第十六話 蛇紋石(五/五)

文字数 3,829文字

「そういうわけにはいかないな。蛇紋石。彼を捕らえてくれ」
 どこからか、声がした。その声に応じるように、物悲しい笛の音が聞こえてくる。
 その音に合わせて、地面から湧き出すように黒い蛇が鎌首をもたげると、それらは瞬く間に浅沙に取りつき拘束した。そこから一歩も動けなくなった彼は、驚いた表情を浮かべて肩ごしに振り返る。
「ありがとう、忍石。もういいだろう」
 声と共に、彼は姿を現した。着流しに革のトランクケースを手にして、水辺のほとりに悠然と立っていたのは――
「槐さん」
 花梨はその名を呼びかける。
外法(げほう)使いが。隠れていたのか……」
 浅沙が舌打ちとともに、そう呟いた。
 槐の傍らにはいつの間にか、蛇紋石の横笛を片手に持った陰気な青年が立っている。彼は柳の木を振り返ると、こうたずねた。
「いいんだな? 槐。さっきのあの女は逃がしても。まあ、これだけ離れられると、もはや俺に捕らえることは難しいだろうが。灰長石がいるならともかく」
 空を見上げた黒曜石が、槐に向かってこう告げる。
「甲矢と乙矢に追わせているが……」
 彼らの言葉に、槐は首を横に振った。
「いや。今の流れで、だいたいのことは知れた。ひとまずは事情がわかればいい。話を聞くのは、彼だけでも十分だろう。むしろ、あちらは不用意に追わない方がいいかもしれない」
 そう言って、槐もまた柳の木の方へと目を向ける。
「彼女が持っていたのは糸掛石(いとかけいし)、か。細い線状の石英脈が糸のように見える岩石で、水石としてそう呼ばれる。返しを防いだ――あれは何だろう。亀甲石(きっこうせき)かな」
 槐はそう呟くと、浅沙の方へと歩み寄った。そして、確かめるように、こうたずねる。
「石を用いた呪術。君たちはやはり、くもの縁者か」
 ――()()
 花梨はその言葉にはっとする。槐はさらに、こう続けた。
「くも……土蜘蛛の末、八雲(やぐも)家の」
 浅沙は容易には逃れられないと悟ったのか、抵抗することもなくその場に立っていた。槐をにらみつけるだけで、黙り込んだまま何も答えない。
 槐は彼の反応をうかがいつつも、どこか悲しそうな表情でこう呟く。
「だとすれば、先ほどの女性は国栖(くず)の葉。やはり、まだ続いていたか。音羽が残したという、あの家の――」
「そりゃあ、そうだろう。そう簡単に終わると思ったのか? お前のところだって、まだ」
 唐突に、浅沙は槐の話をさえぎった。そして、嘲笑うかのように、こう問いかける。
「天狗に憑かれているんだろう?」
 槐は何も答えなかった。その代わりに、彼は浅沙に向かってこう問い返す。
「君は何か意図があって、鷹山さんの周囲にいたようだが、彼女のお姉さんの行方を知っているのかい?」
「知らない」
 そのやりとりに、花梨は思わず息を飲んだ。
 今回のことが、すぐさま手がかりにつながるとは思っていなかった。それでも、姉の行方を求める花梨にとって、それは残酷な言葉には違いない。
 浅沙は花梨の方をちらりと見ると、軽くため息をつく。そうして、肩をすくめながら、こう言った。
「ただ、いなくなったことは知ってるし、その理由には心当たりがある。だから――俺も探していた」
「どういう、ことでしょう」
 戸惑いのまま、花梨はそう返す。答えの代わりに、彼が口にしたのはこんな話だ。
「それで――そうしているうちに、妹である君が京都にいるって話を耳にしたから、何か知ってるかと思ったんだけど。でもまあ、花梨ちゃんがお姉さんの行方を探しているのは、すぐわかったよ。それでも、何かの足がかりにはなるかと思ってね。お近づきになるために、いたずらで呪を仕掛けてみたんだ。でも――」
 花梨はすぐにそのことに思い至った。自分のことを追っていた黒い影。それをきっかけに、花梨は槐の店を知ることになった――
「君はいつの間にか、ずいぶんとおもしろいものを持っていたから」
 おもしろいもの――黒曜石のこと、だろうか。
「それで、つい興味を持ってしまって。その力を試してみたくなって――」
 それが、あの黒いツバメ。
「だけど、外から邪魔が入ったから、それなら閉じ込められないかな、と――」
 これは、祇園祭でのことだろう。
「ただ、どうやらやり過ぎたみたいでね。この辺りであいつらに感づかれた。俺が音羽と関わりを持ったとでも思ったんだろう」
 浅沙はまるでいたずらがバレた子供のように笑っている。
 花梨の身の回りで起こったことは、すべて彼が原因だったらしい。しかし、彼は姉がどこにいるかは知らないと言う――
 花梨がそのことに愕然としていると、どこからか声が聞こえてきた。
「槐。その男、今のところ嘘は言っていないようだ」
 それは花梨の知らない石の声だった。槐が持っている革のトランクケース。そこには、今回のことに協力してくれた石たちが収まっている。
「何かと思えば。くも共の内輪もめか」
 と吐き捨てたのは、おそらく碧玉の声だろう。
 槐は考え込むように浅沙の話を聞いていたが、彼が話を終えたらしいのを見てとると、こう問いかけた。
「宇治の宝蔵を荒らしたのは君かな? それから、この深泥池で行われていたことは……」
「花梨ちゃんはともかく、あんたに話す義理はないね」
 浅沙はばっさりと切り捨てる。先ほどまでとは打って変わって、不機嫌そうにそっぽを向くと固く口を閉ざした。
 槐は困ったような表情で苦笑する。
「君の知る事情を話してくれるなら、今すぐにでも解放しよう。あるいは、話すのはこの場でなくてもいい。後日店に来てくれるならば。いつまでも、ここにこうしているわけにはいかないからね。じきに日も落ちる」
「槐」
 と、碧玉がたしなめるようにその名を呼んだ。しかし、槐は気にする様子もない。
「彼は思いのほか協力的だよ。お互いの事情を知れば、協力し合えるのではないかと思う」
 碧玉はそれ以上何も言わなかったが、どことなく空気が張り詰めたのは気のせいだろうか。それには気づかず、浅沙は呆れたようにこう言う。
「甘いな。そんな約束、誰が守ると思う? おまえたちと関わるくらいなら、今すぐにでも京都からは出て行く」
「そうか。ならば、仕方がない――磁鉄鉱(じてっこう)
 花梨の目には何が起こったのか全くわからなかったのだが、槐がそう言ってすぐに、浅沙は急に慌てたように身をよじった。
「待て。何をした」
「これで君は、しばらく――そうだな、少なくともひと月は、京都市内から出ることができないだろう」
 それも石の力なのだろうか。槐がそう言うと同時に、蛇紋石の蛇は消え失せ、浅沙は解放される。しかし、彼は不服そうな表情で立ち尽くしていた。
「鷹山さん」
 槐にそう呼ばれて、花梨は振り向いた。気づかわしげな表情で、槐は花梨にこう話す。
「ひとまず、これでことを納めます。お姉さんの行方を知らないという、彼の言葉に嘘はない。しかし、何か事情を知ってそうだ。それについては、場をあらためた方がいいでしょう」
 嘘はない。そう断言できたのは、やはり石の力なのだろう。
 花梨は大きく息をはいた。何もわからなかったときに比べれば、これでも大きく前進しているのかもしれない。一歩ずつ。少しずつ。そう思って、花梨はうなずいた。
「わかりました」
 槐は浅沙に向かって――いつでも都合のいいときに店に来るように、とだけ言うと、あっさりこの場から背を向けた。花梨もまた、慌ててそれについて行く。そのとき――
「君のお姉さんは」
 浅沙の言葉に、花梨は思わず振り向いた。花梨にだけ聞こえるほどの小声で、彼はこう続ける。
「おそらく、呪われている」
 そう言った切り、彼は頑なに口を閉ざした。

     *   *   *

「今回の件、僕には見えたかもしれないよ」
 唐突に現れたかと思うと、石英は桜に向かってそう言った。
 槐たちが深泥池に出かけたあとのこと。店の留守を任された桜は、同じく留守番で不機嫌な椿のためにぜんざいを作っているところだった。
「何がですか?」
 と、桜は石英を適当にあしらう。槐たちのことが心配で、とてもではないが彼の相手をしたい気分ではなかった。
 しかし、石英はおざなりな桜の反応など、気にする風もない。
「年末には帰ってくるだろうし、榧と柾には、ひと仕事頼むとしよう」
 などと、桜とは無関係なところで、勝手に話を続けている。
 どうしてわざわざ桜のところに現れたりしたのだろう。同種の水晶たちとでも話していればいいものを。
「年末なら、沙羅さんも帰ってくると思いますけど?」
 と、桜は上の空で口を挟んだ。答えが返ってくるとは思っていなかったが、石英は大真面目にこう返す。
「沙羅に関しては、槐に任せるよ。僕はあの二人の間に入ることだけは、勘弁願いたいね。馬に蹴られて死んでしまう」
「何を言ってるんですか……」
 桜の呆れ顔を見ることもなく、石英はうつむき何ごとかを企んで――いや、考え込んでいる。おまけに、ぶつぶつとひとりごとまで呟き始めた。
「何にせよ、くもが関わっているなら、槐はこのまま放ってはおかないだろうな」
 くも――不穏な単語を耳にして、桜は思わず顔をしかめた。しかし、石英はそれについてくわしく語ることもなく、ひとり納得したようにうなずいている。
「なら、こちらにも考えがある」
 そう言うと、石英はそこでようやく桜の方を振り返る。不安で表情を曇らせる桜に対して、石英はいつになく真面目な顔をしていた。
「僕はね。桜石。榊のときの二の舞はごめんだよ」
 未来を見据えたその石は、それだけ言い残して消えていった。
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