第八話 石墨(四/四)

文字数 5,077文字

「なるほど。軽い気持ちでそのようなことをしたのなら、苦言を呈していたところなのだが」
 ふいに、そんな声がした――墨をぶちまけるような音に混じって。音はまだ続いていたが、声は不思議と真っ直ぐにこの耳に届いた。
 状況が理解できずに、混乱する。これは一体、誰の声なのか。
「どうやら悔いているようだから、これ以上、わかりきったことは言うまい」
 視線を巡らせているうちに、男の姿を見つけた。あの石と手紙を置いた座卓の前。すっと背筋を伸ばし、全く隙のない姿勢で正座をしている。
 その男は、目の前の手紙を――そして、今もまだ、音を立てて増えていく文字を追いながら、こう言った。
「これは、間違いなくあなたへ宛てた言葉だ。あなたが送ったから、返ってきたもの」
 そんなことはわかっている。わかっているが、どうしようもなかった。憤りのあまり、思わず声を上げる。
「どうすればいいの。これが、私に宛てた言葉って――まさか、これに返事をしろとでも?」
 いぶかしみながらも、そう問いかけた。男はそんなこちらの様子を冷ややかに見ながら、こう返す。
「いや。そんなことをしても意味はない。しかし、届けられる言葉を、このままにしておくわけにもいかない。だから――」
 その言葉とともに、男は軽く右腕を上げた。よく見ると、その手には筆が握られている。
「だから、これはすべて――私が返そう」
 ――返す? どうやって?
 そう思う間もなく、男はその筆で何かを書き始めた。突然のことで呆気にとられてしまったが、そのうち、あの音が止んでいることに気づく。
 しかし、男が文字を書くことを止めた途端、さっきの音が鳴り始めた。それを見て、男はまた何かを書き出す。そのくり返し。
 やり取りをしているということだろうか。頭から被ったブランケットの影から、その行動を見守る。何度それが続いただろう。男はふいに、筆を置いた。それからは一切、墨の音はしなくなる。
 這い出して、辺りを見回した。墨の文字は――どこにもない。部屋の壁にも天井にも、どこにも。
 筆を置いた男の手には、一枚の紙があった。それをながめなから、男はおもむろに口を開く。
「相手を哀れんだこと、それによって行動したこと――それ自体は間違ってはいない。あなたが間違ったのは、ただひとつ」
 男は手元の手紙から目を離すと、鋭い視線をこちらに向けた。
「安易に、見返りを求めたことだ」
 見返り? そんなものを求めただろうか。考え込んでいるうちに、男は続ける。
「手紙を送るなら、あなたの言葉でなくてはいけなかった。死者の代わりではなく」
「でも……そんなことしたって、何の意味があるっていうの。あの人が欲しかった手紙は、亡くなったあの人の――」
 言い訳のようにそう言うと、咎めるような目でにらまれた。思わず、口をつぐむ。
「それがいけないと言っている。利己心(エゴ)なのだろう? ならばやはり、死者の代わりに手紙など書くべきではなかった。それだけだ」
「そう、ね……そうかもしれない」
 気が抜けたように、そう呟く。
 確かに、夫からの手紙なら、あの人は喜ぶだろうと、そう思った。自分が手紙を書いたところで、何の意味もない。だからこそ、そうした――そうしてしまった。
「ごめんなさい」
 自然と、その言葉が口をついて出た。
 誰のためだろうと自分のためだろうと、こんなことをしてはいけなかった。きっと、そういうことなのだろう。
 男はそれを聞いて、うなずいた。そして、手にしていた手紙を、こちらに差し出す。
「これで終わりだ。ただ、ひとつ忠告しておこう。このことは誰にも語らぬことだ。店のこと、石のこと――もちろん、手紙のことも。さもなくば、再び手紙が届くことになる。望まぬ者からの手紙が」
 男はそう言うと、跡形もなく姿を消した。座卓の上には、石がひとつ置かれているだけ。
 これで、終わり。そう言って差し出された手紙は、間違いなくあの人の筆致で書かれたものだった。そうして、そこに書かれていたのは――
 ――私の名前だ。ならばこれは、私に宛てた手紙なのだろう。

 お手紙とてもうれしかった。ありがとう。

 たどたどしい文字で、そうあった。これは本当に、あの人からの手紙だろうか。自分に都合のいいように現れた、幻なのでは――
 いや、もういい。男の言うとおり、これで終わりにしよう。そして、もう過分なことは求めない。そう、心に決めた。

     *   *   *

「無事に返してもらえて、よかったですね。石墨さん。僕も、ほっとしましたよ」
 女が店を去ったあと、桜はそう話しかけた。槐の目の前にあるその石に。
 託されたときと変わらない姿で石墨は座卓の上に置かれている。槐があの人に渡したときには返しに来てくれるかどうかすら不安だったのだが、どうやらそれは杞憂だったようだ。
 約束どおり、あの人は石墨を持って再び店を訪れた。怪奇現象とやらも、無事に解決したらしい。
「僕はまた、石英さんや黄玉さんの力を借りて探し回らないといけないかと、心配してました」
 桜がそう続けると、それに応えるように石墨は姿を現した。
 石墨は所作に隙のない、黒髪で細身の青年だ。彼の姿は、いつ見ても恐ろしく姿勢がいい。着流し姿は少し槐と似ているが、冷たい印象を受けるその顔立ちは全く似てはいなかった。
 涼しげな表情で、石墨は言う。
「悪い人物ではなかったように思う。そう用心する必要もなかったかもしれない」
 それを聞いて、槐もようやく安堵したようだ。肩の荷を下ろしたように、軽く笑みを浮かべている。
「そうか……すまないね。嫌な役を押しつけたかと思って、申し訳なく思っていたのだけれど」
 その言葉に、桜がけげんな表情を浮かべると、槐は苦笑してこう続けた。
「空木さん……だったかな。あのとき、彼に呪いのことを話したのは、私も少しうかつだったかと思ってね。石墨に、今回は釘を刺してもらうよう頼んだんだ。嘘で脅すようなことは、したくなかったんだが……」
 あのとき浮かない顔をしていたのは、それが理由か。桜は納得した。
「何を言ったんですか? 石墨さん」
「私の存在、この店のこと――あるいは、起こったことを他に話せば、また手紙が届くようになるだろう、と――まあ、ありもしないことだか」
 そんな風に、口止めをした訳か。あれだけ手紙に怯えていたのだから、あの人はこれで、店のことを誰かに話すことはないだろう。
「ところで結局、手紙って何だったんです?」
 あの人は、死者から手紙が送られてくる、というようなことを言っていた。そんなことが、本当にあるのだろうか。
言霊(ことだま)だ」
 石墨はそう答えた。
「言霊? 言葉には霊力があって、言ったことが本当になる、とかいうあれですか」
 石墨はうなずく。
「そうだ。言葉には力がある。それでいて、書くという行為は呪術的な意味も持っている。あの者は、己が本来してはいけないことをしている、ということを自覚していた。だからこそ、送られた言葉は返り、自身を苛んだのだろう」
「それって結局、自分で自分を呪ったようなものってことですか?」
 ほとんど表情を変えずに、石墨はそれに答えた。
「そうだな。言葉は使い方次第で恐ろしいものとなる。口にした言葉自体が力を持つ、というだけではない。それはときに自身も思わぬ意味に解釈され、意図せぬ意味を与えられてしまう。そして、それはいずれ己に返ってくる」
 そこでようやく、石墨は少しだけ顔をしかめた。
「ましてや今回は、死者の代わりに手紙を書いたという。そのことが、悪い方へ作用してしまったのだろう」
「それが、あの人の後悔だったんですね」
 手紙を書いたのか、という槐の問いかけに、あの人は苦い顔をしていた。いけないことだとわかっていても、そうしてしまった。そのこともまた、彼女自身を苛んだという呪いの一端だったのかもしれない。
 石墨はそこで軽く首を横に振った。
「自身のしたことをずいぶんと悔いていたようだし、あの者は少なくとも、同じ過ちを犯したりはしないだろう。この件については、これ以上わずらわされることはあるまい」
 石墨はそう言って、姿を消した。
 すべての不安が払拭されたわけではないが、少なくとも今回の件は、これで決着したようだ。槐のみならず桜もまた、このことには、ほっと胸を撫で下ろした。

     *   *   *

「へえ。解決したのか。そりゃすごい」
 空木は思わずそう口にしてから、心の中で、しまった、と呟いた。ただし、表情には出ていない。それでも、相手はあからさまに嫌そうな表情を浮かべた。
「ちょっと待って。それ、どういうこと? 私、あなたが、あの店なら解決できるっていうから、相談に行ったんだけど?」
「できる、なんて言ってない。できるかも、と言ったんだ。それにしても、そうか。解決したのか……」
 とぼけたように、そう呟く。相手はいよいよ苛立ちの感情を隠さなくなったが、空木はそれを取り成そうとも思わなかった。
 特に流行ってもなさそうな古い喫茶店の店内。会話の相手は、高校のときの同級生だった。
 とはいえ、空木は同窓会だの何だのには縁がなかったので、実のところ今の彼女のことなどほとんど知らない。卒業してから全く会っていなかったのに、急に連絡があって久々に会った。そうして会うのは二度目だ。
 顔をしかめる女に、空木は冷めた視線を投げかける。
「そもそも、だ。どうしたって、怪奇現象だの幽霊だの相談相手に俺を選んだ? ライターとしていろいろと手を出しているとはいえ、そんな記事を書いた覚えはないんだが」
「それは、だって。あなたの家が――」
 そこまで言いと、相手はばつが悪そうな表情になって黙り込んだ。空木は鬼の首でも取ったかのように捲し立てる。
「あーはいはい。やっぱりね。たいして親しくもなかったのに連絡してきたと思ったら、それか。確か始めは――あなたがライターをやってるって聞いたから、そういうことにもくわしいかと思って、みたいなことおっしゃってましたけど。結局、そっちを当てにしてたってことね。まあ、そうだろうな」
 わざとらしく嫌みを言うと、さすがに相手も言い返す気力を失ったようだ。ただ、空木も、さすがにこれは言い過ぎたか、と思わなくもない。
 とはいえ、ここは空木としても、はっきりさせておきたいことではある。
 案の定、相手は怒りを通り越して呆れたようだ。ため息とともに、こんなことを言い出す。
「……あなた、まだ実家に反発しているの?」
 その問いかけに、空木は少し、むっとした。
「高校のときが一番ひどかっただけで、今はそうでもない。じゃなきゃ、京都にも戻ってないさ」
 そう言って、空木は早々に切り替えると、たった今聞いたことについて考え込んだ。とはいえ、たいしたことは話してもらっていない。例の件が解決した――と、その報告を受けただけ。
「それで、あの店――どんな感じだった?」
 あの店というのは、空木が偶然に見つけた店のことだ。石だかを売っていると言っていたが、現物を見せてはもらえなかったので、その辺りはよくわからない。
 ただ、店主は見るからに変わった人物で、呪いのことをたずねても、笑うことも怒ることも、呆れることもしなかった。これはかなり珍しい。
 そうして目星をつけていたところ、たまたま怪奇現象の相談など持ちかけてくるものだから、軽い気持ちですすめてしまった。まさかそれが当たりだなんて、空木も驚いているところだ。
「どんな方法だった? 大金を請求されたりはしなかったか? 他には――そうだな、変なものを買わされそうになったりとか」
 相手はうろんげな表情を浮かべながら、無言で空木を見返している。どうやら、ご機嫌はうるわしくないようだ。しかし、この流れなら当然か。
 問いに答えることもなく、女は大きくため息をつくと、財布から出したお金を、テーブルの端に置いてあった伝票の下へと滑り込ませた。そうして、そのまま立ち上がる。
「解決したことは確かだから、それについては感謝してる。けど、それ以上、くわしく話す義理はないわ」
 女はそう言い捨てると、空木に背を向けて、さっさと去って行ってしまった。それを見送ってから、空木は軽く伝票を持ち上げてみる。注文したものより少し多めのこれは、一応お礼のつもりだろうか。
 もうちょっと、うまく聞き出すべきだったな。そう思いながらも考えていることは、次に自分がどうすべきかということだ。
 あまりうまくもないコーヒーを飲みながら、空木はぼんやりと窓の外をながめた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み