第二十三話 蛋白石(四/六)

文字数 4,364文字

 彼と初めて言葉を交わしたのは、高校に入学したときのこと。クラスメイトというだけで、特別な出会いをしたわけではなかったけれども、高校生活を一緒に過ごしていくうちに、彼とは気心の知れた仲になっていった。
 異変があったのは、高校三年の秋。大学受験で忙しい日々の中、体調を崩したということで、彼は学校を休むことが多くなる。心配ではあったけれども、自分のことは気にしないように、と彼からメッセージが届いていたから、そのときは勉強に集中するよう努めていた。
 そもそも彼とは恋人同士というわけでもなく、かといってただの友だちにしては親密だという、そんな微妙な関係だ。高校を卒業するときには、あらためてこの気持ちを伝えよう。あの頃の自分は、そんなことを思いながら、無邪気に明日を夢見ていた。
 それが本当に儚い夢でしかないことを知ったのは、卒業式も間近に迫ったある日のこと。久々に会った彼から、重い病のため、もう長くは生きられないだろうことを知らされた。
 あまりにも受け入れられない現実を前にしたとき、人は何も考えられなくなるものらしい。頭の中が真っ白になり、何も言えないでいると、彼はさらにこう話した。
 ――これからはもう、会わない方がいい。自分のことは忘れてもらってかまわない。そうでないと、きっとつらい思いをさせてしまうから。
 彼の言葉は正しいのかもしれない。これから先、何かしらの奇跡が起こって――なんてことを夢見てしまうのは、きっと甘い考えなのだろう。
 それでも、杏にとって、彼はかけがえのない人だった。
 戸惑う彼を説き伏せて、杏は彼と約束する。
 ――私は毎日あなたに会いに行く。だから、どうか一緒にいさせて欲しい。
 その日から、杏が彼の元へと通う日々が始まった。
 たとえ余命が告げられていたとしても、それは定められた命の期限というわけではない。病に苦しむ彼を支えるために、杏はできる限りのことをすると決めた。
 いつか訪れるそのときを覚悟しながらも、時を惜しむように彼と過ごした毎日。つらいことがなかったと言えば嘘になるが、その日々を苦にしたことなど一度もない。
 時は経ち、告げられた期限はとうに過ぎていたが、それでも彼はどうにか命をつないでいた。とはいえ、奇跡が起こることはなく、彼の病は進行し、苦しみをなるべく減らすための医療へと移行する。
 彼のことを誰かに打ち明けようと思ったことはない。高校のときからの友人にも、大学での新しい友人にも、誰にも。さすがにお互いの家族くらいは事情を察していただろうけれども、その程度だ。
 これは、ふたりだけの秘密の約束――そう思っていた、はずだった。


 ある日のこと。所属していたサークルの部室にいたとき、何気ない会話の中で、なぜか彼のことを話してしまった。
 どうして話してしまったかはわからない。話すつもりなどなかったし、話したこと自体は覚えているのに、どういう流れでそうなってしまったのか――その記憶はおぼろげだ。
 それでも親しい友人たちが相手なら、こんな思いをすることなどなかっただろう。なかったはずだ。
 しかし、そのときはそうではなかった。
 今となっては、話した相手が誰なのか、どうしても思い出すことができないのだが、そのとき耳にした言葉だけは、今でもはっきりと覚えている。
「それは大変だね。かわいそうに。あなたもつらいでしょう? だから、その人には早く死んでもらわないとね」
 とっさに、その言葉の意味を理解することができなかった。
 何の反応も返せずにいると、相手は哀れむような声で、こう続ける。
「だって、そうでしょう? その人には未来なんかないんだから。そんなことに、いつまでもつき合っていられないもの」
 発言の意図がわかった途端、杏は怒りをあらわにした。あんなに声を荒げたのは、生まれて初めてのことだったと思う。
 そのとき相手が、どんな表情をしていたのか――驚いていたのか、それとも後悔していた風だったのか――なぜか全く思い出せない。まるで厚い雲がかかったかのように、そのときの記憶はやはりおぼろげだ。
 残っているのは、心無いその言葉と、もやもやとした苛立ちの感情だけ。
 その場にいられなくなった杏は、飛び出すように部室を出て行った。それ以来、あの場所には近づいてもいない。
 それでも、しばらくはその言葉を思い出すたびに、怒りと悲しみで感情がひどく乱れた。思い出したくはないのに、ふとしたときに、どうしても思い出してしまう。
 ――その人には早く死んでもらわないとね。
 闇の向こうから聞こえてくる声は、ぼんやりとしていて誰のものかも判然としない。しかし、その声は、記憶がおぼろげになるにつれて、徐々に別の声へと変化していった。
 それは、もっとも身近な者の声。すなわち、杏自身の声へと――


 いつものように病院の廊下を歩いていた。
 受付や診察室の辺りには人の姿も多いのだが、階が違えばその喧騒からも遠ざかる。そうして、階を上がっていくにつれて、周囲は気だるいような、息を潜めるような、そんな静けさで満ちていく。
 杏が向かう病棟には、重い病気の人たちのための病室が並んでいるからだろう。あるいは、杏がそのことを知っているからこそ、そう感じるだけかもしれないが。
 目的の部屋に着くまでは、じっとリノリウムの床を見つめていた。周辺をまじまじと見るのは、何となくはばかられたからだ。きつい消毒薬の匂いが漂っているが、それにはすっかり慣れてしまっている。
 病室の扉を開けて部屋の中をのぞき込むと、寝台を隠すカーテンが風でかすかに揺れているのが目に入った。垂れ下がった白い布には、(ひだ)によって(いびつ)になった彼の影が映し出されている。
 声をかけてから、カーテンの向こう側をそっとのぞき込む。管がつながれた彼の顔が、ゆっくりとこちらへ振り向いた。
 そこに見えた死の影に思わず息を飲みそうになるが、杏はどうにかそれを押し殺す。
 枕元に座って、明るく彼に話しかけた。いつものように。しかし、うなずいてくれるその顔には明らかな衰えが見えて、意識をしなければ目を逸らしてしまいそうになる。
 生きている人が横たわっていても、よく見れば息をしていることがわかるし、その姿に死を見出すこともない。あるいは、かつて葬式で見た祖母の亡骸には当然生気はなかったのだが、それはしんとして穏やかなものだった。
 しかし、死の淵にある人の気配というものは、そのどちらとも違う。深い穴に引きずり込まれるような、そんな重い空気をまとっている。
 彼の姿を前にして、ふと頭の中に像を結んだ光景に、杏は思わず顔をしかめた。
 九相図(くそうず)というものがある。屋外に置かれた死体が朽ちていく経過を九段階に分けて描いた絵だ。
 有名なのは、嵯峨天皇(さがてんのう)の皇后であった橘嘉智子(たちばなのかちこ)――檀林寺(だんりんじ)を創建したことで檀林皇后(だんりんこうごう)とも呼ばれる――の絵だろうか。彼女は諸行無常を自らの身をもって示すために、死後は遺体を辻に放置するよう遺言した。
 それが京都にある帷子ノ辻(かたびらのつじ)の地名の由来だ。帷子とは、すなわち死装束である経帷子(きょうかたびら)を指す。九相図はその光景を描いたものだそうだ。
 その、朽ちていく屍の絵が、彼の姿に重なった。
 管がつながれた彼の腕は、目を背けたくなるほど細く弱々しい。それを目にするたびに、杏は声を上げて叫び出してしまいそうになる。そんなことを思うようになったのは、いつからだろう。
 ――彼は、まだここに生きている。
 彼の元に通い始めた頃、その事実は、それだけで杏にとっての希望だった。しかし、その思いは少しずつ形を変え、ねじれて、今では別の感情へと歪んでしまっている。
 ――彼は、まだここに生きている。かろうじて。
 彼と会うたびに、そう思った。しかし、これではまるで、死んでないことを確かめに来ているみたいではないか。
 そんなことを考えているとき、杏はふいに、あの言葉を思い出す。
 ――その人には早く死んでもらわないとね。
 あのとき怒りをあらわにしたのは、それが見当違いの指摘だったからではないのかもしれない――と杏は思い始めていた。あの言葉はむしろ、自分の中にある小さな不安を言い当てていた。だからこそ、あんなにも苛立ちを覚えたのではないだろうか。
 九相図に描かれた野ざらしの屍は、腐敗し、獣に食われて、最後には骨となり野に帰っていく。それで終わりだ。
 自分はただ、その様を見届けるためにここに通っているのかもしれない。彼と顔を合わせると、杏はどうしても、そんなことを考えてしまう。
 九相図に描かれた有名な人物にはもうひとり、小野小町(おののこまち)がいる。
 小野小町は『古今和歌集(こきんわかしゅう)』において六歌仙(ろっかせん)の一人に挙げられてはいるが、出自は不明で、晩年についても不確かな伝承が多い。真言宗の寺院である随心院(ずいしんいん)がゆかりの地として知られるが、彼女の墓所は日本の各地に点在していた。能では、老いて乞食となった小野小町の物語が描かれてもいる。
 有名な百夜通(ももよがよ)いの逸話もまた、創作された伝説だ。
 小野小町に思いを寄せる深草少将(ふかくさのしょうしょう)は、彼女の元に百夜通うことを約束する。しかし、百夜に届く直前に、深草少将は命を落としてしまう。
 杏もまた、いつ切れるのか分からないような弱々しい糸を頼りに、ずっとこの険しい道を歩いていた。しかし、そうして彼の元に通い続ける毎日の先にあるのは、彼の死だけ。それ以外にはない。
 ならば、いっそ早く切れてしまえ、などと考えてしまうのは、彼の死を願うことに他ならないだろう。そんな心の揺らぎを、自分ではどうにもできなくなっていた。
 ――私はいつまで、こんな日々を過ごせばいいのだろう。
 ふと浮かんだ疑問の言葉。これは、あのときの言葉と、どれほどの違いがあるというのか。
 ふたりの行く末にこんな運命が待ち受けていると知っていたなら、あのとき約束を交わすこともなかったのだろうか。それでも、始めてしまったからには、物語が終わるまで、きっとそこから逃れられはしない。
 だとすれば自分もまた、約束の日までには、この道を踏み外してしまうのだろう。
 そうして、自分が今まで歩んで来た道をぼんやりと思い返していると、ふと――そういえば、と杏はここに訪れる前に会った人のことを思い出した。
 友人の妹を名乗る人物。顔立ちが似ていたから、おそらく嘘ではないだろうとは思う。
 その友人が、行方不明になっていることは知っていた。しかし、今の杏に彼女を思いやる余裕などない。
 友人たちとの日常は遠い過去へと追いやられて、今はただ、あの恐ろしい声が、言葉が、闇の向こうから、ふいに聞こえてこないことを願っている。
 ――その人には早く死んでもらわないとね。
 誰かが、確かにそう言った。
 でも、あれはいったい――

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