第二十一話 十字石(三/七)

文字数 3,542文字

 春休みの大学は閑散としていた。
 構内を行き交う人の姿は疎らで、普段は学生たちが集う教室もしんとして静かだ。しかし、そうした状況であれば、待ち合わせの相手を見つけるのは容易だった。
 談話室で端末をながめていたらしい茴香は、花梨が近寄ると、すぐに気づいて顔を上げる。花梨、と名を呼びながら手にしていたものを鞄にしまうと、茴香は意気揚々と立ち上がった。
「よし。行こうか。って言っても、あたしもそんなにくわしくないんだけどね。あんまり行ったことないし」
 向かったのは、大学構内にある部室棟だ。部活にもサークルにも所属していない花梨には、あまりなじみのない場所だった。そうでなくとも建物は敷地の外れにあったので、用がなければ近づくこともない。
 ただ、花梨も一度だけ、姉が所属していたらしいサークルの部室を訪ねようとしたことがある。しかし、そのときは叶わず、そのあとにもあらためて訪れることはなかった。周囲で妙な噂が広がったこともあって、大学内での行動をしばらく控えていたからだ。
 そうして後回しになってはいたが、行方がわからなくなる前の姉がどのように過ごしていたのか――そのことはやはり知っておかなければならないだろう、と花梨は思い直していた。昨年の夏に茴香が姉の知り合いと引き合わせてくれてはいるが、あの頃の花梨は深泥池のことを知っていたわけではない。しかし、今なら噂との関わりについても確かめられるかもしれない、と思っていた。
 そんなことを話したところ、一緒に部室まで行く、と言い出したのは茴香の方だ。大学での花梨は孤立気味なこともあって、彼女にはどうも心配をかけてしまっているらしい。深泥池の件ではついて来てもらうことはできなかったが、大学内なら危険なこともないだろう。そう考えて、予定の合う日にひとまず行ってみよう、ということになった。
 教室の静けさに比べれば、部室棟の周辺は思いのほか活気がある。音楽系の部活だろうか、どこからか楽器の演奏が流れていたり、運動系の部活だろうユニホーム姿の学生もいて、そこかしこで楽しそうな話し声が聞こえていた。
「春休みだけど、けっこうにぎやかだね」
 花梨がそんなことを口にすると、茴香は同意するようにうなずいた。
「今は新入生勧誘の準備とかもあるんじゃないかな。そのあたりは、部にもよるらしいけど。まあ、あたしも部活とかには入ってないから、友だちから聞いた話だけどね」
 部室棟の入り口に立つと、花梨はそこに掲げられていた案内板を見上げた。それぞれの階にどこが割り当てられているか記されているようだが、管理する人がいないのか、あまりに古くなりすぎたのか、ところどころ文字が欠けてしまっている。
 部室棟自体も、大学にある他の棟とは違って少し古いか、あるいは安普請のような気はした。とはいえ、見た目は至って普通の建物だ。変わったところなど何もない。しかし。
 その場に立った花梨はふと――初めて訪れたときに、なぜか嫌な感じがしたことを思い出した。
 いつもの漠然とした直感だ。そう感じたそのときには、また日をあらためればこの空気も変わるかもしれないと思って、部室を訪れることを取り止めている。
 今にして思えば、姉の手がかりを前にして、ずいぶんあっさりと手を引いてしまったものだ、とも思う。しかし、そのときはそれだけ、この場所に言い知れぬ違和感を覚えたのだろう。
 とはいえ、今はその嫌な感じもしない。
 花梨は内心でほっとした。ただでさえ、姉の知り合いから話を聞いたときのことを思うと、自分が喜んで迎えられるとは思えなかったからだ。たとえそれが漠然としたものでも、そうした不安は少ない方がいいだろう。
 ともかく花梨は歩き出した。案内板ではその名を見つけられなかったが、一度は訪れようとしただけあって、向かうべきおよその場所はわかっている。近くにあった階段を上り二階まで来ると、花梨たちは廊下を進んでいった。
 並んでいる扉のいくつかには、その部屋を使用しているらしい部活かサークルの名前や、その活動内容を紹介する張り紙が貼ってある。勧誘に熱心なところなのだろう。
「そういえば、前に気になるサークルがあるって話してなかった?」
 長い廊下を進んでいるうちに、ふと思い出して、花梨は茴香にたずねてみた。
「友だちに誘われたとこね。おもしろそうだから、少し迷ったんだけど……あたしはアルバイトの方に専念したかったし、いくつもかけ持ちしてるから。三月は特にかき入れどきらしいから、稼ぐぞって感じ」
 茴香はそんなことを言いながら、力強くこぶしを握っている。
 暖かくなれば、京都ではやはり観光客が増えるらしい。茴香は観光地にある店でアルバイトしているようなので、そろそろ忙しくなる時期なのかもしれない。
「それで、実家には帰らなかったの?」
 花梨がそうたずねると、茴香は肩をすくめてこう答えた。
「正月には顔出してるし。帰っても弟たちがうるさいから、いいかなって。家にいてもやることないし」
 花梨は少しだけ苦笑する。そんな花梨の反応をうかがいつつも、茴香は遠慮がちにこう話した。
「あのね。笑わないで聞いてね」
 花梨が首をかしげると、茴香はこう続ける。
「あたしはね、日本一周……ううん。いずれは世界一周するのが夢なの。世界中のいろんな景色を見たいんだ。広大な自然とか、そういうのが。だから、今のうちにお金を貯めておきたいなって」
 自分の夢をふいに語った茴香は、照れたように、へへへ、と笑っている。
 思いがけない話ではあったが、花梨は茴香らしい夢だとも思った。自分には、そういう将来への展望はあるだろうか――そんなことを考えているうちに、となりを歩いていた茴香が急にその場で立ち止まる。
 危うく通り過ぎそうになったところで、花梨もあわてて足を止めた。いつの間にか目的の場所まで来ていたらしい。
 古都文化研究会。目の前にある扉の横には、そう書かれた看板が下げられている。貼られている張り紙は古いものなのか、だいぶ色あせてしまっていた。
「茴香も場所、知ってたんだね」
 目当ての部屋であることを確認すると、花梨は茴香に向かってそう言った。茴香は花梨の方へ振り向くと、なぜか少しだけばつが悪そうな顔をする。
「あー……ほら。変な噂を聞いちゃったときに、あたしも少しだけ調べてたから。そういえば、花梨に会わせた先輩たち、いたでしょ。あの人には、ここで声をかけられたんだっけ――」
「どうして」
 ふいに割り込んできた声に驚き振り向くと、廊下の先に誰かがいることに気づいた。
 見覚えのある顔だ。それでいて、彼女はなぜか、花梨に険しい顔を向けている。
 そのうち、花梨も相手のことを思い出した。今しがた、茴香も話したばかりの人物――姉のことを話してくれた先輩のうちのひとりだ。
 突然のことに花梨が呆気にとられていると、彼女は思い詰めたような表情で、こう問いかけた。
「どうして、深泥池に行ったの?」
 花梨は思わず茴香と顔を見合わせた。彼女はどうして、花梨が深泥池に行ったことを知っているのだろう。そうでなくとも、なぜ咎めるようにそれをたずねるのか。
 どう返すべきなのかわからずに、花梨がただ戸惑っていると、そのときふいに、廊下のどこかで扉の開く音がした。
 思わず振り向くと、目的の部屋とは違う、すぐとなりの部屋の扉が少しだけ開かれているのが目に入る。扉の影からは、ぼさぼさ頭で眠たげな目をした青年が廊下をのぞき込んでいた。
「もしかして、何か揉めてる?」
 その言葉に、花梨はあわててこう返す。
「いえ。大丈夫です。すみません。さわがしかったでしょうか?」
 口にしてから、花梨は少し妙だなと思った。それほどさわがしくした覚えはないのだが――
 青年の方も特にこだわるつもりはないのか、ならいいけど、と呟くと、さっさと扉を閉じてしまった。その扉の付近は他の多くとは違って、何の部屋なのかを示すようなものは、何ひとつ見当たらない。
 ともかく、先輩にくわしい話を聞かなければと、花梨がようやく思い至ったところで、振り返った先では相手が踵を返した後だった。
 ただでさえ、姉のことを調べようとすれば何か反発が起きるのでは、と危惧していたのだが――思いがけないできごとに、花梨は何か苦いものを飲み込んだような気分でその場に立ち尽くす。茴香の方も、きょとんとした顔で、しきりに首をかしげていた。
 たとえ噂が下火になったとしても、かつて姉の周囲で起こったできごとは、まだどこかで尾を引いているらしい。おそらく、それを知ることも容易ではないだろう。
 そうでなくとも、目当ての部室は扉に鍵がかけられていて、その日は結局、入ることは叶わなかった。
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