第八話 石墨(三/四)

文字数 3,962文字

「お困りのことは、どういったことでしょうか」
 目の前に座ったその人に、槐はひとまずそうたずねた。
 座敷に通されたのは、年の頃三十くらいの女。真夏の暑さのせいか、それとも悩みのせいか、若干やつれて見えるので、もしかしたらその印象よりは若いのかもしれない。
 槐に相対したその女は、終始不安そうな表情で、しばらくは辺りに視線を巡らせていた。よほど気を張り詰めているらしい。見ているこちらまで緊張してくるほどだ。
 女はそのうち落ち着いたのか、槐を真っ直ぐに見据えると、頑なに閉じていた口を開いた。
「……手紙が届くんです」
 女はどうにか、それだけ答える。それ以上の説明はない。槐は困ったような表情を浮かべた。
「手紙、ですか。具体的には?」
「送られてくるはずのない人から、届くのです」
「――いつから?」
「ちょうど、お盆に入った時期からです」
 槐の問いに、女は淡々と答えていく。槐もまた、それに応えるように、探り探り問いを重ねていた。
「それでは、送られてくるはずのない人、とは?」
「もう亡くなってしまった方――死者です」
 女はそう言うと、それ以上は必要ないだろうと言わんばかりに、口を引き結んだ。槐は珍しく、困惑の表情を隠そうともしていない。
 ――こちらで、怪奇現象についてご相談にのっていただけるとうかがって来ました。
 それが、この人が店を訪れた理由だ。
 この時点で、明らかに石が目当ての客ではない。そもそも客と呼んでいいものかも迷う。ここはあくまでも石を扱う店なのだから。
 確かに、この店では怪異に関する悩みのある者を迎え、結果的に力になるということはある。それでも、ここがどんな場所か知りもしないで、怪奇現象について相談にのって欲しい――なんてことを言って訪れる人はそういなかった。
 あれに呼ばれて迷い込んできた客とも違うだろう。これに関しては確かなしるしのようなものはないのだが、今までの経験からして、少なくとも桜はそう確信している。
 ともあれ、そういう理由で桜は当初、この人を客として迎えることをためらった。直前に変な男を招き入れてしまったという後悔もある。
 ただ、この人が怪異に困っていることは確かなようだし、それをわかっていて拒むことも気が引けた。そうして迷っているうちに、結局は槐が相談を受けることを決めてしまったのだ。
 これでは空木のときと同じだ。桜は複雑な心境で二人の会話を見守ることになった。
 問答の末にお互い黙り込んだ二人は、しばし無言で向かい合う。この客に対しては、槐も普段より慎重に言葉を選んでいる風ではあった。この店をどこで知ったのか。そういったことすら、女にはたずねていない。
 沈黙のあと、次に口を開いたのは槐の方だ。女の表情をうかがいながら、神妙な調子でこうたずねる。
「あなたは、その方に手紙を書かれたのですか?」
 女はその問いに息をのんだ。そこにあったのは、何かを怖がっているような、ひどく悔いているような――そんな表情だ。
「書きました……」
 女は大きく息をつくと、観念したようにそう答えた。そこで再び、黙り込んでしまう。
 どういう経緯でこの場所に至ったかは知らないが、助けを求めに来た割に、この人は店のことを信頼しきれていないようだ。
 こういう客は難しい。石を貸しても、ちゃんと返してくれるかわからないし、そもそも問題を解決できるかも不透明だ。嘘や隠していることがあれば、こちらも判断を誤るかもしれない。
 槐は少し考え込むと、ふいに、しばしお待ちください、と言って席を立った。おそらくは、あの部屋に向かったのだろう。どの石を持ち出すつもりなのだろうか――
 戻ってきた槐が手にしていたのは、鈍色の輝きを持つ石だった。
石墨(せきぼく)です」
 槐はそう言って、その石を女に差し出した。
「黒鉛とも呼びます。鉛筆の芯の原料となる鉱物です」
「……え、鉛筆の芯?」
 女の顔に、いぶかしげな表情が浮かぶ。それでも差し出されるままに、女はその石を受け取った。
「石墨は炭素のみからなる元素鉱物。これはダイヤモンドも同様ですが、構造が違っている。こういう関係を同質異象(どうしついぞう)と言います。ダイヤモンドの方が密な配列で、傷つきにくさにおいてもっとも強いのに対し、石墨はその逆。しかし、この石はそれ故に、文字などを書くことができる。英語名のグラファイトは書くという意味のギリシャ語から名づけられました」
 槐は淡々とした調子でそう語った。この人にその説明が必要なようには思えないが――槐はある意味、いつもの調子を取り戻したようだ。ただし、相手の方はわけもわからず、ぽかんとしている。
「こちらが、そういう怪奇現象に対して、ご利益のある、ということでしょうか?」
 意味がわからないなりに、女はそう理解したらしい。答えを聞かないままに、続けてこうたずねる。
「それで、その、お代金は……?」
「いりません。ただし、すべてが終わったあとは、これを必ず返しに来ていただきたい」
 槐は少し厳しめの口調で、はっきりとそう言った。こういう言い方は珍しい。とはいえ、相手がこちらを信用していないのだから、こちらも相手を信用できないのは仕方がないだろう。
「……わかりました」
 釈然としないようではあるが、女はそう了承した。この人はこの人で、藁にもすがる思いなのかもしれない。多少の不条理に、目をつぶるほどには。
 石墨を手に女が去ったあと、まったく手をつけられていないグラスをかたづけながら、桜は呟いた。
「なんだか、最近は変なお客さんが続きますね」
 聞いているのかいないのか、槐は心ここにあらずの様子で、坪庭をじっとながめている。不安になって、桜はこう続けた。
「さっきの人、誰からここの話を聞いたのか、たずねなくてよかったんですか? もしかして、空木って人が何か言いふらしたりしてるんじゃ……」
 言葉にしてしまうと、実際にそうなのではないかという気がしてくる。確か、フリーのライターだとか言っていた。この店のことが、妙な形で広まらないといいが――
 それでもやはり、槐は答えない。物思いに沈んだまま、それからしばらくは、ずっと浮かない表情だった。

     *   *   *

 家に帰ると、手紙が届いていた。
 手紙といっても、封筒に入れられているわけでもなく、郵便で届けられたわけでもない。それは一枚の便箋につづられ、三つ折りにたたまれた簡単なものだった。
 その手紙は、家の郵便受けにいつのまにか届いている。それが死者からの手紙だ。これで八通目だったか。もはやこの存在自体には、慣れたものになっていた。
 何が書かれているかは読んでみないとわからないが、どんな風に書かれているかは見なくてもわかる。手紙を交わし始めたときにはすでにあの人の握力は弱っていて、震えたような文字しか書けなかった。そうしてひたむきに書かれた文字で、短い文章はつづられている。
 死者の代わりに出した手紙への返事だから、当然それは、亡くなったあの人の夫へ向けたものだった。
 なぜこの手紙がここに届くのだろう。亡くなったその先で、あの人は待っていた夫とは出会えなかったのだろうか。自分が手紙を送ったことで、彼女を引き止めてしまったとでもいうのか。そんなことを考えるたびに、恐ろしさに身がすくんだ。
 とにかく、こういったことを解決できる、と聞いた店に行って、それに対処できる――かどうかはまだわからないが――お守りは借りてきている。そう思って、手紙を読むことはせずに、受け取った石とともに座卓の上に置いておいた。なるべく気にしないようにしよう。そう思ったからだ。
 しかし、この日はそれで終わりとはならなかった。
 とにかく、部屋にこもった熱気を逃がそうと、閉めきっていた戸を開けようとした、そのとき。べしゃり、と、どこかで音がした。
 何が起こったかわからなくて、思わず動きを止める。音の出どころを探すが、すぐには見つからない。気のせいだったか――と思い直した瞬間、すぐ近くで同じような音が聞こえた。
 音のした方へと目を転じる。それが何なのか――わかってからも、ただ呆然とすることしかできなかった。
 墨だ。壁に黒い墨がぶちまけられている。いや、違う。これは、もしかして。
 ――文字だ。
 そのことに気づいた途端、頭が真っ白になる。どうして、こんなところに突然、墨で書かれたような文字が――
 べしゃりべしゃりと、次々と音がする。そんな、まさか――そう考えているうちにも、墨が形作る文字は文章になっていく。そのうちに、それが何であるかを確信した。これはきっと、死者からの――
 あまりの恐ろしさに、慌てて近くにあったブランケットを引き被った。それでも、文字がつづられる音が止まる気配はない。耳を塞ぎながら、無意識のうちに呟く。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
 こんなはずではなかった。あくまでも自分は、あの人のことを思って、そうしただけ。まさか、こんなことになるなんて。
 あまりのことに、震えながら考える。自分は何を間違ってしまったのだろうか。これからいったい、どうすれば――
 音は止まらない。
「そんなつもりじゃなかったんです。そうすれば、喜んでもらえると思ったから! 騙すつもりはなかった! どうか、許して……」
 確かに、あの人は手紙を喜んだ。しかし、それは本当にあの人のためだったのだろうか。そんなことを、ふと思う。
 ――いや。そうじゃない。
 ただ、嫌だった。自分の夫が死んだことすら忘れてしまったあの人の、無邪気な問いに答えるのが。何度も何度もくり返し。本当のことを言えば、傷つける。哀れで、疎ましくて、だから自分は、それから逃れるために――
「わかってる。わかってるんです。あの手紙は全部……私の、利己心(エゴ)だった――!」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み