黄玉さんが断るはずもないですし――」
そのときふいに、この場に青年が姿を現した。彼のことは、以前にも見たことがある。淡い黄色の髪をした、左腕のない隻腕の青年だ。
「ああ、もう。急に現れないでください。黄玉さん」
桜は顔をしかめて、その青年のことをそう呼んだ。
黄玉は無言で部屋の隅に立っている。
「今回は、とりあえず黙ってついて来てもらいますよ。いいですか?」
桜がそう問いかけると、黄玉はうなずいた。
「……かまわない。私も、なずなのことは気がかりだ。ともに行けるなら、それでいい」
それだけ言って、黄玉は姿を消した。