第二十三話 蛋白石(二/六)

文字数 3,809文字

 花梨はぼんやりとした心持ちで大学構内を歩いていた。
 休みの間は閑散としていたその場所も、新しい学期が始まってからは学生たちの活気に満ちている。しかし、そうした中にいたところで花梨の気持ちが晴れるわけもなく、何をしようにも手につかない日々が続いていた。
 槐から姉のことを知らされたとき、花梨が何もたずねなかったのは、決して冷静でいられたからではない。あまりに突然のことで、どう受け止めていいかわからなかったからだ。
 もちろん、槐のことは信頼している。しかし、正直なところ、花梨は今でも心のどこかで夢でも見ているのではないかと思っていた。
 姉が見つかったことを喜ぶ夢。しかし、その喜びは夢から覚めるたびに悲しい余韻と共に消えていった。姉がいなくなってから、何度そうした夢を見ただろう。そのことが思い出されて、花梨は今もまだ、槐の言葉を現実のこととして受け止められずにいた。
 それはおそらく、花梨がまだ姉の姿を直接目にしていないことも理由のひとつではあるだろう。しかし、槐にあのように言われたからには、今しばらくは信じて待つより他ないとも思う。
 姉は元気にしているのだろうか。体を壊したり、ふさぎ込んだりはしていないだろうか。
 いつだったか、浅沙はこう言っていた。
 ――君のお姉さんは、おそらく、呪われている。
 彼があの場にいたということは、そのことについて何かしら話をしていたということだろう。そう考えると、姉の所在がわかったからといって、何もかも解決したとは思われない。
 ようやくもたらされた吉報に相反して、花梨の胸のうちにはじりじりと不安が広がっていた――
「まだ、お姉さんを探しているの?」
 ふいに声をかけられて、花梨はその場で立ち止まった。はっとして声の主を探したところ、行く手にあったのは見知った人の姿。
 例のサークルの先輩だ。声をかけられるとは思っていなかったので、花梨は相手のことをまじまじと見つめ返してしまった。
 大学内の施設を結ぶ広い道の途中。絶えず人が行き交う中、まるでそこだけ場面が切り取られたかのように、花梨はその人としばし無言で対峙した。通りすがりの学生たちは、振り返ることもなく向き合うふたりの横を通り過ぎて行く。
 花梨は戸惑っていた。彼女はなぜ、突然そんなことをたずねたのだろうか。
 あるいは、純粋に心配して声をかけてくれているだけなのかもしれない。しかし、部室の前であったできごとを思い出してしまって、花梨はその言葉を素直に受け入れられずにいた。ましてや、姉の行方がわかったことについては、まだ誰にも教える気にはなれない。
 そんなことを考え込んでいると、その人は花梨のことをじっと見つめながら、こう続けた。
「どうしても知りたいんだったら、教えてあげる。あなたのお姉さんに何があったのか」
 やはり何を考えているのか、わからない。
 とはいえ、本当に姉が呪われているというなら、その原因を知るべきではないか、とも思っていた。だとすれば、彼女の話は何らかの手がかりになるかもしれない。
 槐は花梨に無用な心配をかけまいとしているに違いないが、だからといって、彼に頼りきりというわけにはいかないだろう。そうでなくとも、姉のことが少しでもわかるなら、それはきっと、無意味なことにはならないに違いない――
 花梨が迷っているうちにも、相手は何の気なしにこう続けた。
「深泥池に行ったからだよ。深泥池に行ったから、みんな、おかしくなった。深泥池に行った、そのうちのひとりは亡くなって、ひとりは大学を辞めて、ひとりは……何してるんだろうね。知らないけど。でも、あなたのお姉さんも行方不明で。だからきっと、深泥池に行ったのがよくなかったんだろうね」
 やはり深泥池なのか。
 花梨が困惑しているうちにも、彼女はふいにこう提案する。
「そうだ。話を聞きに行ったらどう? 知ってるんだ。退学した人がどうしているか」
 姉の友人のひとり、ということだろうか。その人と会えば、姉のことが何かわかるかもしれない。しかし――
「知ってるよ。行ってみる?」
 どうにも嫌な予感がした。いつもであれば、花梨はその申し出を断っていただろう。しかし、今の花梨はまるで思考に雲がかかっているかのように、その決断を下せずにいた。
 相手は何ごともないかのように平然としている。少なくとも、花梨のことをからかっている風ではなかった。彼女の話に不安を感じるのも、花梨が穿ちすぎているだけなのかもしれない。
 花梨はひとまず、うなずいた。その人に会いに行くかどうかは別にして、情報としてそれを知っておこうと思ったからだ。
 相手はそれを見てうなずき返すと、姉の友人が(かよ)っているというその場所についてと、その人の特徴をくわしく教えてくれた。
 その場から去るとき、彼女はぽつりとこう呟く。
「会えばわかる。彼女たちがどうなっていったか。あなたのお姉さんは、変わってないといいね……」
 その声は、なぜか花梨をひどく不安にさせた。



 花梨はとある場所を訪れていた。
 目の前に建ち並ぶのは白い大きな建物。周囲には駐車場の他に樹木が植えられた庭があり、活気があるというよりかは落ち着いているといった雰囲気だ。それでいて、その施設は見るからに人の出入りが絶えなかった。
 姉の友人が(かよ)っているとして花梨が教えてもらった場所。それは街中にある病院だった。その入り口で、花梨はその人が現れるのを、もう一時間は待ち続けている。
 とはいえ、相手とは待ち合わせをしているわけではないので、そもそも会えるかどうかもわからない。教えてもらった特徴と、毎日姿を現すという情報だけが花梨にとっての拠りどころだ。
 その人と会うことについては、花梨にも迷いがないわけではない。しかし、姉に関わることであれば、やはり直接会って話してみたいと思わずにはいられなかった。場所が場所だけに少々不穏ではあるが、ともかく一度行ってみようと思い、ひとまずはここに立っているという次第だ。
 そうして所在なく周囲をながめていた花梨だが、長い間待ちぼうけたことで、そろそろ諦めようかと思い始めた頃――ふいに通り過ぎたその人が、探していた特徴に当てはまることに気づいて、花梨は思わず声をかけた。
「あなたが宝坂さん……ですか?」
 確信があったわけではない。いつもの直感に従っただけだ。しかし、あらかじめ教えられていたとおり、その人の目元には小さな赤い痣がある。
 彼女は呆けたような顔で振り向くと、花梨のことをまじまじと見返した。
「エリカ……?」
 そう呟いてからも、彼女はしばし茫然としていたが、そのうち焦点が定まってくると、はっとしてこう言い直す。
「ごめんなさい。知り合いに似てたから。あなたは……」
「私は鷹山エリカの妹です」
 花梨がそう答えると、彼女は途端に顔をしかめた。
「妹さん? どうして私のところに……」
 そうした反応から、花梨は彼女が目当ての相手であることを確信する。
 彼女の名は、宝坂(ほうさか)(あん)。花梨の姉とは同回の友人だ。姉とは同い年のはずだが、やつれているからか、見た目にはもっと年上のようにも思える。
 杏は苦々しげな表情で花梨から視線を逸らすと、こう続けた。
「エリカのことは、私には何もわからない。何も知らないの。わざわざ会いに来てもらって申し訳ないけれども、私では力になれないから……」
 相手は明らかに会話を切り上げたいようだったが、それでも花梨はこう話した。
「私は確かに姉のことを探しています。でも、宝坂さんにお話しいただきたいのは、姉がどこにいるかとか、そういうことではないんです。大学の、あのサークルで何があったのか――」
「わからないって言ってるでしょう!」
 突然の大声に、花梨は思わず固まった。
 しかし、よく見れば相手の方も、自分のかんしゃくに驚いたかのように目を見開いている。それでも彼女はその戸惑いから立ち直ると、声の調子を落としてから、あらためてこう言った。
「本当に、私は何も知らないから」
「でも」
 花梨はさらに食い下がる。
 それは、彼女にどうしても話してもらいたかったからではない。明らかに普通ではない反応に、何か不穏なものを感じたからだ。
 花梨は思い出す。姉が失踪する前、電話やメッセージで交わしていたやりとりを。その中には、新しくできたという友人についての話題もあった。
「姉がいなくなる前、私は大学でのことをいろいろと教えてもらっていました。お菓子づくりの得意なお友だちって、あなたのことではないですか? やさしくて穏やかで、そんな素敵な友だちができたって言っていました。大学では、友だちと過ごすのが何より楽しいって――」
「やめてよ」
 杏は震える声で花梨の話をさえぎった。その表情は、あからさまに(こわ)ばっている。まるで何かに怯えているかのように。
 花梨の中に、じりじりと不安が広がっていく。
 ――会えばわかる。彼女たちがどうなっていったか。
 ふと、そんな言葉を思い出した。あれはどういう意味だったのだろう。花梨がそんなことを考えている間にも、杏は吐き捨てるように、こんなことを口にする。
「誰のせいで、私がこんなに苦しんでいると思ってるの……」
「待ってください。それは、どういうことでしょう。姉が、あなたに何かしたんですか?」
 花梨は慌ててそうたずねる。しかし、それに対する彼女の反応は意外なものだった。
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