11 平成最後の夏(中)
文字数 5,374文字
待ち合わせの秋葉駅に着いたのは十五時半だった。約束の時間より三十分も早かった。
言い訳するみたいになってしまうけど、僕としては十分前に到着するつもりで家を出た。ところがバス停に着くなりバスがやってきたり、信号が青ばかり続いたりと、想定していた以上に交通がスムーズに進んでしまったのだ。
もちろん遅いよりも早いに越したことはない。でもこんなに早く到着したのでは、まるで今日という日をものすごく楽しみにしていたみたいだ。こんなところを那由多先輩に見られたら、ほぼ間違いなくからかわれることだろう。
とはいえ、今から駅を離れてどこかへ行くのは中途半端すぎる。
僕は少し考えた後、駅舎に入って切符だけでも買っておくことにした。
中に入って僕は目を疑った。改札に向かって長い列が出来ていたのだった。
開催地の大灯駅が混雑するのはネットで見かけていたけれど、乗車駅の時点でこんなに人がいるとは思っていなかった。
さらによく見ると列は二つあった。どちらにも並んでもいいのか、どちらか一方なのか、だとしたらどちらなのか。少なくともネットにはこんなこと書いていなかった。
混乱していると、列の最後尾に知っている顔が並んでいるのに気がついた。
僕は歩み寄っていって彼に話しかけた。
「夏彦!」
すると彼だけでなく、近くにいた三人の女子が同時に振り返った。
「おう、奏汰じゃないか」
「や、やあ」
夏彦は笑顔で手を振ってきたが、僕はどう反応したらいいかわからなずに戸惑った。三人とも僕が全然知らない女子だったからだ。
「ここにいるってことは、お前も大灯の花火に行くのか?」
「一応」
夏彦は三人の女子に「ちょっと待ってて」と言い添えると、僕の肩に腕を回して列から離れた。
「で、誰となんだよ? まさか一人で行くわけないよな。図書委員のパイセンか?」
一人で行く、と嘘をついた方が寂しい奴扱いされてしまうので、僕は素直に頷いた。
ハハハハハ、と夏彦は僕の耳元で高らかに笑った。
「なんだかんだ言っておきながらやっぱりパイセンとなのかよ。いや、いい。全然いいんだ。むしろお前がその気になってくれて俺は嬉しいよ。人は男に生まれるのではない。男になるのだ、ってやつだな。お互いに平成最後の夏を全力で満喫しようぜ」
「あの三人は?」
夏彦は露骨に嬉しそうな顔をした。
「SNSで知り合った子たち。真ん中の子が俺の本命なんだ。かわいいだろ?」
僕は夏彦に促されるまま三人の女子を見た。
「もしかして前に言ってた、花火に誘いたい女子ってあの子のこと? うん。確かに夏彦が好きそうな雰囲気がする」
「好きそう、じゃなくて、好きなんだ」
細かく訂正してきたが、夏彦は満更でもなさそうだった。
「そういえば一人では会ってくれないから、みんなで花火に行く名目にしたいから頭数が欲しい、みたいなこと言ってなかったっけ?」
「ああ、それはもう解消された。見ての通り友達を連れて来てもらったんだ。今日はあの三人を連れて花火へ向かう」
「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ?」
「そうそう。それそれ」
やっぱり他の二人を馬扱いしている。こんな調子で大丈夫なのだろうか。
少し心配になったが、浮かれているところに水を注すのも悪いので黙っていた。
「ところでこの列ってどうなってるの?」
僕は二つある列のことを夏彦に訊ねた。すると流石に女子三人を連れて花火に行こうとしているだけあり、スムーズに説明をしてくれた。一つは切符を買う列で、もう一つは改札に向かう列とのことだった。ちなみに夏彦は既に切符を買い、今は改札の列に並んでいるところだったらしい。
「ああ。あともう一つ。花火はどこで見るつもりでいる? 無料席は午前中にはだいたい埋まっちゃうらしいし、有料席も完売してるそうじゃないか」
「俺は会場を歩きながら探すよ。どっかに座れるスペースくらいあるだろ」
「座れるのかな? ネットによると会場の混み方は常軌を逸してるらしいけど」
「どうにかなるって。というか、どうにかする。花火の人混み。それもまた夏の風物詩の一つだからな。むしろそういうハプニングや苦労が結果的に俺を輝かせることになるはずだ」
「輝くのは花火であって夏彦じゃな……」
改札行きの列が動き出した。夏彦は「またな、戦友!」と言い残して三人の女子のところへ戻っていった。
いったい何と戦うのか、と思ったけれど、まあ、それだけ気持ちが舞い上がっているのだろう。
スマホで時間を見ると十五時四十五分になっていた。
とりあえず切符の列に並んでおこうかと思った。こうしている間にも列はどんどん長くなっている。
その時、横から「こちらが切符を買う列なんですね?」と女の人に話しかけられた。
「あ、はい。そのようです」
見知らぬ人から話しかけられたのだと思い、僕は反射的に返事をした。
「………………」
なぜか相手は何も言わず、じっと僕の顔を見つめてきた。
何かおかしいと思ったら、ポップコーンが弾けるような笑い声が返ってきた。
「な、那由多先輩?」
見知らぬ通行人と思った女の人は誰あろう、那由多先輩だった。
彼女は体を曲げてしばらく笑い続けた。
「あ、はい。そのようです。だってさ。全然知らない人から話しかけられたと思ったの?」
那由多先輩は僕のものまねをすると、再び笑い出した。
笑われる時間が長引くほど恥ずかしさが加算されていった。
「え、いや、だって……」
「だって、何?」
僕は口ごもりながら必死で弁解に努めた。
「だって、それ、浴衣じゃないですか!」
僕は那由多先輩の服装を指さして言った。彼女は水色の浴衣を着ていた。
「浴衣だね。見ての通り。何か疑問が差し挟む余地って、ある?」
「いや、でも、浴衣は着てこないって言ってたじゃないですか。機動力が落ちるからって。あと、髪型が全然違う」
「ああ、これのこと?」
那由多先輩は背中を向けて後頭部を見せてきた。普段はストレートに流している髪が結い上げられており、首筋と耳元がよく見えた。
「やっぱり浴衣にはこの髪型かな、って思ってさ。物事には一般的にセットになってる組み合わせってのがあるんだよ。ハンバーガーとシェイクとか、ラーメンと餃子とかさ」
「いや、食べ物を引き合いに出されても……。と、いうかですね。髪型も違うし、服装も言ってたのと違うし、周りには人がいっぱいですし、気づけない要素ばかりだったじゃないですか。気づけなくても仕方なくないですか?」
「だからって顔まで変化するわけじゃないんだからさ。ちょっとショックを隠しきれそうにないね、わたしは」
「って言いながらめっちゃ笑ってたじゃないですか」
「うん。だってそのために敬語で話しかけたわけだしね。後輩くんなら知らない人に話しかけられたって戸惑うんじゃないかと思ったけど、見事に期待通りだったね」
「………………」
わかってはいたけれど、やはり確信犯だった。もう何も反応しない方が賢明かもしれない。
とはいえ気にかかることがあった。浴衣では長時間の長時間の移動は辛いということだ。
「うん。それについては万難を排して解決法を見出したんだ。見たまえ、これを」
那由多先輩は膝を曲げて足を見せてきた。ラバーの履物、クロックスだった。
「とあるネットの噂では、浴衣にクロックスを合わせるのが今年の流行なんだってさ。本当かどうかは知らないけど、否定する理由も材料もなかったから鵜呑みにしてみた。これなら足も痛くなりづらいし、機動力もそこそこだよ」
「わ、わかりましたから足を戻してください。そんなフラミンゴみたいな格好してたら周りから変な目で見られるじゃないですか。というか見られてますし」
「それってもしかして他人には見せたくない、ってやつ?」
「悪目立ちしたくないんです、僕が」
「わかった、わかった。二足歩行に戻すよ」
ともあれ無事に合流することはできて一安心だ。
僕らはまず切符を買うための列に並んだ。
最初は二つ分の列に並ばなければいけないのは面倒だと思ったけれど、列の進みは意外と悪くなかった。切符を買うのは券売機ではなく、特別に設けられた販売ブースになっていて、駅員が熟練した動きで客をさばいていた。早いわけだ。
反面、改札行の列は遅々として進まなかった。
「まるで牛歩だね。いや、これだけ進まないと牛に失礼か」
那由多先輩が言うように、進むよりも立ち止まっている時間の方が断然長かった。駅員のアナウンスによると、ホームが人で溢れて危険にならないように、入場制限を設けているとのことだった。
「それにしても凄いね。規模の大きな花火だとは聞いてたけど、乗車駅だけでこんなに人が集まってるなんてさ。いったい会場はどれだけ人で溢れ返るんだろうね」
「ネットによると電車だけでなく、県内外から車が集中するらしいですからね。東京から見に来る人も珍しくないらしいですよ」
「ふうん。一大イベント、いや、もはや一大産業だね。ある意味、ある認識においては、今日だけはここが世界の中心になるのかもしれないね」
那由多先輩と話していると何回か列は動きを繰り返した。数歩だけ、ということもあれば、一度に数メートル、ということもあった。確実に進んではいるが、徐々に時間が気になり始めていた。
そんな時、夏彦から「乗った。出た。向かった」とカエサルのようなメッセージが届いた。歩みは遅いものの、しっかり列は進んでいるのがわかって安心した。
スマホで返信をしていたら、那由多先輩が「誰?」と訊ねてきた。
「同じく大灯の花火に行こうとしてるクラスの友人です。ちょっと先に列に並んでいて、今、ようやく乗った電車が出発したみたいなんです」
「クラスの友人ってことは、いつだったかわたしがキミの教室に行った時に出てきた彼のことかな?」
「よく覚えていますね」
「覚えているっていうか、後輩くんって友達が少なさそうだったからさ。他に思い当たる節がなかったんだよ」
「……あ、そうですか。まあ、友人が少ないのは否めませんけど」
「そんなに真に受けないでよ。で、その友人は誰と花火に行ってるの?」
「SNSで知り合った三人の女子を引き連れて向かっているそうです」
「え? 男一人で女三人? これまた精力的な友人だね」
「まったくです」
そんな話をしていたら急に列が前進した。
「動きますね。あれ? 思ったよりも進みが早いみたいですね」
通路を歩いていくと、窓からホームを見下ろすことができた。
何番線かまでは確認できなかったけれど、電車が待機しているのが見えた。
「もしかしてこのまま一気に改札を通り抜けられるんじゃないでしょうか?」
「うん。悪くないペースだね」
だけど同じような期待を抱いたのは僕らだけではなかった。
それまで整っていた列が急に崩れ、横から追い抜いていく人が現れ出した。改札が四つのために横に膨らんだ列になっているのだけど、ちょっとでも遠慮すると空いたスペースに人が割り込んでくる。
「このままだとその場で足踏みしてるだけになるよ。後輩くん、手!」
「て?」
首を傾げている間もなく、那由多先輩が僕の手をつかんできた。
て、って、手か!
疑問が溶けた一方で、いきなり手を握られたせいで僕は思考があやふやになっていた。
柔らかい。先輩の手。あと力強くもある。
そんな僕の心理状態に構うことなく、那由多先輩は砕氷船のように進撃していった。
動きにくそうな浴衣姿にも関わらず。これがクロックスの機動力か、と僕は感心した。
「切符は自動改札には入れずに、手にそのままお持ちのまま通過してください」
自動改札の近くにくると、駅員がそのようにアナウンスしていた。
最初は「え、いいの?」と戸惑ったが、大量の乗客をさばくための特別な対応なのだろう。だから先に切符を買うように誘導されていたのだ。
「このまま一気に行こう、後輩くん」
今にも駅員がストップをかけるのではないかとハラハラした。
改札は一人分の幅しかないので、先輩が先に通り抜けた。僕もそれに続こうとした。
その時、あらぬ方向から有無を言わせぬ力が加わった。
強制的に足が止まり、僕は先輩の手を離さざるを得なかった。
何が起きたのかすぐにはわからなかったが、振り返ると鞄の紐が自動改札に引っかかっていた。
「あ! す、すいません!」
僕が立ち止まったことにで後ろの人たちをせき止めていた。
慌てて紐を外そうと引っ張るが、焦って思うように手が動かない。
「後輩くん?」
先輩が引き返そうとしたが、駅員に「危ないので戻らないでください」と止められていた。
それでも先輩はどうにかその場に留まろうとしていた。でもそれも改札を抜けていく人たちに飲まれて、押し流され、見えなくなった。
僕はようやく鞄の紐を引き抜いた。そして走って先輩を追いかけようとした矢先、
「ここでいったん入場停止になります!」
無情にも入場規制になった。
そしてこれが僕が先輩を見た最後だった。
言い訳するみたいになってしまうけど、僕としては十分前に到着するつもりで家を出た。ところがバス停に着くなりバスがやってきたり、信号が青ばかり続いたりと、想定していた以上に交通がスムーズに進んでしまったのだ。
もちろん遅いよりも早いに越したことはない。でもこんなに早く到着したのでは、まるで今日という日をものすごく楽しみにしていたみたいだ。こんなところを那由多先輩に見られたら、ほぼ間違いなくからかわれることだろう。
とはいえ、今から駅を離れてどこかへ行くのは中途半端すぎる。
僕は少し考えた後、駅舎に入って切符だけでも買っておくことにした。
中に入って僕は目を疑った。改札に向かって長い列が出来ていたのだった。
開催地の大灯駅が混雑するのはネットで見かけていたけれど、乗車駅の時点でこんなに人がいるとは思っていなかった。
さらによく見ると列は二つあった。どちらにも並んでもいいのか、どちらか一方なのか、だとしたらどちらなのか。少なくともネットにはこんなこと書いていなかった。
混乱していると、列の最後尾に知っている顔が並んでいるのに気がついた。
僕は歩み寄っていって彼に話しかけた。
「夏彦!」
すると彼だけでなく、近くにいた三人の女子が同時に振り返った。
「おう、奏汰じゃないか」
「や、やあ」
夏彦は笑顔で手を振ってきたが、僕はどう反応したらいいかわからなずに戸惑った。三人とも僕が全然知らない女子だったからだ。
「ここにいるってことは、お前も大灯の花火に行くのか?」
「一応」
夏彦は三人の女子に「ちょっと待ってて」と言い添えると、僕の肩に腕を回して列から離れた。
「で、誰となんだよ? まさか一人で行くわけないよな。図書委員のパイセンか?」
一人で行く、と嘘をついた方が寂しい奴扱いされてしまうので、僕は素直に頷いた。
ハハハハハ、と夏彦は僕の耳元で高らかに笑った。
「なんだかんだ言っておきながらやっぱりパイセンとなのかよ。いや、いい。全然いいんだ。むしろお前がその気になってくれて俺は嬉しいよ。人は男に生まれるのではない。男になるのだ、ってやつだな。お互いに平成最後の夏を全力で満喫しようぜ」
「あの三人は?」
夏彦は露骨に嬉しそうな顔をした。
「SNSで知り合った子たち。真ん中の子が俺の本命なんだ。かわいいだろ?」
僕は夏彦に促されるまま三人の女子を見た。
「もしかして前に言ってた、花火に誘いたい女子ってあの子のこと? うん。確かに夏彦が好きそうな雰囲気がする」
「好きそう、じゃなくて、好きなんだ」
細かく訂正してきたが、夏彦は満更でもなさそうだった。
「そういえば一人では会ってくれないから、みんなで花火に行く名目にしたいから頭数が欲しい、みたいなこと言ってなかったっけ?」
「ああ、それはもう解消された。見ての通り友達を連れて来てもらったんだ。今日はあの三人を連れて花火へ向かう」
「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ?」
「そうそう。それそれ」
やっぱり他の二人を馬扱いしている。こんな調子で大丈夫なのだろうか。
少し心配になったが、浮かれているところに水を注すのも悪いので黙っていた。
「ところでこの列ってどうなってるの?」
僕は二つある列のことを夏彦に訊ねた。すると流石に女子三人を連れて花火に行こうとしているだけあり、スムーズに説明をしてくれた。一つは切符を買う列で、もう一つは改札に向かう列とのことだった。ちなみに夏彦は既に切符を買い、今は改札の列に並んでいるところだったらしい。
「ああ。あともう一つ。花火はどこで見るつもりでいる? 無料席は午前中にはだいたい埋まっちゃうらしいし、有料席も完売してるそうじゃないか」
「俺は会場を歩きながら探すよ。どっかに座れるスペースくらいあるだろ」
「座れるのかな? ネットによると会場の混み方は常軌を逸してるらしいけど」
「どうにかなるって。というか、どうにかする。花火の人混み。それもまた夏の風物詩の一つだからな。むしろそういうハプニングや苦労が結果的に俺を輝かせることになるはずだ」
「輝くのは花火であって夏彦じゃな……」
改札行きの列が動き出した。夏彦は「またな、戦友!」と言い残して三人の女子のところへ戻っていった。
いったい何と戦うのか、と思ったけれど、まあ、それだけ気持ちが舞い上がっているのだろう。
スマホで時間を見ると十五時四十五分になっていた。
とりあえず切符の列に並んでおこうかと思った。こうしている間にも列はどんどん長くなっている。
その時、横から「こちらが切符を買う列なんですね?」と女の人に話しかけられた。
「あ、はい。そのようです」
見知らぬ人から話しかけられたのだと思い、僕は反射的に返事をした。
「………………」
なぜか相手は何も言わず、じっと僕の顔を見つめてきた。
何かおかしいと思ったら、ポップコーンが弾けるような笑い声が返ってきた。
「な、那由多先輩?」
見知らぬ通行人と思った女の人は誰あろう、那由多先輩だった。
彼女は体を曲げてしばらく笑い続けた。
「あ、はい。そのようです。だってさ。全然知らない人から話しかけられたと思ったの?」
那由多先輩は僕のものまねをすると、再び笑い出した。
笑われる時間が長引くほど恥ずかしさが加算されていった。
「え、いや、だって……」
「だって、何?」
僕は口ごもりながら必死で弁解に努めた。
「だって、それ、浴衣じゃないですか!」
僕は那由多先輩の服装を指さして言った。彼女は水色の浴衣を着ていた。
「浴衣だね。見ての通り。何か疑問が差し挟む余地って、ある?」
「いや、でも、浴衣は着てこないって言ってたじゃないですか。機動力が落ちるからって。あと、髪型が全然違う」
「ああ、これのこと?」
那由多先輩は背中を向けて後頭部を見せてきた。普段はストレートに流している髪が結い上げられており、首筋と耳元がよく見えた。
「やっぱり浴衣にはこの髪型かな、って思ってさ。物事には一般的にセットになってる組み合わせってのがあるんだよ。ハンバーガーとシェイクとか、ラーメンと餃子とかさ」
「いや、食べ物を引き合いに出されても……。と、いうかですね。髪型も違うし、服装も言ってたのと違うし、周りには人がいっぱいですし、気づけない要素ばかりだったじゃないですか。気づけなくても仕方なくないですか?」
「だからって顔まで変化するわけじゃないんだからさ。ちょっとショックを隠しきれそうにないね、わたしは」
「って言いながらめっちゃ笑ってたじゃないですか」
「うん。だってそのために敬語で話しかけたわけだしね。後輩くんなら知らない人に話しかけられたって戸惑うんじゃないかと思ったけど、見事に期待通りだったね」
「………………」
わかってはいたけれど、やはり確信犯だった。もう何も反応しない方が賢明かもしれない。
とはいえ気にかかることがあった。浴衣では長時間の長時間の移動は辛いということだ。
「うん。それについては万難を排して解決法を見出したんだ。見たまえ、これを」
那由多先輩は膝を曲げて足を見せてきた。ラバーの履物、クロックスだった。
「とあるネットの噂では、浴衣にクロックスを合わせるのが今年の流行なんだってさ。本当かどうかは知らないけど、否定する理由も材料もなかったから鵜呑みにしてみた。これなら足も痛くなりづらいし、機動力もそこそこだよ」
「わ、わかりましたから足を戻してください。そんなフラミンゴみたいな格好してたら周りから変な目で見られるじゃないですか。というか見られてますし」
「それってもしかして他人には見せたくない、ってやつ?」
「悪目立ちしたくないんです、僕が」
「わかった、わかった。二足歩行に戻すよ」
ともあれ無事に合流することはできて一安心だ。
僕らはまず切符を買うための列に並んだ。
最初は二つ分の列に並ばなければいけないのは面倒だと思ったけれど、列の進みは意外と悪くなかった。切符を買うのは券売機ではなく、特別に設けられた販売ブースになっていて、駅員が熟練した動きで客をさばいていた。早いわけだ。
反面、改札行の列は遅々として進まなかった。
「まるで牛歩だね。いや、これだけ進まないと牛に失礼か」
那由多先輩が言うように、進むよりも立ち止まっている時間の方が断然長かった。駅員のアナウンスによると、ホームが人で溢れて危険にならないように、入場制限を設けているとのことだった。
「それにしても凄いね。規模の大きな花火だとは聞いてたけど、乗車駅だけでこんなに人が集まってるなんてさ。いったい会場はどれだけ人で溢れ返るんだろうね」
「ネットによると電車だけでなく、県内外から車が集中するらしいですからね。東京から見に来る人も珍しくないらしいですよ」
「ふうん。一大イベント、いや、もはや一大産業だね。ある意味、ある認識においては、今日だけはここが世界の中心になるのかもしれないね」
那由多先輩と話していると何回か列は動きを繰り返した。数歩だけ、ということもあれば、一度に数メートル、ということもあった。確実に進んではいるが、徐々に時間が気になり始めていた。
そんな時、夏彦から「乗った。出た。向かった」とカエサルのようなメッセージが届いた。歩みは遅いものの、しっかり列は進んでいるのがわかって安心した。
スマホで返信をしていたら、那由多先輩が「誰?」と訊ねてきた。
「同じく大灯の花火に行こうとしてるクラスの友人です。ちょっと先に列に並んでいて、今、ようやく乗った電車が出発したみたいなんです」
「クラスの友人ってことは、いつだったかわたしがキミの教室に行った時に出てきた彼のことかな?」
「よく覚えていますね」
「覚えているっていうか、後輩くんって友達が少なさそうだったからさ。他に思い当たる節がなかったんだよ」
「……あ、そうですか。まあ、友人が少ないのは否めませんけど」
「そんなに真に受けないでよ。で、その友人は誰と花火に行ってるの?」
「SNSで知り合った三人の女子を引き連れて向かっているそうです」
「え? 男一人で女三人? これまた精力的な友人だね」
「まったくです」
そんな話をしていたら急に列が前進した。
「動きますね。あれ? 思ったよりも進みが早いみたいですね」
通路を歩いていくと、窓からホームを見下ろすことができた。
何番線かまでは確認できなかったけれど、電車が待機しているのが見えた。
「もしかしてこのまま一気に改札を通り抜けられるんじゃないでしょうか?」
「うん。悪くないペースだね」
だけど同じような期待を抱いたのは僕らだけではなかった。
それまで整っていた列が急に崩れ、横から追い抜いていく人が現れ出した。改札が四つのために横に膨らんだ列になっているのだけど、ちょっとでも遠慮すると空いたスペースに人が割り込んでくる。
「このままだとその場で足踏みしてるだけになるよ。後輩くん、手!」
「て?」
首を傾げている間もなく、那由多先輩が僕の手をつかんできた。
て、って、手か!
疑問が溶けた一方で、いきなり手を握られたせいで僕は思考があやふやになっていた。
柔らかい。先輩の手。あと力強くもある。
そんな僕の心理状態に構うことなく、那由多先輩は砕氷船のように進撃していった。
動きにくそうな浴衣姿にも関わらず。これがクロックスの機動力か、と僕は感心した。
「切符は自動改札には入れずに、手にそのままお持ちのまま通過してください」
自動改札の近くにくると、駅員がそのようにアナウンスしていた。
最初は「え、いいの?」と戸惑ったが、大量の乗客をさばくための特別な対応なのだろう。だから先に切符を買うように誘導されていたのだ。
「このまま一気に行こう、後輩くん」
今にも駅員がストップをかけるのではないかとハラハラした。
改札は一人分の幅しかないので、先輩が先に通り抜けた。僕もそれに続こうとした。
その時、あらぬ方向から有無を言わせぬ力が加わった。
強制的に足が止まり、僕は先輩の手を離さざるを得なかった。
何が起きたのかすぐにはわからなかったが、振り返ると鞄の紐が自動改札に引っかかっていた。
「あ! す、すいません!」
僕が立ち止まったことにで後ろの人たちをせき止めていた。
慌てて紐を外そうと引っ張るが、焦って思うように手が動かない。
「後輩くん?」
先輩が引き返そうとしたが、駅員に「危ないので戻らないでください」と止められていた。
それでも先輩はどうにかその場に留まろうとしていた。でもそれも改札を抜けていく人たちに飲まれて、押し流され、見えなくなった。
僕はようやく鞄の紐を引き抜いた。そして走って先輩を追いかけようとした矢先、
「ここでいったん入場停止になります!」
無情にも入場規制になった。
そしてこれが僕が先輩を見た最後だった。