第二十二話 閃亜鉛鉱(四/六)

文字数 5,161文字

 五条大橋の上に立ち、空木は何とはなしに川面の方をながめていた。イヤホンを通して機械から流れてくる音声に、じっと耳を傾けながら。
 聞こえてくるのは空木自身の声だ。
「――それでは、娘さんが貴船に迷い込んだことについて、理由は全くわからないということですね」
 それに答えるように、女性がうなずく気配がすると、続けてこう話し始めた。
「それこそ、神隠しだとしか思えませんでした。いなくなったのは、目を離したほんの少しの間なんです。普段から知らない人について行かないよう言い聞かせていますし、それをないがしろにするような子ではなかったのですが……」
 淡々としてはいるが、その声はやはり沈んでいる。しかし、悲しい記憶を元に話してもらっているのだから、それも仕方がないだろう。
 その声は、しばし考え込むように沈黙したあと、はっとしたようにこう言った。
「そういえば――」
 空木の声は聞こえなかったが、あのとき先を促すようにうなずいたことを思い出す。
「深泥池の周辺を調べて回っていたとき、祠とは別に、少し奇妙なことがありました。いえ――奇妙、と言っていいかどうかわかりませんが……女の子に会ったんです。中学生――いや、高校生でしょうか。小柄な子で。学校の制服だったんですが、この当たりでは見慣れないものでした。その子が……」
 女性はその先を言い淀んだ。空木の記憶の中から、彼女の困惑をにじませた表情が浮かび上がる。
「その子が私に――もしかして、貴船で亡くなった子のお母さんですか、って話しかけてきたんです。かわいそうに、って……でも、これは運命だったんです、とも。何でも、娘は鬼の道に迷い込んでしまったのだと言うんです。だから、ここには近づかない方がいい、と」
 空木は顔をしかめた。
 いまだに詳細のわからないこの事件を、運命だと告げた謎の少女。何か事情を知っているのか。それともただのでまかせか。
「意味がわからなかったんですが、運命と言われたことが何だかやるせなくて、私は問いかけたんです。なぜ、そんなことがわかるのって。そうでなくとも、だったらどうして、あなたはここにいるの、と」
 女性は戸惑いつつも、そのときのことをこう語る。
「その子はこう答えました。自分は選ばれた。だから、何の問題もない、と……」
 空木はそこで録音機にある停止のボタンを押した。再生が止まったのを確認してからイヤホンを外した空木は、風の音を聞きながら誰にともなくこう呟く。
「何だったんだろうな。あの話は」
 返答したのは式だった。というより、この場で反応できるのは、この石くらいだが。
「あの女性との会話をあらためて聞き直していたのかい? 確か、鬼のことを話していたか――まあ、思い当たる存在は、なくはないのだけれどね」
 式はそうして答えをはぐらかすと、どこか感心したような声になって、こう続けた。
「それにしても、便利なものだね。音を記録する、か。おもしろいものを持っているな。空木は」
「おもしろいっていうか……仕事道具だけどな」
 録音機はライターとしての仕事をするときによく使っているものだ。会話を録音する場合は、ちゃんと相手に許可をとっている。奇妙なことに首を突っ込むようになってからは、許可さえ得られれば仕事でなくとも録音するようになっていた。
「さすがに、音を記録する力を持った石、ってのはないか?」
 空木が冗談まじりにそう言うと、しばし考え込んだあとで、式はこう答えた。
「そうだね……針鉄鉱は読んだ本や聞いた話は全て覚えているそうだよ。だから、物知りなんだ」
 針鉄鉱。その名は聞いたことがあるような、ないような。
 しかし、内容を覚えている、というだけでは不足だろう。録音すれば、そのときの声の調子や息づかいまで残しておける。そうしたことは、けっこう重要な手がかりになるものだ。
 そう考えてみれば、文明の利器も捨てたものではないのかもしれない。空木が考えていたことがわかったわけではないだろうが――妙に感慨深げな声音で、式はこう呟いた。
「本当に……この百年の人の進歩は、実に目覚ましいよ」
 この石は百年の人の歴史を見てきた――らしい。その言葉に、あらためて会話の相手が普通の存在ではないことを実感しつつも、空木はしばらくの間、遠く彼方の景色をながめていた。

     *   *   *

 周囲に人影がなくなった頃合いで、花梨は黒曜石に呼びかけた。
「あのね。黒曜石」
 返事はない。花梨は続けてこう問いかける。
「もう一度、深泥池に行ってもいいかな」
「……止めても、行くつもりだろう?」
 すぐにそう返ってきた。
 確かに彼の言うとおり。今の花梨は、たとえ止められたとしても、何だかんだと言い訳をして彼を説得しようとしたに違いない。それくらい、深泥池に行かなければならない、という気持ちが強かった。
「近くに行くだけだ。無謀なことはしないと約束して欲しい」
 少し呆れたような声で、黒曜石はそう言った。その言葉に、花梨は短く、わかった、とだけ答える。
 深泥池方面へ向かうバスを待って、花梨はそれに乗り込んだ。向かった先であの先輩と会えるのかどうか――そもそも彼女が深泥池へ向かったのかすら――わからないが、とにかく周辺を調べてみようと思っていた。
 バスに揺られている間、花梨はぼんやりと考える。
 彼女はいったい、何を恐れているのだろう。思えば、以前に姉の周辺で起こったことを教えてくれたときも、彼女はずっと怯えていた。
 花梨は浅沙が言っていたことを思い出す。姉を指して口にしたのだろう、おそらく呪われている、という言葉。それが本当なのだとしたら、手段はともかく、姉を生きた何者かの意志によってそうなったのだろう――花梨はそう考えていた。
 しかし、都島の話を聞き終えた今となっては、その考えはほんの少し揺らいでいる。亡くなった学生の呪い、あるいは祟り――もしかしたら、そういう可能性もあるのだろうか。
 バスを降りた花梨は、知らず知らずのうちに例の祠があった方へと足を向けていた。いろいろと考えているうちに、深泥池であったできごとを思い出していたからだ。
 もしも姉が深泥池に向かったとしたなら、それは何を求めてのことだったのだろうか。
 サークル内で噂が話題になったが為の、ただの肝試し? それとも――
 花梨は姉が誰かに恨まれたり、ましてや呪われたりするような人ではないと思っていた。しかし、花梨は京都に来てからの姉の生活を、何もかも知っているわけではない。
 部室にいた二人では、失踪の前に姉と友人とでどんなやりとりがあったかなど、くわしいところまではわからないようだった。姉のことを知ろうとするならば、やはり親しかったという友人に話を聞いてみるより他ないだろう。しかし、そうして踏み込んだ先で、花梨が知らない姉の秘密を暴くことになるのではないか――そんな不安があることも確かだった。
 物思いに沈んでいた花梨に、ふいに戸惑ったような黒曜石の呼びかけが届く。
「――花梨?」
 その声に、はっとして辺りを見回した。そこでようやく、花梨は自分が見知らぬ場所を歩いていることに気づく。
 ここは――どこだろう。
 ゆるやかな斜面になっているので、おそらくは山中だろう。見上げるほどに高い木々に囲まれた、深閑とした森の中だ。周囲は驚くほどに緑が濃い。頭上には樹木の枝葉が広がっていているし、足元は一面の笹で埋もれている。
 そのとき、唐突にどこからともなく雫が降ってきた。雨――ではないだろう。空は晴れている。水滴が木の葉を伝って落ちてきたのだろうか。
 仰ぎ見た先では、日の光が木漏れ日となってちらちらと輝いている。それが目にまぶしくて、木陰の中にいると、なおさら周囲が暗く感じられた。
 もといたはずの道に引き返そうと、花梨は見覚えのある場所を探した――が、そこから見えるものは木と草と、あとはところどころある苔むした岩ばかり。いくら考えごとをしていたとはいえ、普通であれば、こんなところに迷い込むはずはない。
 黒曜石ですら、この状況には戸惑っているようだった。仕方がないので、花梨はともかく先へ進むことにする。山中に迷い込んだのなら、あまりいい判断ではないかもしれないが――そもそもが尋常のことではないのだから、どう転ぶかはわからないだろう。
 森が深くなるにつれ木々の密度は上がり、ひとつひとつの木も大きなものが増えていった。そうして、辺りは黄昏時のように暗くなっていく。そんな中で、ふと遥か向こうにある巨石の上に、小さな火が灯っているのが見えた。
 蝋燭の火だ。その燭台の近くでは、女性が腰かけて書物を読んでいるのが見える。どうして、こんなところに。
 何より奇妙なのは、その服装だった。真っ先に目に入ったのはあざやかな赤の着物だが、よく見るとそれは肩に羽織っているだけで、着ているのは白のワンピースのように見える。どう考えても、ちぐはぐだ。
 年の頃はわからない。小柄だからか若いようにも思えたが、近づいていくうちに、その印象はどうにも曖昧なものになっていく。花梨が下生えをかき分け歩み寄っていても、彼女は長い黒髪に隠れた瞳をこちらに寄越そうともしなかった。
 花梨の中で、ざわざわと何か嫌な予感が広がっていく。彼女は何者だろう。明らかに普通ではない。いったい、何が起ころうとしているのか――
 そのとき、何かの直感に突き動かされて、花梨はとっさに足を踏み出した。
 姿を現した黒曜石が、弓に矢をつがえて、その矢先を着物の女に向けている。その前に立ち塞がり、花梨は驚く黒曜石を真っ直ぐに見据えながら、首を大きく横に振った。
「待って。黒曜石。その矢を下ろして」
 花梨の背後で衣ずれの音がする。肩越しに振り返ると、持っていた書物を閉じて、女がゆっくりと花梨を見下ろすところだった。
「それを私に向けていたら――」
 女はおもむろに口を開くと、花梨に向かってうっすらと笑みを浮かべた。
「こなごなに砕いていたところだった」
 その声の冷たい響きに、花梨は思わず息を飲む。黒曜石に向かって弓を下ろすように目配せすると、彼は渋々ながら応じ、庇うように花梨と女の間に入った。
 花梨はほっとして、女の方に向き直る。女は肩にかけた赤い着物を引き寄せて、すらりとした素足をあらわにしながら、巨石の上に立ち上がった。
「何をしに来たのかしら。話くらいは聞いてあげましょう」
 目まぐるしく巡る思考の中で、花梨は思い当たるその名を見つけ、問いかけた。
「あなたが、樹雨さんですか」
 女は答えなかった。しかし、おそらく合っているのだろう。しかし、明らかに不快そうだ。この名は呼ばない方がいいのかもしれない。
 代わりに彼女はこう言った。
「今日は肝試しではないのね。あの遊びはもうおしまい?」
 肝試し。姉が深泥池に行く理由を考えていたこともあって、その言葉にはどきりとする。なぜ、彼女がそのことを口にするのだろう。
 花梨は思わず、こう問いかけた。
「肝試しに来た人がいるのですか? 誰かが、ここに。深泥池ではなく?」
 樹雨は小首をかしげながらも、静かに笑っている。
「あちらは土蜘蛛の流言。それもまた、呪のひとつ。ここに来るのは、己の勇を示すため。だから、来たものには力持つ石を与えた。土蜘蛛の石と天狗の呪い。三つ――いや、四つ……か」
 何を言っているのか、わからない。今さらながら、花梨の中にじわじわと彼女に対する戸惑いが広がっていた。
 これが鬼というものか。時雨とはまだ会話ができたが、これは――
「天狗というのは、槐さんのことですか?」
 花梨はどうにかそれだけ問いかけた。
 土蜘蛛と天狗については、時雨も同じようなことを言っていた気がする。そのことが少し気になったからだ。
 樹雨はこう答えた。
「ある意味では、そのとおり。呪われた天狗の血」
 呪われている――槐が?
 黒曜石に確かめたい気持ちはあるが、この場ではやめた方がいいだろう。花梨は黒曜石にちらりと視線を向けてみたが、今は目の前の相手を警戒することで手一杯のようだ。
 花梨はあらためて樹雨へと視線を戻す。
「力持つ石を与えた――というのは、呪いの石のことですか? どうしてここに来た人に石を?」
 花梨はあらためて深泥池でのことを思い出していた。土蜘蛛の末であるという浅沙と、国栖の葉という名を持つ女性。呪いの石は彼らのいざこざが発端かと思っていたのだが――
「私が与えたいから、与えた」
 花梨の問いかけに、彼女はすげなくそう答えた。
 どうにも会話しにくい相手だ。そう思って花梨が言葉を失っているうちに、樹雨はすかさずこう言った。
「私からもたずねてよいかしら」
 花梨がうなずくより先に、彼女はこう続ける。
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