第十八話 沸石(六/六)

文字数 5,510文字

 槐の店に帰ってきた花梨と椿は、通り庭で桜に出迎えられた。
「お帰りなさい。花梨さん。椿ちゃんも」
 明るくそう言う桜を前にして、花梨は普段どおりに振るまうつもりだった。が――うまくいかずに、ひきつったような笑みになってしまう。椿も顔をしかめたまま、ずっと不機嫌そうだ。
 それを見て、桜はけげんな顔をする。
「――って、どうかしたんですか?」
「それが……」
 そう口にしてから、花梨はどう説明したものかと迷う。
 ひとまずは座敷に向かうことにして、そろって歩いて行くと、坪庭の方から槐がひとり座っているのが見えた。向こうも花梨たちのことに気づいたようで――花梨は軽く会釈しながらも、縁側を通り過ぎぐるりと回り込んで行く。顔を合わせると、すぐに――おかえりなさい、と槐に声をかけられた。
 おのおのいつもの位置に落ち着き、ひと息ついてから花梨が取り出したのは、梓から預かったヒキガエル石の指輪。目の前の座卓にそれを置いた途端、その指輪が――いや、おそらくヒキガエル石が――カエルのような鳴き声を発し始める。
 槐は軽く目を見開いたまま、無言で石に目を向けた。同じくぽかんとした顔で、桜がこう問いかける。
「何です、これ?」
 それには、椿がすかさずこう問い返す。
「こっちが知りたいんだけど? 電車の中でも、げこげこうるさいし。周りの人には奇異な目で見られるし。何なの。これ」
 ヒキガエル石は相変わらず鳴いている。カエルのような声で。なぜなのかはわからない。梓の店にいる間は何ともなかったのだが、そこから離れてしばらくすると、こんな風に鳴き始めたのだった。
 桜は難しそうな顔で、ため息をついている。
「はあ。また奇っ怪な物を……でもまあ、翡翠さんが何も言わないなら、危険なものではないんでしょうけど」
「そうだな」
 と同意したのは、翡翠の声だろう。椿は不服そうに、自身が持っている翡翠の勾玉に視線を送っている。
 桜もまた、呆れたようにうーんとうなった。
「そうだな、じゃなくてですね――」
 桜の言葉をさえぎるように、ふいに姿を現したのは碧玉だった。ものすごい形相でヒキガエル石をにらみつけながら、忌々しげに口を開く。
「またか。これで何度目だ? 骨董屋の主人だか何だか知らんが、いいかげんに忠告したらどうだ。槐」
 骨董屋の主人、というのは当然、梓のことだろう。また、という言葉に、花梨は思わず首をかしげた。
 とはいえ、碧玉はおそろしく怖い顔でヒキガエル石を見下ろしている。とてもではないが、気軽にたずねられるような空気ではない。
 しかし、それについては桜がこそっと教えてくれた。
「梓さん、でしたっけ? あの人、たまに妙なものを持ち込んで来るんですよね……しかも、自覚がないらしく」
 自覚がない、とはどういうことだろう。梓はこの指輪のことを、奇妙なことを起こすとは言っていた気がするが――
 槐は苦笑しながら、こう話す。
「怪異や呪いが荒れた波のようなもの、という話をしましたが、そう考えるなら、彼女の存在はその波間にあって小揺るぎもしない岩礁のようなもので。影響を受けない――どころか、打ち消してしまうようなのです。たまに、そういうものに強い体質の方がいらっしゃるんですが」
 槐がそう言うと、それまでヒキガエル石をにらみつけていた碧玉の視線が、唐突に花梨の方へと向けられた。
「とにかく、だ。君がここで働くことについては了承したが、だからと言って、妙なものを持ち込まれては困る」
 そう言われて、花梨は思わず身を固くする。まだ正式に働いてもいないのに叱られてしまった。
「す、すみません……」
 花梨が慌てて頭を下げると、それを庇うように黒曜石が声を上げる。
「碧玉。そうは言っても、花梨はただ預かっただけなのだから……」
「だから何だ」
 と凄まれて、黒曜石は黙り込んだ。そのとき。
「まあまあ。碧玉くん。いいじゃないか。この程度の怪異なら――おもしろくて」
 笑い混じりにそう言ったのは、石英だった。いつの間にか縁側に腰かけている。
 石英はどこか楽しげにヒキガエル石の方を振り返ると、ふいに何かを思いついたような顔になって、こう叫んだ。
「そうだ。煙くん。煙くん! こっちにおいでよ。この石の見る夢を見てごらんよ」
 呼びかけに応えるものはいない。代わりに、呆れたような顔になって碧玉が姿を消してしまった。
 石英はもう一度、こう呼びかける。
「煙くんってば。紫くんも一緒に呼ぼうか?」
「呼ぶな!」
 そう言って姿を現したのは煙水晶だ。いつの間にか石英の傍らに立って、彼のことを見下ろしている。
 石英はにやりと笑いながらも、黙ってヒキガエル石のある方を指差した。
 煙水晶は少しだけ逡巡したようだが、いくらもしないうちに諦めたらしい。どうして私が――などと、ぶつぶつ呟きつつも、その手にある煙管から煙をくゆらせた。
 煙水晶はひとりでじっと虚空を――おそらくヒキガエル石の見る夢だろう――を見つめている。しかし、しばらくしてから、彼はひとりごとを呟くようにこう言った。
「どうもこの石、実際にカエルの中へ埋め込まれ、取り出されたことがあるようだ」
 煙水晶はそこで大きくため息をつく。かと思えば、辺りに漂っていた煙を、指をぱちんと鳴らして――消してしまった。
「人の考えることはよくわからんが……大道芸か何かだろう――くだらん!」
 そう言って、煙水晶は周囲をかえりみることなく、この場から去って行った。
 花梨は思わず槐や桜と顔を見合わせる。椿は気づかぬうちに本を読み始めているし、石英は何がおもしろいのか、声を上げて笑っていた。
「どういうことでしょう」
 花梨が戸惑いの視線を向けると、槐はこう言った。
「確か、ヒキガエル石は生きているカエルから取り出さなければならない――といった話があったと思いますが……」
 生きたカエルから、という話は初耳だ。梓もそうは言っていなかった気がする。花梨はこう返した。
「赤い布の上に乗せるなどすると吐き出す――と聞きました」
 槐はうなずく。
「それも伝えられている方法のひとつですね。しかし、もっと直接的に――そのヒキガエル石を取り出す図というのも残されています。それを実践してみせた、ということでしょうか。手品のタネのようなものかもしれません」
 そういえば梓も言っていた。石を売る際には、その性質を実践してみせるのもいい、と。生きたカエルから取り出さなければならない石だというなら、それを実際にやってみせた例もあるのかもしれなかった。
 そうすれば、それを見た者の多くは真実だと思うだろう。たとえそれが嘘のまねごとで、タネや仕掛けがあったのだとしても。
 カエル自身にはかわいそうな話ではあるが――
 石英はようやく笑いをおさめると、槐に向き直ってからこう言った。
「何にせよ、この程度なら沸石の力で静められるんじゃないかい? 槐」
 石英はそれだけ言うと、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、花梨に視線を送りつつも――そのまま姿を消してしまった。
 苦笑しながら、槐はヒキガエル石の指輪を手に取る。
「石英の言うとおり、沸石の力なら、この石に残る呪いの影響を取り除くことができるでしょう」
 その言葉に、花梨は軽く首をかしげた。
「これもまた、呪い――なんですか?」
 槐はうなずいた。
「本来その物が持つはずではない来歴を経たことで、このように道理に外れたことが起こるようになったのでしょう。意図されたものだけが呪いだとは限りません」
 そう話し終えると、槐は沸石の名を呼んだ。忽然と姿を現した沸石は、無言でヒキガエル石を見つめている。
「こちらもお願いできるかな。沸石」
 槐に指輪を差し出されて、沸石はそれを受け取った。そうして、そのまま座敷を去って行く。表の店の方へ向かうのだろうか。
 カエルの鳴き声も遠ざかり、この場がようやく落ち着いたところで――ふと花梨の持っている物が気になったらしく、桜がこうたずねた。
「そういえば、もうひとつ。花梨さんが持ってるそれは何ですか?」
 花梨は傍らにあった紙袋から、中身を取り出した。梓の店で買ったもの。長細い木箱のふたを開けると、その中には十の鉱物が並んでいる。
「モース硬度計。梓さんの店にあって」
 花梨はそう答えたが、桜は何も言わずに木箱をじっと見つめている。気がかりでもあるのだろうか。そう思って、花梨はこう問いかけた。
「どうかした?」
「いえ――花梨さん。これで、引っかいたりはしないでくださいね?」
 花梨は目をしばたたかせた。
 何を言っているのだろう、と思ったが――よくよく考えれば、彼は石だ。モース硬度計は、鉱物で引っかくことで傷つきにくさを調べるもの。だとすれば、桜が心配したのは、自分自身――もちろん石の方の――を引っかかれることだろう。
 花梨は苦笑した。
「そんなこと、考えもしなかった」
 そもそも、彼が石であるという事実ですら、ともすれば花梨はうっかり忘れてしまうことがある。そうでなくとも、怒ったり、おどけたり、不安になったり。そういうところは、人と何の違いもない。
 花梨はあらためて、モース硬度計を見つめた。どうやらこれは、少なくとも例のあの部屋には持ち込まない方がいいようだ。
 花梨はそのとき、ふいにあることを思い出した。
「そういえば……梓さんの店は、あかとき堂というお名前でしたが、その――できれば、この店の名前を教えていただけないでしょうか」
 アルバイトを、と提案されたときから――いや、それよりも以前から、気になっていたことではある。しかし、今の今まで、何となくたずねる機会を持てないでいた。とはいえ、ここで働くからには、知らないというわけにはいかないだろう。
 花梨の言葉に、桜と槐はきょとんとした表情で顔を見合わせている。間を置いてから、桜はようやく口を開いた。
「普段、全然名乗らないので、花梨さんにお伝えするのを忘れていましたね……」
 あっさりとそう言った桜に対して、槐はあらためて姿勢を正すと、こう答えた。
「セキレイ亭、ですよ」
 花梨は首をかしげる。
「セキレイ。鳥、ではない……ですよね?」
 花梨は思わず、そうたずねた。この疑問には、肩をすくめながら桜が答える。
「たぶん、石の霊と書くんだと思いますよ。榊さんの考えていたことは――あ、槐さんのお父さんのことです――よくわからないですからね」
 石霊でセキレイ、か。これはやはり、あの部屋の不思議な力を思った石たちのことを表しているのだろう。花梨はそう納得した。ただ――それを知らない者にとっては、奇妙に思えるかもしれないが。
 槐はさらに、こう説明する。
「それから――亭の方は、おそらく先人に倣ったのだと思います」
 花梨には、その意味がよくわからない。おそらく不思議そうな顔をしていたのだろう。槐はすぐに補足した。
「江戸時代の本草学者に、木内(きうち)石亭(せきてい)という弄石家(ろうせきか)がおりまして。弄石というのは珍しい石を収集することで――要は石好きのことですね。当時の流行りで、石亭は弄石社という集まりを結成し、愛好家たちと交流していました。ちなみに石亭は号で、同じ弄石仲間も、例えば蟹石亭や、鏃石亭などと名乗っていたようです」
 その先人に敬意を表して、ということだろうか。
 花梨はひとまずうなずいた。セキレイ亭。それがこの店の名。それを知れたことで何が変わったわけでもないが――あらためて、ここで働くことになるのだ、と実感する。
 それからは、今後のことについていくつか話し合った。
 大学も春休みに入るが、花梨は実家には帰らないでいるつもりだ。どうなるかはわからないが――姉の大学での足跡(そくせき)を調べてみるつもりだった。その合間になら、この店でのアルバイトについて、いろいろと考える時間もあるだろう。
 日も落ちて、そろそろ帰ろうかという頃になってから、桜は唐突にこう言った。
「そうだ。花梨さん。今日の夕食はうちで食べていってくださいね」
 そんなことを言われるとは思っていなかったので、花梨は面食らう。桜は有無を言わさぬ調子で、こう続けた。
「もう用意してしまいましたから。それに、アルバイト代なんてしばらく出ないでしょうし。それくらいは当然ですよ」
 そう言われてしまっては、花梨もその誘いを受けないわけにはいかない。
 ともあれ、花梨はそうして――初めて音羽家の茶の間に招かれることになった。その席には槐と椿はもちろん、食べられはしないが桜も同席する。
 しかも、夕食はすべて桜が用意したものらしい。彼の手料理は、どこか懐かしい味がした。
 夕食を終えた花梨は、ひとり通り庭へと向かう。片づけがあるだろうと、見送りの方は辞退していた。
 店の板戸は――来たときと同じように、やはりわずかに開いている。その向こうでは、たくさんの箱や石に囲まれて沸石が座っていた。かすかに聞こえるのは、カエルの鳴き声だろうか。
 黒曜石に向かって、気が散る、と言っていたことを思い出して、花梨は沸石に声をかけることを控えることにした。ただ――見えているかはわからないが――彼に向かって軽く会釈する。
 そのとき、沸石がふいに口を開いた。
「碧玉も、決して――いたずらに他者との関わりを忌むわけではない……」
 花梨はあらためて彼の姿に目を止める。沸石はこう続けた。
「黒曜石。おまえもわかっているだろう。できることなら、この店に……あまり面倒ごとを持ち込むことのなきよう」
 沸石はそこまで言うと、細い目線をちらりとこちらに向けた。
「これ以上の呪いは――私たちには手に余る……」
 そう言って、沸石はヒキガエル石の前で静かに目を閉じた。
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