第二十三話 蛋白石(五/六)

文字数 4,713文字

 病院の前で、花梨は杏が現れるのを待っていた。
 杏と初めて会った、次の日の同じ時間。入院患者との面会の時間は限られているようなので、おそらく昨日と似たような時間に姿を現すだろう――と当たりをつけてのことだった。
 杏が病室へ向かったことを確認した上で、今度は出て来たところを呼び止めるつもりだ。早く話ができるに越したことはないが、できることなら、お見舞いの邪魔をしたくはない。
 そんなことを考えていると、思っていたとおりに杏は姿を現した。しかし、見るからに様子がおかしい。
 彼女の周囲にある空気が、妙に重たい気がする。不安を感じた花梨が思わず声をかけてしまいそうになったほどだ。
 花梨は代わりに黒曜石へ呼びかけた。しかし、彼には翡翠が言っていたような暗雲は見えないらしい。たとえ彼女に何らかの異変があったのだとしても、それは本当にかすかなものなのだろう。
 花梨は意を決して、杏の後を追うことにした。
 前を歩く彼女の後ろを気づかれないようについて行く。病室に入って行くのを見届けて、その場でそっと聞き耳を立てた。
 花梨は誰かに見咎められはしないかと、気が気ではない。そのうち昨日の椿を思い出して、ここまで来ればこそこそするのも杏に悪いかと思い直し、花梨は目の前の扉を軽くノックした。
 返事はない。いや――かすかに音がした気がする。
 迷ったのは一瞬のこと。嫌な予感に動かされて、花梨は目の前の扉を開けた。思い切って室内に足を踏み入れて、垂れ下がるカーテンの向こう側をのぞき込む。
 驚いた表情の杏と目が合った。
 彼女の傍らにある寝台にはそこかしこに管がつなげられた人が横たわっていて、枕元にいる杏のことをじっと見つめている。花梨から見えていたのは横顔だけだが、それだけでもひどく痩せていることがわかった。
 不自然な格好で固まっている杏の伸ばされた手の先にあったものは、その彼と管でつながれている何かの機械。
「宝坂さん。いったい、何を――」
 花梨がそう声をかけると、杏は弾かれたように後ずさる。寝台の上の人は起き上がることなく、目だけで彼女の姿を追っていた。
 花梨は杏が手を伸ばしていた機械をちらりと見やる。病人であるその人につながれているのなら、これはおそらく、何かしら生命の維持に必要なものなのだろう。杏はいったい、何をしようとしていたのか――
 花梨には確信があったわけではなかったのだが、杏は自分の行動を見咎められたとでも思ったのか、突然こんなことを言い出した。
「彼が死んだら、私も死ぬわ」
 花梨は驚きのあまりぽかんと口を開けて、彼女のことを見返した。しかし、すぐに気を取り直して、どうにかこう口にする。
「落ち着いてください。宝坂さん。どうして、突然そんなことを……」
 なだめようとする花梨の言葉を、杏の叫びがさえぎった。
「もう嫌なの! こんな風に不安になるのは。誰かが言ったの。私のことを、かわいそうに、って。その言葉を振り払えない。このままだと、私は本当に、彼のことを」
 そこまで言って、杏はその先の言葉を飲み込んだ。歪んだ表情には彼女の苦しみが見えて、事情はわからないながらも、花梨は何も言えなくなる。
 そうしているうちにも、杏は頭を抱えてこう続けた。
「こんな気持ちにはなりたくないのに。どうしても考えてしまう。どうしても願ってしまう」
 戸惑うばかりの花梨の視線に追い詰められていくかのように、杏はじりじりと窓辺へと逃れていく。あるいは、彼女が恐れているのは、寝台に横たわる彼の視線の方かもしれない。
 やがて窓枠に背をぶつけた杏は、はっとして振り返ると、そこから見える青空へじっと目を向けた。
「そうだ。だったら、私が先に死ねばいい。それなら」
 その言葉に、花梨はぎょっとする。まさか、飛び降りるつもりだろうか。ここは五階だ。そんなことをすれば、無事ではすまない。
 ひやりとしつつも、花梨は杏の元へとかけ寄った。しかし、杏が手をかけた窓枠はがたがたと音を立てるばかりで、どうやら人が通れるほどには開かないらしい。そのことに気づいた杏は、絶望に打ちひしがれたように大きく肩を落とす。
 そのとき、ふいに病室の扉が開いた。カーテンを押しのけて、この場に現れたのは――
「……椿ちゃん?」
 椿は無表情で周囲を見回すと、花梨はもちろん、へたりこんだ杏にすら目もくれず、寝台の枕元へと真っ直ぐに歩み寄る。そして、横たわる彼に向かって、ひとつの石を差し出した。
 灰色のごつごつした石だ。しかし、よく見ると、その灰色に囲まれた割れ目のような隙間には、別の何かが――内から不可思議な輝きを放つ透明な何かが満たされている。この石は――
「ここにある石は、記憶を消す力を持っている」
 椿は石を示しながら、そう言った。
「あなたさえいいと言うのなら、彼女の記憶を消しましょう。あなたに関わることは全て」
 椿は寝台に横たわる彼に向かって、そう話す。その人は悲しげにじっと杏のことを見ていたが、ゆるりと首を回すと、差し出された石とそれを持つ椿のことを見返した。
「あなたが決めるの。記憶を消すか。消さないか。さあ、決めて!」
 椿はそう詰め寄った。しかし――
 消してしまっても、いいのだろうか。杏が持つ、彼に関する全ての記憶を。
 確かに杏は苦しんでいるのだろう。それが、ここにいる彼に由来することは明らかだ。それでも、彼の元に毎日通うくらいなのだから、その記憶の中にはきっと、杏にとって大切な思い出がたくさんあったはず――
 そうでなくとも、彼にそれを決めさせるのは、やはり残酷だ。
 花梨は椿を止めようと、口を開きかけた。しかし、それより先に、か細くかすかな声が病室の空気を震わせる。
「彼女が……」
 かすれて、声にもならないような声だ。これは、死の淵に立つ人の声――
 誰もが思わず息を潜め、その声が発する次の言葉を待った。
 声はこう続ける。
「彼女の苦しみが、それで終わるなら……」
 寝台から起き上がることもできないらしい彼は、悲しげな顔で杏の方を見つめている。しかし、たとえ弱々しくとも、その言葉に迷いは感じられなかった。
 椿はこう呼びかける。
蛋白石(たんぱくせき)!」
 その声に応じて現れたのは、どこか儚げな印象の青年だった。
 茫然としている杏に向かって、蛋白石はそっと右手をかざす。その途端、杏は眠るように目を閉じた。花梨は慌てて抱き起こしたが、どうやら気を失っているだけらしい。
 蛋白石はそれを見届けると、椿の方を振り向いた。
「これで、いいのかな? 椿」
「そう。これでいいの」
 そう言って、椿は迷いなくうなずく。蛋白石は少しだけ苦笑のようなものを浮かべると、さとすようにこう言った。
「けれどもね、椿。ひとつだけ言っておこう。私の力は、君が先ほど彼に伝えたものとは、少し違う。私は記憶を消すのではない。私は君たちから、ただ記憶を受け取るだけ」
 蛋白石はそう言うと、自身の本体――椿が手にしている石を、寝台の彼に示した。
「安心するといい。あったことを取り消すことはできない。なかったことにはならない。美しい思い出の欠片は、今も私の中で輝いている」
 その石の内側では、確かに赤や緑や青や黄色――さまざまな色彩の光が、燃えるように煌めいている。その虹色の閃きを瞳に映して、寝台の上の彼は静かに目を閉じた。



「蛋白石。英語名はオパール。非晶質のため厳密には鉱物の定義に当てはまらないのですが、ほぼ鉱物として扱われている石です。二酸化ケイ素の球が重なったような構造をしていて、透明なものから不透明なものまで、さまざまな色のものがあります」
 いつものように、座敷で槐の話を聞いていた。部屋の隅では素知らぬ顔をした椿が本を読んでいて、座卓の上には彼女が病室まで持って来ていた石――蛋白石がある。
「蛋白石には遊色効果(ゆうしょくこうか)といって、光の回折(かいせつ)によって虹色に輝くものがあり、これは特にプレシャスオパールと呼ばれています。貴重な石を意味するサンスクリット語がオパールの名の由来とされていますから、おそらくこうした輝きからその名がついたのでしょう。対して、遊色効果を持たないものはコモンオパールと呼ばれています。和名の蛋白石は、卵の白身に似ていたから、そう名づけられたそうですよ」
 目の前にある蛋白石は、表面こそ、そのほとんどを灰色の岩石に覆われているが、内側には、角度によって赤や緑や青や黄色に変わる不思議な光が輝いているのが見える。だとすれば、ここにある蛋白石はプレシャスオパールに分類されるのだろう。
 蛋白石についての話を聞いた後、花梨は今回の経緯を槐に話した。翡翠が感じた妙な気配についても伝わってはいたようだが、それについては漠然としすぎていて、槐には何とも判断がつかないらしい。
 話を終えた後、店に去るときになって、花梨はずっと気になっていたことを椿にたずねた。
「どうして、椿ちゃんは蛋白石さんを?」
 狙い澄ましたようにあの病室に現れていたので、気にはなっていた。椿がこのことに関わる理由はない。そうでなくとも、椿にはなぜ蛋白石の力が必要になることがわかったのだろう。
 椿の方もそれをたずねられるだろうことは覚悟していたのか、花梨をじっと見返すと、ため息をついてから、こう答えた。
「毎日通ってるって言ってたでしょう? それで、ちょっと前に読んだ本を思い出して」
 そう前置きをしてから、椿はこう話し出す。
「言い寄って来る相手をかわすために、百夜通って来るよう吹っかける話。知ってる?」
「小野小町の百夜通いのこと?」
 花梨はそう返したが、椿は首を横に振った。
「違う。私が読んだのは、たぶん民話か何かで、男女が逆。対岸に火を灯すから、百夜続けて海だか湖だかを(たらい)で渡って来い、って言うの」
 なぜ盥なのだろう。と花梨は思ったが、今は指摘しないことにした。
 椿はこう続ける。
「でもね、その男は、本当に毎晩暗い水面を渡ってくるなんて気味が悪いって、途中で火を消してしまうの。それで、女は溺れて死んでしまう。ひどいと思わない?」
 椿は心底憤っているように、そう言った。そして、花梨からは目を逸らしながらも、ぽつりとこう呟く。
「だから、本当にその人のことを思っていたなら、始めから火を灯してはいけなかったの。そうでしょう?」
 その声がほんの少し悲しげに聞こえて、花梨は思わず椿の手を取った。椿はけげんな顔をして振り向いたが、その手を振りほどくことはない。
 記憶を消すという選択を彼に示したこと、椿にも迷いやためらいがなかったわけではないだろう。その結末についても、責任を感じているのではないか、と花梨は思っていた。
 しかし、椿はあくまでも平然とした顔をしている。
 花梨のことを見返しながら、椿はふいに、こうたずねた。
「どうしたの? そんな怖い顔をして」
 花梨はその言葉にはっとして、ようやく自分が顔をしかめていたことに気づく。
 杏が言っていた、彼女に不安を与えた誰か。そのことを、花梨はずっと考えていた。
 誰か、と言うからには、それが漠然とした何かを指しているとは思えない。杏があそこまで不安定になったのには、おそらく何かしらの理由があったはず。それは、誰かの悪意なのか。それとも。
 花梨は杏たちのことを思い出しながら、その考えを口にした。
「彼が火を消したわけじゃない。宝坂さんが約束を破ったわけでもない。あのふたりには、もっと違う結末があったかもしれないのに。けれども、誰かが彼女を不安に陥れた」
 もしも、そうだとしたなら――
「誰かが……」
 花梨はそのとき生まれた感情を自分でも持て余しながら、茫然とそう呟いた。
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