番外編 分光石(二/四)

文字数 4,136文字

 時刻は、友人があやしい光を見たときと同じ夜更け頃。木立の中に佇む洋館は、それだけであやしげな空気をまとっていた。
 洋館やその周囲に照明などの灯りは一切なく、人の気配も全く感じられない。付近の建物はほとんどが住宅らしく、辺りはしんとして静かだった。
 同じ時間、同じ場所だからといって、その光が見られるとは限らない、とはあらかじめ言われていたことではあるが――いざ、その場に立ってみて何もないことがわかると、やはり次にどうすればいいかを迷う。ひとまずは、しばらく様子を見るしかないだろうか。
 そんな風に考えて、茴香は洋館へと近づいて行った。とはいえ、さすがに敷地の中まで入り込むわけにもいかないだろう。周りを囲む鉄の柵には棘々しい装飾があって、普段なら何も思わないだろうけれども、今は妙に物々しく感じられた。
 そうして、柵越しに中をのぞき込みながら、外周に沿って歩いて行くと――
 洋館の影に、ふいにちらりと光が見えた。もっとよく見ようと茴香が門に寄りかかると、鉄のそれは、きい、と高い音を立てて開いてしまう。
 ぎょっとして後ずさったが、どうやら鍵がかかっていなかったようだ。あるいは、誰かに外されたのか。
 どうしようか。さすがにためらったが、ここまで来て光の正体を見逃してしまうのも惜しい。考えた末に、茴香は意を決して中に忍び込むことにした。
 気をつけて、と黄鉄鉱の声がする。
 広い庭を抜けて洋館の背後へ回って行くと、そこにはやはり、何かの光がうろうろと辺りを照らしているのが見えた。その正体は何だろう、と茴香は恐る恐る注視したのだが――
 深夜に飛び交うあやしい光。その光源を手にしていたのは、どう見ても人だった。
 懐中電灯を手にした男が、周囲に目を配りながら、時折小声で何かを呟いている。よく見ると、洋館の窓がひとつだけ開け放たれているのが見えた。
 ――もしかして、ただの泥棒?
 ()()()()の由来は、油を盗んでいた僧が死後に罰としてさ迷っている姿、だっただろうか。友人の見たあやしい光の正体は――ある意味で――本当に妄念の光だったらしい。
 茴香は内心でため息をついた。決死の思いで乗り込んだ、その結末がこのオチだとは。とはいえ、青白い光の方は、まだその正体がわかっていないのだが――
「おい。そこに誰かいるのか?」
 突然声をかけられて、茴香は思わず飛び上がりそうになった。もしかして、見つかってしまっただろうか。そんなことを考えているうちにも、懐中電灯の光は茴香の姿を探しているかのように、すぐ近くをかすめていく。
 茴香は物影に隠れながら、そろそろと来た道を戻って行った。音を立てないよう慎重に。しかし。
 進もうとした方向にも光が見えた。そのことに気づいて、茴香は思わず立ち止まる。
 ――もしかして、挟まれている?
 思えば、男が何かを呟いていたのも、おそらくは他に誰かがいたからだろう。別の場所でも仲間が見張っていたのかもしれない。茴香は慌てて引き返した。
 どうしよう。見つかったら、どうなるか……
 盗みの現場を見られたことで、相手が素直に逃げてくれればいいのだが――茴香はひとりきりで、泥棒は何人いるかもわからない。うかつなことはしない方がいいだろう。
 茴香は周囲を見回した。洋館を取り巻く木立は、思いのほか広いらしい。暗がりに沈んでいてよく見えないが、四阿(あずまや)や人工の小さな池まである。
 そこでどうにかやり過ごせないだろうか。茴香は身を隠せそうなところを探し出すと、茂みの陰にしゃがみ込んだ。
 そうしているうちにも、どこからともなく人が集まって来る。しかし、なぜか茴香が逃げようとした方向から来る者はいなかった。
 あれ、と思ってよく見ると、そちらの方にガラス張りの小さな建物――温室だろうか――があることに気づく。どうやら、あのとき見た光は、単に他の光を反射していただけらしい。
 ふと槐の言葉を思い出す。光は思いがけない方向へ反射するもの――
 しまった、と思ったときにはもう遅く、いつの間にかぞろぞろと増えた人たちに取り囲まれていた。見えているだけでも四、五人はいる。
 彼らの多くは手に手に何かを持っていた。どうやら外にいたのは見張りで、残りは洋館の中へ忍び込んでいたらしい。金目の物を持ち出して、表へと出て来たのだろう。
 見張りの男が、誰かいた、としきりに主張している。そのせいで他の男たちも木立の方を注視しているものだから、茴香は出るに出られなくなってしまった。
 ――ばかだな。あたし。
 あの光が反射であることに気づいていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。怖いより何より、何だか情けなくて、茴香は涙が出そうになった。そのとき。
 ――にゃあ。
 と聞こえたのは、明らかに猫の鳴き声。茴香が発したわけではない。ベタな展開だが――いや、そもそも本当に猫がいるのだから、それとは違うのかもしれないが――とにかく、これであの男たちが勘違いしてくれるかもしれない。茴香はとっさに、そう期待したのだが……
 男のひとりは無言で耳を澄ませた後、こんな風にさわぎ始めた。
「この場面で、こんな声がして、本当に猫なことがあるか。やっぱり誰かいるんだろう。探せ!」
 逆効果だったようだ。とはいえ、そもそもの話。仮に茴香のことを見つけたとして、彼らはどうするつもりなのだろうか。用が済んだなら、素直に帰ればいいのに……
 茴香は段々と苛立ってきた。おかげで、沈んでいた気持ちは、だいぶ持ち直しはしたが。
 男たちは周囲に散って、茂みをかき分け始めている。茴香のことを探しているのだろう。
 もうダメか、と思って見つかることを覚悟していると、ふいに遠くの茂みが不自然に揺れ始めた。かと思えば、何か小さな影が飛び出して、木立の奥へと走り去って行く。
 猫、だろうか。
 見えたのは頭から上の部分だけ。確かに、獣の耳ではあった。しかし、どう見ても猫の大きさではなかったような。中型犬くらいはあったように思う。
 しかし、男たちはそれを見て、なんだ猫か、と納得したようだった。釈然としないが、茴香が文句を言うわけにもいかない。この場から去って行く男たちを、無言で見送る。
 ようやく人心地ついたかと思ったのだが――そうして周囲を見回しているうちに、すぐ近くの木陰に誰かが潜んでいることに気づいて、茴香は思わず声を上げそうになった。
 しかし、その人は何をするでもなく、茴香の方をじっと見つめている。そのうち雲が晴れたのか、月明かりが照らし出したのは、笑みを浮かべながら人差し指を口に当てている青年の姿だ。
 泥棒の仲間、ではないのだろうか。突然のことに、何が何だかわからない茴香は、小声でこうたずねた。
「そこで何をしてるんですか?」
「それは僕の方でもお聞きしたいところですね」
 青年がそう返したので、茴香は素直にこう答える。
「あたしは、友だちがあやしい光を見たって言うから、それを調べに……」
「なるほど。それなら、僕も似たようなものです。怪火の噂を聞いて、それを探しに来たので。そしたら、突然あの人たちがやって来て……」
 青年はそう言って、男たちのいる方へと目を向けた。泥棒たちは洋館から持ち出した物を門の方へと運んでいるらしい。
「あの人たち、以前からこの家を狙っていたようですね。ここには普段から人がいないようですから。ただ、そう簡単には侵入できなかったのか、僕が見ていると、やっと開いたって喜んでいましたよ」
 だとしたら、友人の見たあやしい光の正体も、やはりあの泥棒たちだったのだろう。
 茴香が密かに呆れていると、青年はふいにため息をついた。
「それにしても、似てなかったですかねえ。猫。自信あったんだけどな……」
 猫の鳴き声はこの人だったらしい。ごまかせなかったことを落ち込んでいるようだが、男たちが信じなかったのは、おそらく出来の問題ではないだろう。
 どこかとぼけた感じのするその青年は、さて、と呟くと早々に気を取り直した。
「これから、どうしましょうかね……」
「ごめんなさい。もしかして、あたしのせいで、あなたまで逃げられなくなっちゃった?」
 茴香が慌ててそう言うと、青年はきょとんとした後、すぐに首を横に振った。
「違いますよ。すでに警察を呼んでいます。できれば、あの人たちをもう少し足止めしたいな、と」
 にこにこと笑いながら、けっこう大胆なことを言っている。茴香は呆気にとられてしまった。
 そうしているうちにも青年は、ここで隠れていてくださいね、とだけ言い残して、泥棒たちの様子を見に行ってしまう。茴香がひとりきりになったところで、声を上げたのは黄鉄鉱だ。
「やれやれ。とんでもないことになったね。今までも、機会はうかがっていたのだけれど……茴香。俺が火を灯して、あの連中の注意を引こう。先ほどの彼はともかく、君はやはり、この場から逃げた方がいい」
 黄鉄鉱の提案に、茴香は首を横に振った。
「ううん。黄鉄鉱。あたしもあの人たちを逃がしちゃうのは嫌だよ。何とか足止めできないかな?」
「仕方ないな……」
 黄鉄鉱がそう呟くと、洋館の門の辺りにぼうっとした光が浮かび上がった。泥棒たちは誰かが来たと思ったのか、声は上げずに静かに慌て始める。
 しかし、それも束の間のことだった。
「落ち着け。誰か来たわけじゃないぞ。こういうのは、確か――プラズマだとか言ってだな……ともかく、何てことはない。行くぞ!」
 その反応に茴香は思わずむっとした。
 これは黄鉄鉱が出した、正真正銘の怪火だ。それを、さもわかったかのように、よくわからない正体を決めつけて。
 茴香は段々と腹が立ってきた。
 そもそも、そんな風に考え無しだから、盗みをしようなんてことになるのだろう。そんな人たちが悪事を成功させるだなんて、どうにも納得できない。
 しかし、そんな茴香の憤りも虚しく、門前に大型の車が止まるのが見えた。おそらくは、それで逃走するつもりなのだろう。
「あの人たちが逃げちゃう……」
 茴香がやきもきしていたところに、先ほどの青年が戻って来る。男たちが去ろうとしているのを見て、何かを迷っていたようだが、彼はふいにため息をついたかと思うと、こう言った。
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