第二十三話 蛋白石(六/六)

文字数 5,386文字

 病院の前で、花梨は杏が現れるのを待っていた。いつかのときと同じように。
 しかし、このとき先に声をかけたのは、花梨ではなく杏の方だった。
「こんにちは。ごめんね。待たせちゃったかな」
 そこにある杏の明るい笑みを見て、花梨は思わず目をしばたたかせた。初めて会ったときとは別人――とまでは言えないが、それでも受ける印象が全く違ったからだ。
 花梨はその戸惑いをどうにか振り払うと、杏に向かってこう答えた。
「いいえ。こちらも来たばかりです」
「そう。よかった。この間はありがとう。私、どうして倒れたのか、全然覚えてなくて。前の日には、あんなにひどいことを言っていたのに……あのときは、本当にごめんなさい」
 病室でのことは、道端で気を失っていた杏を花梨が助けたということになっている。そのことについてお礼がしたいと、あらためて会う約束をしたのが、この日だった。
「それじゃあ、案内するね。近くに素敵なお店があるの。そこで食べられる焼き立てのパンが、とってもおいしいのよ」
 そうして連れられたのは、店内で飲食することもできる、かわいらしい内装の小さなパン屋だった。
 杏は花梨にこう話す。
「エリカのことを、ちゃんと話したかったのだけれど、エリカがいなくなっちゃったときは、私も大変な時期で……何があったか、あまりよく知らないの」
 杏はそう言ってため息をついた。
「自分でもよくわからないことで不安になったり、この前みたいに、調子が悪いときには人に当たったりもして」
 申し訳なさそうではあるが、その話し声には、あのときの不安定さはない。これが本来の彼女だったのだろうか、と思うと、花梨はどうにも複雑な気持ちになった。
 花梨が何も言えないでいると、そのことを心配したのか、杏は慌ててこう続ける。
「私の話ばかりで、ごめんね。今はもう、全然大丈夫なの。大丈夫になっているつもりなだけかもしれないけど……少し前のこととか、記憶がおぼろげなところもあって。でも、今なら調子もいいみたいから、知りたいこと、私にわかることなら何でも答えるよ」
 杏はそう言って、今度は快く、花梨に姉のことや調べていることについて、協力することを申し出てくれた。
 しかし、花梨はあえて彼女にこうたずねる。
「あの……宝坂さんは、この辺りには、よく?」
 杏はその問いかけに、しばしきょとんとしていたが、小首をかしげながらも、こう答えた。
「そう、だね。大学を退学して家にいるばかりだったから、元気を出さないとって思って。よく散歩に出ていたの。この店を見つけのも、そのときに」
 彼女はそう言って、店内を見回した。
「せっかくだから、何か楽しいことを見つけようと思って。そうして意識して街を歩いていると、季節や街の変化にすぐに気づくことができるから。そのたびに、何だか新しい気持ちになって、少しだけ気持ちが前向きになるの。でもね――」
 何かを思い出している風だった杏の表情が、ふいに陰りを見せた。その声には、ほんの少しだけ不安がにじみ出ている。
「どうして、この辺りばかり歩いていたのかは、よく思い出せなくて……家からも遠いのに。ただ、そうして見つけた楽しいことを、誰かに話そうと思っていたような気がする。でも、それが誰だったかが、わからなくて」
 宙に投げられた彼女の視線は、どこか遠くを見つめているかのように、ここにはない何かを探し求めている。
「どうしても、思い出せないの。大事なことだった気がするのに……」
 寂しげな表情を浮かべながら、彼女はぽつりとそう呟いた。

     *   *   *

 実家である寺の敷地の外れには、長年空木が謎に思っている家屋が存在していた。
 謎といっても、その家屋に入ったこともないとか、そういうことではない。空木は何度となくそこを訪れたことがあるし、それどころか、たびたび掃除をさせられていた。
 だから、空木はその家屋のことはよく知っている。そうなると、それ自体はもはや謎でも何でもない。
 わからないのは、なぜそんなところに家屋が建っているのか、ということだ。
 木造平屋の、かなり古いが至って普通の民家だった。電気水道その他生活に必要な設備は全てそろっており、いくらかの生活用品や食料まで備蓄されている。しかし、空木が知る限り、その家屋に人が住んでいた――あるいは、誰かを泊めた――ことはない。
 だから空木はこの家屋を掃除するたびに、なぜこんなことをしなければならないのだろう、と常々疑問を抱いていた。とはいえ、家など使わなければ悪くなるものだろうし、維持するつもりならば、掃除くらいはしておかなければならないだろう。
 そもそも、本当にその理由を知りたいのであれば、親にでもたずねればよかったのだと思う。しかし、空木はそうしなかった。単にそこまで本気で気にしていたわけでもなかったからだ。そうでなくとも、どう見てもただの家屋でしかないのだから、聞いたところで特別ないわれなどありはしないだろう。
 おそらくは、宿坊のようなものだろうとは思う。宿坊と呼ぶほど、大それたものではないのだが。
 ともかく、そうしてそこにある家屋には、今はひとりの女性が住んでいた。自らを呪われていると話す女性が。
 鷹山エリカをそこに住まわせた当初、彼女の生活をあれこれ世話したのは、主に空木と母だった。問題が起こったのは、そんな生活を始めてしばらく経った頃のことだ。
 歩道に突っ込んで来た車にぶつかって、空木は腕を骨折した。
 全治二か月。原因は相手の不注意という話だ。車の運転手は当初、視界が急に暗くなった、などと主張していたらしいが、そのときの空木は、居眠りか酔っ払いの妄言だろうと思っていた。
 今にして思えば、あれも何かの異変だったのかもしれないが――とにかく、問題になったのはエリカの反応だ。
 ただでさえ神経質になっているだろう彼女に事故のことを伝えればどうなるか。とはいえ、腕の骨折など隠しきれるものではない。
 案の定、エリカはその事故を自身の呪いのせいだと考えた。
 出て行こうとするエリカを必死に止めたのは空木だ。説得によってその場はひとまず落ち着いたが、今度は母が何らかの病で寝込むことになる。
 細菌性の肺炎だ。別に原因不明の病ではないので、ちゃんと治療さえすれば大事ないとのことだった。とはいえ、それがわかるまでは、空木も少々ひやりとしたのだが。
 実際のところ、立て続けに起こる不幸をエリカと全く関連づけて考えなかったか、と言えば嘘になる。とはいえ、呪いだの何だのという前提がなければ、これらは単に、近頃運が悪いな、くらいで済ませられるようなことではあるだろう。
 それでも、母の入院が決まったときには、少しだけ気弱になったこともあって、空木はそのときうっかり、呪い、という言葉を口にしてしまった。
 空木の家では、その手の言葉は禁句として扱われている。なぜなら、もしも兄の耳に入れば相当面倒なことになると、誰もが重々承知していたからだ。
 兄は呪いの存在など露ほども信じていない。いや、認めていない、といった方が正しいか。
 ともかく、その単語をちゃっかり耳にしてしまった兄は、空木のことを思う存分罵ると、その足で例の家屋へと乗り込んだ――もとい、訪ねに行ってしまった。
 か弱い女性を相手に、まさか追い出したりしないだろうな、と空木は恐々としていたが、意外なことに、兄はエリカと話をつけてきたらしい。母の病についても知らせたらしいが、取り乱すこともなかったと言う。
 いったい何を話したのか。気になってエリカにたずねてみたところ、要はいつものとおりに、呪いなど存在しない、ということを延々と説教――というほど厳しくはないだろうが――したらしい。恐ろしい男だ。それが真実であれ気のせいであれ、呪いに悩んでいる相手にすることではないと思うのだが、エリカの場合は、思いがけずそれが功を奏したようだ。
 おそらくは、兄くらい頑迷な者に、呪いなどない、と言い切られてしまうと、むしろ安心するものなのだろう。兄の面倒くさい部分が初めて役に立ったらしいことに、空木は妙に感心した。
 そうして、兄はたびたびエリカの元を訪れるようになったが、その兄は現在に至るまで病気や事故に煩わされたことはない。兄は身をもって、呪いなどない、ということを示したことになる。とはいえ、式の話を信じるなら、兄にはそういったことには、そもそも耐性があるらしいのだが。
 兄の説教だか説法だかにつき合わされることになったエリカには同情するが、空木相手には厳しい兄も、それ以外の人には別人かと思うほど外面がいいから、おそらく怖がらせるようなことはしていないだろう。
 どのような形であれ、心を安らかに保つことはよいことだ、と式は言う。不安定であると、悪いことを引き寄せることになるから、とも。
 それが正しいかどうかは別にして、それなりに納得できる理屈ではある。悪いことというのは、なぜか続けて起こるものだ。
 とはいえ、そうして平穏だからといって、それでエリカの呪いが消え去るわけでもないようだが。
 今の空木の目には、エリカがいるだろう方向に、あるはずのない木の姿が見えていた。車骨鉱のときは歯車が見えていたことを思えば、要するに、あれが木の呪いなのだろう。
 ――今のところ、変化なし、か。
 槐からは、その木に何かあればすぐに知らせて欲しいと頼まれている。変化がなければ、今しばらくは問題ないだろう、とも。
 そんなわけで、境内の掃除をしながらその木をながめていた空木は、そちらの方から誰かがやって来ることに気づいて、すぐさま背筋を伸ばした。
 現れたのは、空木の兄だ。
 作務衣(さむえ)姿だから、仕事中ではないだろう。普段の兄はだいたいこの格好だ。
 それ以外に特徴を挙げるとするなら、頭に毛がないことくらいだろうか。坊主なのだから、当たり前なのだが。
 兄はどことなく不機嫌そうだった。とはいえ、空木と話すときの兄は大抵こんな顔つきではある。どうも、弟が相手なら、そうしたことを取り繕う必要もないと思っているらしい。
 だから空木は気にすることなく、いつものように軽い調子で声をかけた。
「エリカさん、どうだった?」
 別に変なことをたずねたつもりはないのだが、兄には思い切り顔をしかめられてしまった。しかも、何のひとことも発することなく、そのまま空木の目の前を通り過ぎてしまう。
 空木は慌てて呼び止めた。
「待った。エリカさんに何かあったなら知らせてくれないと。もし――」
 呪いが悪化しているならば――悪化するなんてことがあるかは知らないが――槐に知らせなければならない。
 そんな心中を読み取ったわけでもないだろうが、兄は途端に怖い顔すると、空木のことをにらみつけた。
「どうして、おまえにそんなことを知らせなければならない?」
「どうしてって――俺が彼女を保護したんだから、気にして当然だろ」
「まさか、また妙な連中に関わらせようと画策してるんじゃないだろうな」
 兄が言う妙な連中とは、巷にいる霊能者だとかそういう人たちのことを指す。空木は兄ほど呪いを頭から否定しているわけではないから、そうした者たちに頼ることを考えたこともあった。
 とはいえ、調べれば調べるほど、うさんくさく思えてしまったので、結局のところ、それについては早々に断念しているのだが。そうして漠然と呪いにくわしい人物を探していたところ、見つけたのが槐の店だ。
 ともかく、エリカのことについては空木もいろいろと手をつくしているわけだから、否定するばかりの兄にどうこう言われる筋合いはない。空木は思わず不満を口にした。
「妙な連中ってなあ。呪いなんてないって兄貴のスタンスは知ってるよ。だけど、エリカさん自身はそう主張してるだろ。だとしたら、しかるべき人に――まあ、霊能者とかじゃなく、たとえば、心療系――の医者――だとかに診てもらった方がいいって考えはおかしくないと思うんだが。みんな、兄貴みたいに強靭な心を持っているわけじゃないんだから」
 嘘も方便。兄相手には、こう言っておいた方が無難だろう。少なくとも今のところは。
 案の定、兄は何かを考え込むように黙り込んだ。空木はここぞとばかりに言いつのる。
「ここにいるのはエリカさん本人の意志だけどさ。ご家族だって心配しているだろうし。できることなら、何かしてあげたいじゃないか。俺だって、エリカさんのことについては、いろいろと考えているんだからな。この前も――ほら、桜もちを差し入れたり……」
 偉そうなことを言っているわりには、やっていることがしょぼい。とはいえ、今のところ呪いについては槐に任せきりの状況ではあるから、仕方がないだろう。
 ともかく、それは何気ないひとことだったのだが、思いがけず兄の表情が変わった。空木がいぶかしく思っていると、そのことに気づいたのか、兄は自分に言い聞かせるように、こう返す。
「おそらく……大したことじゃない。彼女も少し――疲れているだけだろう」
 兄はそう言って目を逸らした。そんな調子では、言葉どおりに受け取れ、という方に無理がある。
 ――本当に、何かあったのか?
 ふいに浮かび上がってきた不安に思わず顔をしかめながらも、空木は式の見せる幻の木を見上げていた。
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