第十五話 頑火輝石(七/七)

文字数 4,144文字

 警察と消防に連絡を取ってから、花梨は急いでバックヤードへと戻っていった。従業員出入口まで来ると、消火器を持った浅沙と火打ち石を持った女性が、ちょうどにらみ合っているところに行き合う。
 ちらちらと燃える石を握りしめながら、女はこう問いかけた。
「あの人は、どこ――?」
 確かに、店長の姿が見えない。どこに消えたのだろうか。
 浅沙は軽く肩をすくめる。
「さあね。どこかに隠れちゃったんじゃない。あんたが怖いから。いいかげん諦めたら?」
「……あなたには、関係ないでしょう」
 女性は怒気を含んだ声で、そう凄んだ。浅沙はそれを見て、せせら笑う。
「人のバイト先、燃やしておいて、何を言ってるんだか。あんたこそ、店長の何なの?」
「私は――」
 その言葉をさえぎって、浅沙はまくし立てる。
「あの店長に何を期待したか知らないけど、ちょっとやさしくされて勘違いしただけだろ? あんたにとっては特別だったかもしれないけど、あの店長は誰にでもあんな感じなんだよ。思い違いで自分の都合ばかり主張して、馬鹿馬鹿しい」
「センパイ!」
 花梨は慌ててかけ寄った。花梨のことに気づくと、浅沙は少しむっとしたような表情になる。
「どうしてここにいるの。花梨ちゃん。危ないんだから、逃げてって言ったでしょ」
「いくらなんでも、言い過ぎです」
「だって、本当のことだし」
 目の前の女性は、みるみる顔を赤くしていく。その表情は泣いているような、怒っているような――とにかく、ない交ぜになった感情で、彼女は返す言葉を失ってしまったようだった。
 しかし、浅沙の皮肉は止まらない。
「自分の狭い世界のくだらないことで、これ以上ないほどの悲劇みたいに振るまって。はっきり言って滑稽だし、こっちはいい迷惑だよ」
「浅沙くん。もう、それ以上は――」
 彼の発言を止めたのは、バックヤードの奥から現れたのは店長だった。浅沙はそれを確かめて、軽く目を見開く。
「何で戻って来たんですか。店長。せっかく逃げられたんでしょうに」
「ちゃんと話をしないといけないと思って」
 店長は苦笑しながら、そう答える。
 石を持った女性が、ゆっくりと振り返った。彼女と真っ直ぐに向き合うときを待って、店長は深々と頭を下げる。
「あのとき言ったことは、嘘じゃなくて、本当で。本当に、そうしたいって思ったんです。でも、言葉が足らなくて、伝わらなかったみたいだ。ごめんなさい」
 そう言い切ってから、店長は顔を上げた。彼女の表情は見えなかったが、それを見た店長の顔が明らかに悲しげなものになる。
 店長はさらにこう続けた。
「僕はただ、みんなと一緒に――」
「みん、なと」
 女性は歯がみするようにそう呟くと、よろよろと一歩後ずさった。うつむいて、手にしていた火打ち石を抱え込む。
 その瞬間、火の手が上がった。燃える炎は彼女の全身を飲み込んでいく。彼女は――自分を焼くつもりなのだろうか。
 あれでは黒曜石も矢で射つことができない。頑火輝石の力で火を消して、それから――
 花梨が焦っていると、炎の向こう、廊下のさらに奥から、ふいに何者かが近づいてくる気配を感じた。かと思うと、店長の背後から、あでやかな着物をまとった女性が歩み出てくる。
 皆の視線が、着物の女性へと集まった。その人は、混乱したその場にいても妙に落ち着いている。しかも、そこに置かれていた傘立てから古めかしい赤い和傘を手に取ると――なぜかその場で、その傘をそっと開いた。
 室内なのに、雨が降る。そして、その雨は燃え広がろうとしていた火を、瞬く間に消し去ってしまった。
 店長は驚き、ぽかんと口を開けている。
「あ。その傘。もしかして……忘れ物を、取りに来られたんですか?」
 店長は突然のできごとに動転したのか、着物の女性と、彼女が手にした傘を見て、そんな場違いなことを問いかけた。相手はかすかにうなずくと、傘を差したまま廊下の奥へと消えて行く。
 突然の不可解なできごとに、その場にいた誰もが言葉を失った。
 雨はいつの間にか止んでいて、周囲には火の気どころか、水の跡すらない。ただ、火打ち石を抱えていた女性だけは、ひとり水を被ったようにずぶ濡れだった。力が抜けたのか、座り込んだ女性の手から灰色の石が、からんと落ちる。
 頬を伝うのは、涙か。それとも――
 しばらくして彼女はふいに立ち上がると、何も言わずにその場を逃げ出した。誰も彼女を追わない。店長もまた、悲しげな表情でそれを見送った。
 その姿が見えなくなってからも、店長はじっとその場で立ち尽くしている。
「店長……?」
 花梨がおそるおそる声をかけると、そこでようやく店長は弱々しい笑いを浮かべた。
「みんなにやさしくって、難しいなあ」
 そう言って、彼は静かに目を閉じた。



「それはおそらく燧石(すいせき)――フリントと呼ばれる、火打ち石に使われる石ではないかと。チャートという岩石の一種で、主に石英から成るとても硬い石です。これに鋼の火打金を打ちつけて、火花を出し着火します」
 花梨は槐の元を訪れていた。話していたのは、例の女性が持っていた石についてだ。
 しかし、その石自体はここにはない。バイト先のボヤ騒ぎは放火事件として警察が捜査することになり、彼女の残していった火打ち石も押収されてしまったものと思われた。
 あの場にいた花梨たちも、やって来た警察にくわしい状況を聞かれている。こうして槐の店に来たのは、それから解放されたあとのことだった。
 例の女性は、立ち去ったまま行方が知れない。その火打ち石についても、花梨にはくわしく調べることができなかったのだが――
「いくら火打ち石でも、あんな火は出せやしないだろうし、当然、あれが呪いの依り代だったんだろうな」
 頑火輝石の言葉に、花梨はうなずく。
 気がかりなのは、あの火打ち石が火元だとして、この事件がどう決着するのか、ということだ。とはいえ、あれは呪いの石です、などと警察に話したところで、おそらく信じてはもらえないだろう。
 そうでなくとも、あの場に現れた着物の女性が傘を差した途端、石は力を失っていたように見えた。それについては、黒曜石が言及する。
「しかし、あの石の呪いを祓った――あれは何者だろうか。明らかに人ではなかったが」
 人ではないもの。店長のことを助けようとしたことは確かだが、助けられた店長の方は彼女のことを知らないようだった。
 花梨はそのときのことを思い出す。
「あの人が手にしたのは、置き忘れられていた傘でした。お客様のものだろう、ということで私が片づけたので、覚えています」
「忘れられた傘……」
 花梨の言葉に、槐は考え込むようにうつむき呟く。そして、こう話し始めた。
「ここから北東の方にある寺院、知恩院には、七不思議と呼ばれているものがあります」
 そう言うと、槐はそのひとつひとつを語り始めた。

 三門楼上にある二つの白木の棺。
 歩くと鶯の鳴き声に似た音が出る鴬張りの廊下。
 生命が宿り襖絵から飛び去ったという抜け雀。
 杉戸に描かれた、どちらから見ても見る人の方を見つめてくる三方正面真向の猫。
 黒門への登り口にある瓜生石。
 廊下の梁に置かれた大杓子。
 そして――

「御影堂正面の軒裏にある忘れ傘」
「忘れ傘、ですか」
 花梨がそう問い返すと、槐はうなずいた。
「骨だけになった傘ですが。今でも軒裏にある傘の先端を見ることができます。これは、当時の名工が魔除けのために置いていったという説がひとつ。もうひとつは、知恩院の上人が御影堂を建立するときに、その辺りに住んでいた狐が代わりに新しい住まいを作って欲しいと現れたので、それを叶えたところ、お礼にこの傘を置いて知恩院を火災から守ることを約束した、という説が伝えられています」
 火災から守る。それなら、店に置き忘れられた傘は、あの店を守るためのものだったのだろうか。
「狐、ねえ」
 と、含みを持たせて呟いたのは、頑火輝石だ。彼はさらにこう続けた。
「あの男、何かに守られていたようだった。どこぞでそういうものに好かれでもしたのか、それとも、よほどの功徳を積んだのか……」
 ならば、あの傘は店ではなく店長を守るためのものだったのかもしれない。
 花梨は苦笑する。お人好しなところのある店長だ。きっと彼のやさしさが、そういう形で返って来たのだろう。それとも、彼は狐に好かれるようなことをしたのだろうか。
 どちらであっても、あの店長らしい気もする。彼の言っていた、みんなにやさしく、という言葉を思い出して、花梨はそんな風にも思った。

     *   *   *

 家の近くに小さな稲荷の社があって、幼い頃はよく祖母と一緒にお参りした。
 住宅街の一角に埋もれるようにしてある神社だ。敷地は狭いが、つつましい社殿の前には赤い鳥居がずらりと並んでいて、わりと目を引く。無人ではあるが、知らない間に誰かが世話をしているのか、荒れているところを見たことはない。
 祖母が亡くなった今でもここへはよくやって来ていて、たまに周辺を掃除したりしていた。家の周りをきれいにするついでだから、と言い訳して。
 みんなにやさしくすれば、きっとそれは自分に返ってくる。みんなにやさしくすれば、みんな嬉しい。自分はそれを信じていた。
 それでも、ときにはその思いが揺らぐことがある。そんなとき、自分は決まってここにお参りにくるのだ。そうして周辺を掃除していると、自分の気持ちのもやもやが晴れるような気がする。
 みんなにやさしくしても、みんなが喜ぶわけではないのかもしれない。それでも自分は――
 そのとき、ふいに雨粒が頬を打った。見上げてみると、ところどころ雲は見えるが、空は晴れている。天気雨か。
 そう思って振り返った視線の先、石灯籠のところに、いつの間にか傘が立てかけられていた。置かれていたのは、古めかしい赤い和傘。ついさっき、あの辺りを箒で掃いたばかりだが、そのときはなかったはず――
 連なる赤い鳥居の奥。社殿の方へ目を向ける。周辺には、誰もいない。
 もしかして、自分のための傘だろうか。そう思うと、自然と嬉しい気持ちになった。
 傘を手に取り、社殿の前へと向かう。
「貸してくれるのかい? ありがとう」
 そう言って、感謝の気持ちと共に手を合わせた。
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