番外編 分光石(一/四)

文字数 4,466文字

 突然の休講で時間を持て余してしまった茴香は、ひとまずとある場所へと向かっていた。
 暇ができたときなど、他に用がなければ向かうところは大抵決まっている。それはおそらく他の学生たちも同じで、特に示し合わせたわけでもないのに自然と知り合いが集まる場所があった。茴香はサークルや部には所属していないので、思いがけず空いた時間などにはそこで過ごすことも多い。
 茴香が目指していたのは、食堂の隅にある一画だ。案の定、友人たちはその日もそこで何やらこそこそ話をしていた。
 しかし、友人のひとりが茴香のことに気づいた途端、その話し声は止まってしまう。かと思えば、振り向いた皆がじっとこちらを見つめてくるものだから、茴香は思わずぎょっとした。
「え? 何? もしかして、あたしの悪口とか言ってた?」
 本気でそう思ったわけでもないが、そんな心配が頭をかすめる程度には妙な空気だ。しかし、その心配はすぐさま否定される。
「違う違う。でも、こういう話、茴香は嫌がるかな、と思って」
 首を横に振ってそう答えたひとりに、ほとんどの友人たちが同調した。しかし、そのうちのひとりだけは、困ったような顔でため息をついている。
 事情のわからない茴香は、思わずこうたずねていた。
「まさか、また花梨のこと?」
 しかし、友人たちは、それも違う、と否定する。とっさに嘘をついたわけでもなさそうだ。
 今となっては――少なくとも茴香の周囲では――花梨に関する噂を広める者はいなくなっていた。茴香がそのことをよく思っていなかったことも理由のひとつではあるだろうが、おそらく単純に飽きたのだと思う。中には、根拠のない噂話に花を咲かせていたことを、今になって決まりが悪いと思っている者もいるようだ。
 ともかく、花梨のことでもないならば、いったい何の話をしていたのだろう。それ以外に、自分が嫌がるような話など、茴香はとっさには思い浮かばない。
 空いた席に座りながら、かまわないから話してよ、とうながすと、友人はあっさりとこう言った。
「それがねえ。下宿先の近くで、あやしい光を見たって話で……」
「あやしい光?」
 その言葉にため息をついたのは、先ほどもひとりだけ困った顔をしていた友人だ。彼女の下宿先は確か――
「京都の市内とも思えないような、辺鄙なところだっけ。そこで見たの?」
「辺鄙って言わないでよ」
 大学には実家から通っている者もいれば、遠方から出てきて京都に下宿している者もいる。彼女の場合は後者で、その上お金の問題だか知り合いの伝手だか知らないが、なぜか大学から遠いところに下宿していた。毎日、自転車で(かよ)っているそうだ。
 京都といっても、市内に限ってもけっこう広いし、端の方は思いのほか田舎だったりする――ということを、茴香は彼女の下宿先へ遊びに行ったときに初めて実感した。そこは静かな町外れで、近くに木々の生い茂る山があるからか、妙に暗いところだった。別にあやしいとまでは思わなかったけれども。
 そこで見たあやしい光というのは、こんな話だ。
 何でも、彼女の下宿の近くには、明治だか大正時代だかに建てられたような、古そうな洋館があるらしい。本当にその時代に建てられたかどうかは、わからないが。
 ともかく立派な建物で、周辺は木立に囲われている。しかし、人が住んでいる気配はないようだ。かと言って、荒れていたり、売りに出されている風でもないから、もしかしたら別荘かもしれない、とのこと。
 その洋館の周辺で、いくつかの光がうろうろと飛び交っているのを見たそうだ。それだけなら、たとえば明かりを持った誰かがそこにいただとか、そういう状況もあり得ると思うのだが、それだけでなく、木立から大きな青白い光が空へ昇っていくのを見たのだと言う。
 アルバイトで思いがけず遅くなったときのことで、時刻は深夜近く。それ以来、同じような光は見ていないとのことだが、どうにも気になって仕方がないらしい。とはいえ、あらためて確かめに行くのも怖いようで――
 ともかく、それが本当の話なら確かに奇妙な状況ではあるだろう。光の正体も気になるところだ。
 そんなことを考えていると、皆がそろって茴香の反応をうかがっていることに気づいた。どうやら、花梨の噂を否定していたことで、そういったことについても否定的だと思われているらしい。
 怒り出すか、馬鹿にするとでも思ったのだろうか。心外だ。いつだったか、あやしい音に悩む知り合いのために、茴香はその正体を調べようとしたこともあるというのに。
 そう思って、茴香はひとまずこう言った。
「別にあたしは、そういう話自体を否定してるわけじゃないし」
 かといって、そういう話を好んでいるわけでもないが。以前の茴香なら、そんな話を聞いたところで、不思議だね、くらいで終わらせていただろう。
 しかし、幸か不幸か、今の茴香にはそういうことについて、頼ることができる場所がある。
 そこでなら、もしかしたら、その光の正体がわかるかもしれない。そんな期待から、茴香は自分でも思いがけずに、こんなことを口にしていた。
「あやしい光、ね。よし。その正体、あたしが突き止めてあげる」
 呆気にとられている友人たちの視線を受け止めながら、茴香は意気揚々と立ち上がった。



「あやしい光、ですか……」
 そう呟いてから、その人はしばし無言で考え込んだ。
 茴香が向かったのは、花梨を通じて知ることになった不思議な石の店。今では、そこは花梨のアルバイト先でもある。その座敷で、茴香は店主の槐と相対していた。
 花梨にも声をかけたのだが、都合がつかなかったので、今日は茴香ひとりで訪れている。それについては、むしろその方がよかったと茴香は思っていた。あやしい光のことは茴香が引き受けたことであって、花梨を巻き込むのは気が引けたからだ。
 友人が見たというあやしい光については、ひと通りの事情を槐に話し終えている。とはいえ、茴香もそれを直接見たわけではないので、どれだけ正確に伝えられたか、わからないのだが。
 そうして、桜という名のどう見ても人にしか見えない石の人が、茴香にお茶を差し出してくれる頃には、槐はおもむろにこう話し始めた。
「いわゆる、怪火(かいか)のようなものでしょうか。各地でさまざまな名の怪火が伝承されていますが、京都近辺に限るなら、比叡山(ひえいざん)逢火(おうび)壬生(みぶ)叢原火(そうげんび)……あるいは広く狐火、鬼火などとも呼ばれますね」
 思いがけずいろいろな名が出てきて、茴香は思わず混乱した。しかし、少なくとも今挙げられた地名は友人の下宿先付近ではない。
 ともかく、あやしい光というものは、昔からよく――かどうかはわからないが――あることらしい。
「その怪火の正体って何なんでしょう?」
 茴香の問いかけに、槐はこう答える。
「単に不思議な発光現象として語られる場合もありますが、たとえば叢原火については、壬生寺で油を盗んでいた僧が死後に罰としてさ迷っている姿だとされています。浮遊する光を死者の妄念や魂だと捉えたのでしょうね」
「妄念とか魂、ですか……」
 茴香は思わず戸惑った。
 友人が見た光も、それが正体だなんてことがあるだろうか。人気(ひとけ)のない洋館に飛び交っていたというあやしい光や、夜空に浮かぶ青白い光が、途端に恐ろしいものであるかのように思えてくる。
 この件は、さわらぬ神に祟りなし――なのかもしれない。今のところ、不気味だということ以外に害はないのだから、調べても仕方がないような……
 茴香が難しい顔で考え込んでしまったからか、槐は苦笑いを浮かべながら、こう続けた。
「とはいえ、かつては不思議な現象だとされていたそれも、今では科学的に説明されている場合もありますよ。私はそういったことは不勉強なので、聞きかじりの知識で申し訳ないのですが――たとえば、海に現れるという不知火(しらぬい)は、漁火(いさりび)などが特殊な大気の状態により屈折することで見える現象だそうです。他にも、雷などの影響で怪火のようなものが現れることがあるようですね」
 怨念との落差に、茴香は何だか拍子抜けしてしまった。とはいえ、友人が見た光が、それらと同じものかどうかは、まだわからないのだが。それでも、そう説明されてしまうと、よくわからないながらも納得してしまうのだから、おかしな話だ。
 槐はさらに、こう言った。
「そうした現象は条件がそろわないと見られませんから、同じ場所だからといって、また見られるとは限らないでしょう。ただ――音などもそうですが――光というものは、思いのほか遠くまで届いたり、思いがけない方向へ反射したりするものです。その怪火も、もしかしたらもっと単純な理由があるのかもしれません」
「だったら、やっぱりそのものを見てみないと、正体はわからないってことですね」
 あやしい光の正体を科学的に説明できたなら、友人の不安もなくなるだろう。怨念だの魂だのといった話はひとまず忘れることにして、茴香は一度その洋館に行ってみようかと思い始めていた。
 そのとき――
「茴香。もしも君がそれを調べるつもりなら、よければ俺もついて行こう」
 忽然と姿を現した金髪の青年に驚きながらも、茴香は思わずその名を呼んだ。
「黄鉄鉱」
「まあ、俺には火を出すくらいしかできないけどね。夜は危ないし、いないよりはましだろう」
 黄鉄鉱の申し出を受けて、茴香がちらりと視線を向けると、槐は無言でうなずき返した。彼が一緒にいてくれるなら、これほど心強いことはない。
「目には目を、火には火を、ってことだね。ありがとう」
「それは少し、違う気もするけれど……」
 そうして黄鉄鉱を借りることになった茴香は、石の部屋――石ばかりが並べてある変わった部屋だ――に案内してもらうことになった。
 黄鉄鉱には以前、茴香と共に奇妙な祭りの中へ迷い込んだときに助けてもらっている。当然、石としての姿も知っていたので、茴香はさっそく、金色で変わった形をした彼の姿を探した。
 見つけた、と思って近づいたところ、茴香は黄鉄鉱のとなりに、よく似た金色の石が並んでいることに気づく。
 その石は、黄鉄鉱と同じように、立方体がいろんな角度でくっついて固まったかのような、奇妙な形をしていた。黄鉄鉱はおそらくこちらだろう、と手を伸ばしつつも、もう一方のことが気になって、茴香はついそちらへと目を向けてしまう。
 そのことに気づいたのか、黄鉄鉱はこう言った。
「そちらは黄銅鉱(おうどうこう)。俺は鉄と硫黄だけど、彼にはそこに銅が混じっているんだ」
「黄銅鉱……」
 茴香は思わず呟いた。見た目だけでなく、名前まで似ているらしい。
「やあ、こんにちは」
 と話しかけてきたのは、おそらくその黄銅鉱だろう。人の姿を現してはいないので、茴香はその石に向かって、こう返した。
「こんにちは。見た目がそっくりだね。間違いそうになっちゃった」
「よく言われるよ」
 黄銅鉱の言葉にうなずきながらも、茴香は今度こそ黄鉄鉱の方を手に取る。
 そうして黄鉄鉱を手にした茴香は、その日の夜にはさっそく、町外れの洋館へと向かった。
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