第十七話 鶏冠石(一/四)

文字数 4,363文字

 きっかけが何だったか、実はもう、あまりよく覚えていない。ただ、おそらく自分の発したひとことだった、ということだけは自覚している。
 でも、たわいもないおしゃべりの、ちょっとした失言だ。だから、次の日にはみんな忘れてしまうだろうと、そう思っていた――少なくとも、そのときは。
 次の日のこと。昨日まで一緒に話していた子たちにずっと無視された。何を言っても、返事をしてくれない。それでも、まさかこんなことがいつまでも続くとは思っていなかった。
 しかし、時が経つにつれて、それはさらにひどくなる。クラス中から無視されて、おまけに自分が何かをするたびに――別におかしなことでない、ペンを落としたりだとか、そんなどうでもいいこと――みんな、クスクスと笑うようになった。
 一度だけ、どうしてそんなことするの、と問いかけたことがある。そしたら、軽蔑したような目で、彼女たちはあの日のひとことをなじった。だから、悪いのはおまえだ、と。
 そのことは、すぐにその場で謝っている。しかし、それが許されることはなかった。いつまでも、あの日の失言を持ち出されて、無意味にからかわれ続ける毎日――
 そのうち、もういいか、と思った。何を言っても無意味で、もう言葉も通じないなら――どうなってもいいや、と。
 だから、半ばやけくそになって深泥池へと行った。呪いを引き受けてくれるという噂の、その場所に。
 そうして手に入れたのは、憎い者たちを呪うためのもの。黒くて細長い――少し変わった石だった。

     *   *   *

 小正月(こしょうがつ)も過ぎて、音羽家には日常が戻って来ていた。あるいは、どちらかというと嵐が過ぎ去った、と言った方が正しいだろうか。
 年末年始はとにかく大変だった――と桜は思い返す。
 いつもは遠方に出ている者たちも帰って来るし、準備も後片づけもとにかく忙しかった。それを思えば、今は穏やかなものだ。
 ただ、今日は久々に来客がある予定だった。大晦日と正月を実家で過ごすとのことで、しばらくこちらに来ていなかった花梨が、京都に戻り次第、時間があれば話をしたいと連絡があったのだ。
 深泥池でのことでひとまず一段落したところもあったので、少しはゆっくりできただろうか。そんなことを思っていると、ふいに碧玉が桜を呼んだ。
 呼んだ、というか何と言うか――声や言葉ではないが、何か感覚的なもので、桜にそれを知らせたのだ。来客があったとき、碧玉は大抵そうしている。
 桜は槐に向かってこう言った。
「誰か来ました。花梨さんかな。出ますね」
 桜は通り庭へと急いだ。そこから表の戸を開けると、さっそくこう声をかける。
「明けましておめでとうござ――」
 しかし、それを言い終える前に、桜はぎょっとして目を見開いた。口にしかけた言葉も、そのままどこかへ消えていく。
 しかし、それも仕方がないだろう。なぜなら視線の先にいたのは、花梨ではなく、黒曜石だったからだ。
 ただ、黒曜石は戸口に立ち塞がっているだけで、そのうしろにはちゃんと花梨の姿もある。周囲には、それを見とがめるような人影もなかった。
 それにしても、何もないのに黒曜石が姿を現すのは珍しい。まさか、新年の挨拶ではないだろう。桜を除く石のほとんどは、そういったことに無関心だ。
 桜は少し口を尖らせながらも、こう言った。
「びっくりした。どうしたんです。黒曜石さん。せっかく花梨さんに新年のご挨拶を――」
「そんなことはどうでもいい。槐はどこにいる。花梨のことを見てもらいたい」
「はい? 見るって、いったい何を……」
 桜は戸惑った。いきなり何を言い出すのだろう。
 どうも、何かしら問題が起こっているらしい。新年の挨拶をどうでもいい、と言われたことに少しむっとしながらも、桜はひとまず黒曜石たちに道を譲った。
 花梨の方は――おめでとうございます、と返しながらも、困ったような表情で桜のことを見返している。
 どうにもわからない。何かあるらしい当の本人は平然としているし、黒曜石が勝手に焦っているだけだろうか。
 桜は首をかしげながらも、座敷へ向かうふたりのあとを追って行く。その先では、槐が彼らを出迎えた。
「明けましておめでとうございます。本年も――」
「槐」
 黒曜石は難しい顔で槐に詰め寄った。そのただならぬ様子に、槐も虚をつかれたように目をしばたたかせている。
 ひとまず座敷に落ち着いてから、あらためて話を聞くことになった。いつもどおり桜は槐の近くに控えて、それに向き合って座った花梨の横には、黒曜石が並んでいる。
 さて、いったい何があったのか――と思っているうちに、黒曜石の目配せに応じて、花梨が左の手のひらを差し出した。包帯が巻かれているようだ。ゆっくりとそれをほどいていき、そこに現れたのは――
 すぐ目についたのは、あざやかな赤。絵の具か何かがついているのか、とも思ったが、そんなわけはない。これは、まさか――
「血じゃないですか。どうしたんですか? その傷!」
 桜は驚いて身を乗り出す。
 花梨の手のひらの中心にあったのは、つい今しがた負ったかのような、生々しい傷跡だった。しかも、その傷は今も赤い血をにじませている。
 花梨は流れていく血を止めようと、そっと傷口を押さえた。その傷について、彼女はこう話し始める。
「気づいたときは、小さな傷だったの。でも、全然治らないし、どんどん広がってるみたいで――血も止まらなくて。隠すのが大変だったかな」
 隠す、とはどういうことだろう。桜がいぶかしく思っていると、槐は差し出された手のひらを見つめながら、こう言った。
「これは――普通の傷ではありませんね」
 その言葉に、桜は思わずはっとする。花梨は深々とうなずいた。
「はい。おそらく」
 桜はあらためて彼女の手のひらに目を向けた。
 一見すると普通の傷だが、負ったばかりでもないのに血が流れ続けているというなら、それは確かに異常だろう。だとすれば、隠していた、というのは――
 花梨は年末年始には実家に帰っていたはず。この傷がいつからあるかは知らないが――普通の傷ではないなら、医者に見せることもできなかったのだろう。
 ということは、両親に気づかれないように、今まで誰にも告げずにいた、と言うことだろうか。
 桜はおそるおそる、こう問いかけた。
「もしかして、ずっとがまんしてたんですか?」
 案の定、花梨はこう答える。
「親に心配はかけられないから……」
 苦々しい表情を浮かべながら、黒曜石がため息をついた。
「早く槐の元へ行くように忠告したのだが」
 黒曜石が慌てるわけだ――と、桜は思った。花梨は涼しい顔をしているが、これは単にやせがまんだろう。親に心配をかけまいとするうちに、そのことに慣れてしまったのかもしれない。だとすれば、なおのこと痛々しい。
 槐もまた、表情を曇らせながらこう尋ねる。
「この傷に、心当たりはありますか?」
 花梨はうなずいた。
「ひとつだけ。深泥池でのことです。あのとき、私たち以外にも人が――女の子がいて。彼女が落とした石を拾いました。もしかしたら、それが」
 その話に、桜は思わず顔をしかめる。
「まさか。それも、呪いの石だったんですか?」
 深泥池の件は解決したと思っていたのだが――
 とはいえ、あのときより以前に、呪いを願った者がまだ他にもいたのだとしたら――その者の手に、呪いの石が渡っていた可能性はあるだろう。この傷は、それが原因ということだろうか。
 花梨が傷を押さえている間にも、みるみるうちに包帯は赤く染まっていく。
 桜は慌てて槐を振り返った。
「とにかく傷ですよ! 透閃石さん――はいないし、沙羅さんもいないし……だったら、えーと……どうすれば――」
 混乱する桜に、黒曜石は呆れたようにため息をつく。
「どちらにせよ、透閃石や沙羅ではどうにもならない。これは呪いによるものだ。それを行った者を特定しない限りは――」
 桜はむう、とうなって黙り込んだ。だとしても、他にできることはないのだろうか。例えば――
「そうだ。槐さん。それなら、辰砂(しんしゃ)さんを」
 桜のその言葉に、槐はすぐに反応した。例の部屋へ向かい、そこから持ち出してきたのは――血のように赤い石。
 槐は花梨に向かって、こう話す。
「辰砂は硫化水銀の鉱物です。彼の力は精神を安定させ、痛みをやわらげること。傷を治すことはできませんが」
 いつもより簡潔な槐の話が終わるや否や、赤の髪を揺らしながら辰砂が姿を現した。悠々とした、落ち着いた物腰の青年だ。彼は慣れた様子で花梨の手を取ると、傷の具合を確かめている。
「これはいけない。つらかったろう。私の力で、少しでもやわらげばいいが」
 そう言って、辰砂は槐に向かってうなずいた。槐はそのまま、手にした石を花梨へと渡す。
 それにふれた途端、ほっとしたように彼女の表情がゆるんだ気がした。平静を装ってはいたが、やはり気を張っていたのだろう。
「ありがとうございます。辰砂さん」
 花梨はそう言うと、包帯をきつく巻き直した。傷が治ったわけではないから、そうしないと血が流れてしまうようだ。とはいえ、今は痛みだけでも抑えられたなら、それでよしとする他ない。
 桜は思わずため息をついた。
「それにしても、深泥池の件、まだ続いてたんですね。続いてた、というか残っていた、というか」
 それを聞いて、黒曜石も重々しくうなずく。
「そのようだ。しかし、その少女が持っていた石が呪いの石だとして、どうやってその者を探せばいいのか――」
 黒曜石はその先を言い淀むと、黙り込んでしまった。それについては、どうすればいいのか、桜もとっさには思いつかない。この場にいた皆の視線は、自然と――何やら考え込んでいるらしい槐の方へと集まる。
 そのとき。
「槐」
 その場にいた誰でもない声が、その名を呼んだ。かと思うと、そこに忽然と姿を現したのは――碧玉だった。
「うわ。碧玉さん。どうしたんですか?」
 桜が思わずそう声を上げると、碧玉に思い切りにらまれた。しかし、碧玉は桜を一瞥しただけで、すぐに槐へと向き直る。
「例の男が来た」
 碧玉は槐に向かってそう告げた。わざわざ碧玉が姿を現したということは、普通の客ではないのだろう。だとすれば――
 桜は思いつくままに、こう問いかける。
「例のって――噂をすれば、じゃないですけど、もしかして深泥池にいたっていう、くもの人のことですか?」
 碧玉はどこか忌々しげにうなずいた。
「しかも、そいつだけではない。どうも、厄介ごとを持ち込んで来たようだ。石英は通せと言うが。何でも――」
 碧玉はそこでなぜか、鋭い視線を花梨へと向けた。そして、こう続ける。
「今、必要な人物、だそうだ」
 花梨はわけがわからずに呆気にとられているようだ。桜も思わず首をかしげていた。
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