第七話 孔雀石(二/四)

文字数 5,025文字

 喫茶店の近くには神社があった。
 何か祭りがあるわけでもなさそうだが、人の姿も多くにぎやかだ。少し寄ってみようか、ということになって、花梨は茴香とともに鳥居をくぐる。
 境内に入ると、その理由がわかった。そこかしこに竹が立てられていたからだ。その竹には五色の短冊や飾りがひらめいている。
「七夕か。って、あれ? 今は八月だよね」
 祇園祭を終えて、京都は夏も盛り。花梨は強い日差しに目を細めながら、並べられた竹のひとつを見上げた。
「旧暦の七夕が近いんじゃないかな」
 花梨がそう言うと、茴香は、なるほど、と呟く。
「旧暦かあ。七夕っていうと、どうしても七月七日って気がするけど」
 確かにその印象は強い。ただ、今の暦だと七月七日は梅雨の時期とも重なってしまう。天の川に隔てられた織姫と彦星が出会う――という星の祭りとしては、この国の気候風土に則していて、晴れの日の多い旧暦の方が時期としてはふさわしい気もした。
 花梨は茴香と並んで参道を歩いて行く。夏の暑さの中、さらさらと音をたてる竹の葉の動きは目にも涼しい。色とりどりの飾りと願いを書いた短冊も相まって、それはその場をとても華やかにさせていた。
 ふいに茴香が、あ、と声を上げる。境内にある七夕の竹の、そのひとつを見上げている女性に目をとめたようだ。
「知り合い?」
 花梨がたずねると、茴香はうなずく。
「あたしのバイト先の、社員さん」
 そう言うと、茴香はその人のところに近づいていった。
 一緒にいることが多くなってから気づいたことだが、彼女はとても顔が広いようだ。そして、どこか人懐こいところがある。
 近づいてくる茴香に気づいたのだろう。その女性はゆっくりと振り向いた。
「あら、茴香ちゃん。お友だちと一緒?」
 二十代後半くらいの年の、落ち着いた雰囲気の女性だった。炎天下に日傘も差さずに立っていたせいか、どこかぐったりとして疲れているようにも見える。大丈夫だろうか、と花梨はひそかに案じた。
 茴香は彼女に、こうたずねる。
「何か、願いごとでもあるんですか?」
 その人は少し困ったような顔をすると、こう問い返した。
「……茴香ちゃんは? あっちの方で、短冊に願いごとが書けるみたい。行ってみたらどう?」
 茴香はそれを聞いて、軽く考え込んだ。
「うーん……願いごと、かあ。あたし、実は暑いの苦手で。正直言うと、今はこの暑さを何とかしてくださいって書きたいくらい」
 その答えに、その人は苦笑する。
「大丈夫? 無理はしないでね。でも残念ながら、七夕はもともと、織姫にちなんで手芸の上達を願うものだったの。そこから、技芸や手習いごとの上達を願うものになっていった。だからたぶん、一番ご利益があるのは、そういった願いごとかな」
「手習いごと、か……。あたし、そういうのは全然」
 茴香はそう言うと――花梨はどう? と振り返った。
 上達を願うような技芸や手習いごと。残念ながら、今の花梨には、とっさには思いつくようなものは何もない。ただ、少し思い返してみて、こう答えた。
「中学生くらいまでは、ピアノを習ってたかな」
 茴香は、へえ、と感心したような声を上げる。そして、何かを思い出したように、女性の方を振り向いた。
「そういえば、ピアノの先生をやってるって、前に話してませんでしたっけ」
 茴香の言葉に、花梨もまた、その人の方へと視線を向けた。しかし、彼女の顔に浮かんでいたのは思いがけない表情だ。何かを怖がっているような、疎んでいるような――
 彼女は花梨たちがけげんな顔をしていることに気づくと、はっとして表情を取り繕った。
「そんな、先生なんて。知り合いの子に、少し教えているだけ……」
 やっとのことでそう言うと、その人は思わず、といった風にため息をつく。明らかに、何か心配ごとがありそうだ。しかし、初めて会ったばかりの花梨には、それをたずねることはどうにもはばかられた。
 茴香の方はそのことに気づいているのか、いないのか、軽く別れを告げると、花梨を連れてその人から離れていく。遠ざかった姿をちらりと振り返ると、彼女はまだ、思い詰めた様子でひとり佇んでいた。
 表情の変化は一瞬のことだ。気のせいだったのかも知れない――花梨はそう考えたのだが、その人の姿が見えなくなった頃になって、茴香はこんなことを言い出した。
「何か、様子がおかしかったね。前に話してたときには、音楽が好きって言ってたんだけどな。ピアノのことも、楽しそうに話してくれたのに」
 ではやはり、あれは普通の反応ではなかったらしい。茴香は心配そうな表情で、その人のいた方を振り返った。
「何かあったのかな?」
 気づかわしげではあったが、茴香も今さら、戻って問い詰めるようなことはしなかった。しかし、このことはおそらく、これだけでは終わらないだろう――花梨には、そんな予感がする。
 そして実際に、花梨がその理由を知るのは、そう遠いことではなかった。



 それから数日後のこと。その人は、茴香から花梨を通じて、槐の店に助けを求めることになった。
 神社でのできごとが気になった茴香は、次に会ったとき、彼女にそれとなく理由を聞き出したらしい。話を聞いた結果、茴香は――自身が経験したように――音羽家の石の力を借りられないか、と考えたようだ。
 悩みごとの原因は怪異。その人は普通ではありえないできごとに出会い、どうすることもできずに思い悩んでいた――とのこと。
 そういった経緯で、花梨は茴香とともにつき添いとして槐の店を訪れていた。あらかじめ槐には話を通してあるので、花梨が行く必要もないのだが、本人が同行を希望したためだ。
 花梨は槐のことを知っているからそうは思わないが――いくら困っているとはいえ、知らない人からすれば、ひとりで訪れるには、ためらわれる店なのだろう。怪異の悩みを聞いてもらえる、などと言われれば、なおさら。
 それでも、そんな不確かな話にすがらなければならないほどに、彼女には為す術がなかったようだ。花梨たちが同席して話を聞くことについても、特に問題はないと言う。本人がそう言うなら、拒む理由もなかった。とはいえ――
 実際に、彼女の悩みごとは、石たちが力になれるようなことなのだろうか。
 石たちの力が間違いないことは、花梨もよく知っている。それでも槐の判断を仰がずにそれを断言できるほど、花梨は怪異のことについてはよく知らなかった。
 何にせよ、こういう話で花梨が頼れるのは槐以外にはいない。そうでなくとも、まずはくわしい話を聞いてもらわないことには始まらないだろう。
 槐の店には、いつもどおり迎え入れられる。座敷の真ん中にある座卓を挟んで花梨は茴香と――そして、その人とともに槐と向き合った。椿は不在。桜は給仕を終えてから、いつもどおり槐のそばに控えている。
 話を切り出したのは、槐だ。
「何でも、身の回りの奇妙なことで困っていらっしゃるとか」
 槐の言葉を聞いて、その人は意を決したように口を開いた。
「はい。何から話せばいいのか……その、音が聞こえるんです。音、というか音色が」
 槐はふむ、と相槌を打つ。
 出だしこそたどたどしかったが、徐々に落ち着いてきたのだろう。その人はひと呼吸置くと、淀みなくその先を話し始めた。
「とても美しい音色なんです。始めは笛の音かな、とも思ったのですが、どうも違うような気もするし、確かなことは言えません」
 槐はこう問いかける。
「笛の音……ですか。その音に、何か困ることが?」
「それ自体は、特に害はないのかもしれません。不快な大きさの音でもありませんし、絶えず聞こえるという訳でもないようです。ただ――」
 彼女は、どこか寂しげな表情を浮かべた。
「何と言えばいいのでしょう……その音色に魅入られてしまった人がいるんです。困っていること、というのは、そのことで」
 槐は先を促すようにうなずく。
「知り合いの小さな女の子に、ピアノを教えていて……それで私、度々その子の家に通っています。音が聞こえるのも、その周辺で。魅入られてしまった人というのは――そのおとなりに住んでいる方のことです」
 そこまで言ってから、彼女はふいにうつむいた。
「その方は、フルートの奏者として楽団にも入っていた方なんですが――今は少し休んでおられて……」
 その先を、彼女は言い淀んだ。話そうとはしたものの、怪異とは関係ないことだと判断したのだろう。軽く首を振ってから、うつむいていた顔を上げる。
「とにかく、彼には落ち込むことがあって、調子が悪いことは知っていました。ただ本人が、今はそっとして欲しいというので。それでしばらく、こちらから強く働きかけるようなことはしなかったのですが……ある日、ピアノを教えているその子が、となりの家の――その、彼の様子がどうもおかしいと言い出して」
 彼女はそこで、深いため息をついた。
「ずっと、フルートを演奏しているのだそうです。正体のわからない、その音が聞こえている間は、ずっと……まるで熱に浮かされたみたいに」
 そう口にした途端、その人の表情が変わる。それは花梨が神社で会ったときに見たものと同じだった。何かを怖がっているような、疎んじるような――
「なるほど。およその状況はわかりました。ただ、今のお話だけだと、その音が怪異だとする根拠は弱いように思われますが……」
 槐の言葉に、その人は、はっとしたように表情を取り繕った。
「ええ。そうですよね……その、音色についてなのですが、ピアノを教えている子のお母さんも気になったようで、近所の人にそれとなく聞いたことがあるんだそうです。しかし、誰もそんな音は聞いていない、と。どうにも、その音が聞こえると気づかなければ、全く聞こえない――のか、気づいていないのか。とにかく、認識しないと、それとわからないようなんです。もともとは、その教えている子のご家族も、音色の方は聞こえていなかったらしくて。それこそ最初は、となりはずいぶん熱心に練習をしているな、としか思っていなかったそうです」
 出所のわからない美しい音の怪異。
 花梨はふと、戻橋のことを思い出した。どこからか聞こえてくる声。あのときの柚子が聞いた声は、戻橋の力を借りてトルコ石が語りかけたのだ、と針鉄鉱は言っていた。
 しかし、よくよく考えてみると――そもそもの話、戻橋の力とは一体何に由来しているのだろうか。槐から聞いた逸話によると、占いの声は陰陽師の安倍晴明が橋の下に隠した式神によるものだ、ということになっていたが――
「それから、教えているその子が、私を気づかって音の出所を探してくれたこともありました。でも、話を聞いて回っても、どこも違う。近くに唯一、空き家になっているところがあって、そこかと思ったそうなんですが、そこも――そこは平屋なのですが、外からのぞいても、がらんとしていて何もなかったそうです。危ないので、これ以上はやめるように、と言い聞かせましたが」
 彼女はそこで一旦、話を区切った。相手の反応を見定めようとしたのだろう。
 確かに、彼女の語ったことは奇妙なできごとではある。しかし、今まで聞いた話だけなら、それほど深刻な問題ではないようにも思えた。
 そんな周囲の心の内を感じとったのだろう。その人は、力なく苦笑した。
「この話だけなら、たまたまどこからか音楽が聞こえてくる、くらいにしか思えませんよね。ただ彼は、本当にずっと……ずっと、その音色に心奪われているんです。演奏しているときはもちろん、その音が聞こえないときですら、もう、話しかけても上の空で。私は――」
 その人は、そこで言葉を詰まらせた。思わず、といった様子で、茴香がその背に手を伸ばす。彼女の憂いはどうやら、音のことよりむしろ、魅入られてしまった彼のことにあるらしい。
 それにしても、どうしてその彼だけがそうなってしまったのだろうか。
 押し黙ってしまった彼女を気づかって、茴香が代わりにこうたずねた。
「聞こえない人もいるくらいなんだから、人によって、その音の影響も違うんじゃないでしょうか? よくわかんないけど、その人にだけは、危険なものなのかも」
 茴香のその言葉に対して、彼女はどこか複雑な表情を浮かべている。花梨は答えを求めるように槐の方へと視線を向けた。
「実際に、その音を聞いてみないことには、何とも。ただ――」
 槐はそう言って、何かを思い出すように軽く目を伏せた。
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