第十六話 蛇紋石(四/五)

文字数 5,203文字

 そうして――
 蛍石の道案内によって、花梨は深泥池のほとりにある祠へとたどり着いた。
 普通の方法では行くことができないという話だったので、どんなおどろおどろしい場所かと思ったのだが――そこは何の変哲もない、少し開けた空き地のようなところだった。
 藪に囲まれたなだらかな山の斜面に、石で造られたらしいこぢんまりとした祠が建てられている。その近くには、深泥池の一端だろう湿地も見えた。
 祠の付近には誰もいない。噂によると、ここには呪いたい相手などを書いたものと、お供えを置いておく――というのが本来の手順だった。この日はひとまずそれに従って、その場でしばらく待ってみる、という手はずだ。
 花梨はふと考える。いつかに聞いた話のように、この祠が行方知れずの豆塚――ということもあるのだろうか。だとすれば、ここには貴船に続く地下道があるという話で――とはいえ、貴船といえば京の奥座敷とも呼ばれている、都のはるか北に広がる山地だ。深泥池からは、かなりの距離がある。
 祠は本当に慎ましやかなもので、鬼が通る道を隠しているようには見えない。傍らには柳の木が一本、寄り添うように生えている。
 しばし呆然と辺りの景色をながめているうちに、ふいに、花梨、と黒曜石の呼ぶ声がした。
「何者かが、君のことをつけている」
 花梨もまた、そのことに気づいて背後を振り返った。誰もいないはずのその場所に、誰かが立っている。そして、それは花梨もよく知った人物だった。
 西条浅沙。呪いの噂を知らないと答えたはずの彼は、平然とした顔でこの場に姿を現す。
「驚かないね」
 花梨はこの場面を予期していたわけではないが、それでも彼の言うとおり、不思議と驚きはしなかった。ただ、思いがけないことではあったので、それについての戸惑いがないわけではない。
 そもそも、ここにたどり着くにはいろいろと手順を踏まなければならない、という決まりのはずで――だとすれば、彼が偶然ここにやって来た、ということはないだろう。これはいったい、どういうことなのか――何ひとつ確かなことがわからないこの状況で、花梨はひとまずこう返した。
「そうですね。少なくとも、あなたは呪いのことを知っているだろうとは思っていましたから」
 彼は以前、花梨の問いに対して、呪いのことは知らない、と答えている。しかし、バイト先でのことを考えると、それが言葉どおりだとは到底思えなかった。
 彼のことをどう呼ぶべきかをためらって――花梨は結局こう呼びかける。
「西条さん。あなたは――」
「ああ……それね。偽名。だから下の名前で呼んでねって言ったのに。それに、センパイ、って呼んでくれないんだ。そう呼ばれるのは、案外悪くないと思ってたんだけど」
 浅沙はあっさりとそう返す。あまりにも悪びれた様子がないので、花梨は思わず呆れた表情を浮かべてしまった。
「だとすれば、あなたはいったい、いくつ嘘をついていたんですか?」
 その問いかけに、浅沙は何を答えるわけでもなく、花梨が次に何を言うのかを待っていた。仕方なく、花梨はこう続ける。
「私はあなたにこうたずねました。呪いの噂について知っていたのか、と。あなたはそれを、もしかしたらこの――深泥池のことだと思ったのかもしれません。しかし、私がたずねたかったのは、姉についてのことです」
 けげんな顔で首をかしげている浅沙を見て、花梨は彼とのやりとりを思い出す。
 浅沙は当初、同じ大学だからと言って花梨に親しげに話しかけていた。そのときはそれほど気に止めなかったのだが、大学で不穏な噂が広まっていることを知ってから、花梨はそのことに違和感を抱くようになる。彼は姉の噂のことを、どこまで知っているのだろうか、と。
 だからこそ、久しぶりに顔を会わせたあのとき、そのことをたずねようとした。しかし、彼の答えは、そんなことに興味があるのか、だ。少なくとも、この答えは姉の噂を指してのものではないだろう。知らなかったのか、それともあえてとぼけたのか――
「大学では、姉にまつわる呪いの噂が広まっていました。それは、妹である私のことも合わせて、です。もちろん、同じ大学だからといって知っているとは限らないし、知らない振りをしてくれているのかもしれない――とも思ったんですが、そう考えると、あなたとは学内で会ったこともなくて、話していても大学のことはあまり話題に上らない。それで少し不思議に思って」
「なるほどね」
 と、浅沙はうなずきつつも、軽く肩をすくめた。
「その噂がそこまで広まっていたなら、知らない方が不自然だってわけだ。うかつだったな。そもそも、同じ大学だよ、なんて言うべきじゃなかったか」
 その言葉に、花梨は顔をしかめた。
「確信があったわけじゃありません。でも、それも嘘だったんですね」
「そうだよ」
 浅沙はすぐさま、そう答える。
「どうして、そんな嘘を?」
 彼はその問いかけにも答えなかった。その代わり、無言で祠の方へと歩き出す。花梨とは間隔を空けたまま、その周囲をぐるりと回るようにして。
 落ち葉を踏みしめる、かさかさという音だけが続く中で、浅沙は唐突にこう話し始めた。
「花梨ちゃんはさ、こんな話知ってる? 男がひとり水辺で釣りをしていると、蜘蛛が自分の足に糸をかけていることに気づいた。妙に思った男は、糸を外して近くの木に引っかける。すると、糸はその木を水中に引きずり込んでしまった――」
 話し終えると同時に、浅沙は祠の前で立ち止まった。しかし、彼の視線は何かを探しているかのように虚空をさ迷っている。いや――
「だから、ね。水辺は危ない」
 そのときふいに、花梨の目にも彼が気にしているだろうものが見えた。それは、周囲に張り巡らされた細い糸のようなもの――
 まるで蜘蛛の巣に囚われているかのように、無数の白い線が花梨たちを取り巻いていた。これは明らかに――尋常のものではない。
 花梨は思わず後ずさったが、不吉な気配のするそれはそれこそ蜘蛛の糸のように、少しでもふれると途端にふつりと切れてしまう。それを見て、花梨は槐から借り受けた石たちの存在を思い出した。
 そのことを支えにして、花梨はその糸を恐れることなく、浅沙へと詰め寄る。
「深泥池の噂は、あなたがやったことだったんですか?」
 平然としている花梨を見て、浅沙は軽く目を細めた。
「うん? 花梨ちゃん、おもしろいもの持ってるね。それは弓のとは別のやつ? だったら危険なこともなかったか。まあ、いいけど」
 黒曜石のことを言っているのだろうか。そのことを察してか、黒曜石は姿を現すとすぐさま弓を構えた。しかし、浅沙は矢先を向けられていることなど気にもとめない。
 浅沙は糸が集まっている方――ちょうど柳の木の辺りへ視線を向けている。
「花梨ちゃんは、ここの呪いが誰のせいなのか、知りたかったんでしょ? だったら、これですぐにわかるよ」
 その言葉とともに、彼が取り出したのは灰色の石。その石は、花梨も見た覚えがある。あれは確か――
「火打ち石。どうしてあなたが、それを」
 花梨のその言葉に、浅沙は得意げな表情でにやりと笑った。
「あのとき、くすねておいたんだよ。これで――呪いを返す」
 浅沙はそう言うと、手にしている火打ち石を大きく振り上げた。かと思うと、それをためらいなく近くの岩に叩きつける。高い音を立てて、火打ち石が真っ二つに割れた。その瞬間。
 周囲に巡らされた糸に小さな火が走り、無数の糸はすべて焼き切れてしまった。と同時に、祠の傍らにある柳の木の影からも火の手が上がる。
 花梨は驚いて、そちらに目を向けた。
 赤い炎が燃え上がったのは、一瞬のこと。そのあとは燃え広がることもなく、火は不自然にかき消えていく。
「さすがに防いだか」
 それを見て、浅沙はそう呟いた。
 黒い煙がわずかに残るその場所では、柳の木が静かに枯れ枝を揺らしている。そして、その傍らに立っていたのは――
 女の人だった。見覚えのある姿。しかし、それは火打ち石を持って店長のところに現れた、あの人ではない。
 彼女を見かけたのは、花梨が槐の店を訪れたときのこと。通りに立ち、店の方をじっとにらみつけていた女性だ。あのあとすぐに碧玉と初めて顔を合わせ、何者だ、とたずねられたことをよく覚えている。
 彼女は両手にそれぞれ何かを握りしめていた。そうして、無言でこちらを見つめている。左手には、模様のような割れ目に覆われた、ごつごつとした石。右手に持っているのは糸巻き――いや、よく見るとこれも石のようだ。
 花梨は戸惑った。浅沙は確かに、呪いを返すと言っていた。だとすれば、彼女こそが――
 女は浅沙の方をちらりと見やってから、次に花梨に目をとめると、ぽつりとこう呟く。
「音羽の者では、ない……」
 それを聞いて、黒曜石は庇うように花梨の前に出た。構えた弓の鏃をあらためて女の方に定めると、こう牽制する。
「動くな。何者だ」
 しかし、女はそれに対して、冷ややかなまなざしを返した。
「おまえに人は射てまい」
 そう発言するからには、彼女は黒曜石がどんな存在かを知っているのだろう――それは、浅沙にしてもそうだった。どういうことだろうか。思いがけないことが一度に起こりすぎて、花梨は困惑を隠し切れない。
 そんな中、浅沙は花梨に向かってこう話し始めた。
「さて。見てのとおり。少なくとも、この火打ち石を呪いの依り代にしたのはあの女だよ。これでいいかい? まったく君は、こんなところまで乗り込んで来て。火事のときといい、俺の言うことを聞いてくれないんだから。で、だ――」
 浅沙は女の方を振り返ると、声音をがらりと変えてこう凄んだ。
「この子は音羽の客人にすぎない。わかったら、ここにはもう二度と姿を現すな。俺も音羽と関わるつもりはない。このまま、この地を去る。それで手打ちだ」
 女はそれでも表情を変えなかった。しかし、暗いまなざしで周囲を睥睨すると、彼女は無言のまま踵を返す。
 この場から去るつもりだ。
「待ってください!」
 呼び止める花梨を浅沙が制止する。黒曜石はすぐにその間に割り込むと、浅沙を花梨から遠ざけた。
 黒曜石の行動に、浅沙は肩をすくめている。
「こっちは親切で止めてるんだけどね。ダメだよ。花梨ちゃん。あの女を追ったりしちゃあ。呪いを返したんだから、今は近づかない方がいい。悪い風が吹いているから。向こうも、これでしばらくは大人しくしているだろう。たぶん」
 それは――少なくともしばらくは、深泥池から呪いの石が世に出ることはない――ということだろうか。彼の言い分は、どこまで信じられるのだろう。今のところ、浅沙は花梨に対し、敵意はないように思えるが――
 判断に迷う花梨に対して、浅沙はもう終わったとばかりに祠から背を向ける。そして、山道の方へと歩き始めた。
「まあ、そういうことで。花梨ちゃんも、いいかげんそれと関わるのはよした方がいいよ。どうせ、ろくなことがないからね。これは忠告」
 それ――というのは黒曜石たちのことを言っているだろうか。花梨は混乱する中で、どうにかこれだけを問いかけた。
「あの女の人が、ここの呪いを引き受けていたとして、あなたはいったい。それに」
 姉のことは――
 花梨がそう続けるより先に、浅沙はこう答える。
「実のところ、ここのことはもう放っておくつもりだったんだよね。あの連中とは顔を会わせたくなかったし。でも、まさか店長が巻き込まれるとは。しかも、花梨ちゃんまで興味を持ったりして。ともかく、俺が始めたことではあるから、これで一応の始末はついたってことで。それじゃあ」
 そう言って、浅沙もまた、この場を去ろうとする。
 彼の言う――俺が始めたこと、とはどういうことだろう。まだ、何もわかってはいない。花梨は思わず、すがるように彼のあとを追った。
「何があったのか、教えてはくれないんですか!」
 浅沙はちらりと振り返ると、少しだけ複雑そうな表情を浮かべた。それでも彼は花梨から目を背けると、右手を振って別れの仕草をする。
「潮時なんでね。君も何もかも忘れて、普通に暮らした方がいいよ。さもないと不幸になる。呪いに関わるっていうのは、そういうことだから」
 それを聞いて、花梨はいつかの黒曜石の言葉を思い出した。
 ――すべて夢だったとでも思い、忘れるべきものだ。
 初めて黒曜石の姿を目にしたとき、花梨は彼にもそんなことを言われた。人知を超えた、石たちの力。人の領分ではないもの。関わるべきではない。それはそうなのかもしれない。しかし――
 花梨はそれでも、それと対峙することをすでに決めていた。
 浅沙は遠ざかっていく。黒曜石の傍らに立ちながら、花梨はそれをじっと見つめていた。彼がそうして姿を消そうとする前に、残したのはこんな言葉だ。
「だから、俺はもう逃げさせてもらうよ」
 そのとき――
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