9 夏休みN日目
文字数 6,787文字
僕の夏休みは夏彦に宣言した通り、読書が大半を占めることになった。
これは僕が本好きだからというのもあるけれど、他にもうひとつ大きな理由があった。本以外の趣味が僕にはなかったからだ。
せっかくなので普段は手をつけづらい大長編にチャレンジすることにした。そこで選んだのが世界文学最高峰と評されているドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』だった。
国も書かれた時代も隔たりがあるせいか、最初は読み進めるのにかなり苦労した。ロシア人の名前に馴染みがないせいで登場人物を把握するのにも骨が折れたし、前半の難所と呼ばれている「大審問官」という章は、宗教になじみのない僕にはわりと修行のような心境だった。
ただ、そこを越えたら途端に物語の中に入っていくことができた。面白かったのは登場人物がどれも驚くほどに個性的で、一切の遠慮なしに喜怒哀楽をぶつけあうところだった。
読み終えた後、僕は巨大な虚無感に襲われた。
いわゆるカラマーゾフ・ロスというやつだろうか?
当初の予定では大長編の後には短い小説を読むつもりだった。フルコースの後のデザートみたいな感覚で。
それが今では再び壮大な物語に浸りたくてうずうずしていた。思考も冷静さを欠いていたのか、長ければ長いほど面白いに違いない、という謎の考えに取り憑かれていた。
あいにく部屋の本棚には僕が求めているような本はなかった。ちなみにカラマーゾフの兄弟は夏休み前日に図書室から全巻借りてきたものだった。
僕はインターネットで何冊か名作について調べた後、久しぶりに家を出て県立図書館に向かった。家の近くにも図書館の分室はあるのだけど、せっかくならと大きい方がいいと思ったのだった。大は小を兼ねる。長は短を兼ねる、みたいに。
しかし外に出た瞬間に僕は思い知らされた。今が夏の只中だということを。
ずっとクーラーの効いた部屋に引きこもっていたせいで感覚がおかしくなっていたのだけど、今年は例年にないほどの猛暑だったのだ。太陽から降り注ぐ光と、アスファルトの照り返しがダブルとなって、上下から挟んでグリルされているみたいだった。
本当は体のなまった体を動かすために徒歩にしたのだけど、暑さに健康を害される前にバス移動に切り替えた。車内は空調が効いていたものの、窓の外は風景が蜃気楼のように揺らめいていてゾッとした。
県立図書館はバス停から入り口が近かったため、消耗せずに中に入ることができた。ここの空調も快適で、入館ゲートをくぐる前からもう冷気で満たされていた。
中に入ると僕は早速本の探索に勤しんだ。
小説の名作は数あれど、今日見つけたいのは「とにかく長い」ものだ。
僕はまず海外文学の棚へ向かった。
国内外は問わないつもりだったけど、やはり『カラマーゾフの兄弟』のインパクトが強すぎたせいか、どうしてもそちら翻訳ものに気持ちが引かれていく。
僕は悩んだ末にトルストイの『アンナ・カレーニナ』と『戦争と平和』の二択に絞ることにした。正直、どちらもとっつきが悪かった。そして長い。
果たして読み切れるのだろうか?
でも長ければ長い本の方が読み終わった時に気持ちいいような気もするのだ。我ながら病気かもしれない、と苦笑した。
那由多先輩の姿を発見したのは、トルストイの本を何冊か手に取って吟味している時だった。
裏側の本棚が空になっていて、本を抜いた隙間から向こう側が見えた。
その先の机に那由多先輩が座っていた。
しばらく僕は見間違いだと思い込んでいた。
雰囲気も違うし、服装も異なってる。
でもその理由はあまりにも単純だった。制服ではなく私服だったからだ。
僕はすぐにそちらへ回り込もうと思った。図書室警察事件の後から顔を合わせていなかったので、ゆうに一ヶ月くらいぶりの再会だった。
が、手にしていた本を棚に戻している途中で僕は思い留まった。
那由多先輩が座っている席は閲覧用とは異なる学習スペースだった。そこで彼女は参考書を開き、真剣な面持ちで書き物をしていた。
那由多先輩は勉強のために図書館に来ているのだった。一方、僕は本を借りに来ただけだ。それも夏休みを満喫するためだけのために。
もちろん僕と那由多先輩では立場が違う。先輩が勉強しているからといって、僕が負い目を持つ必要はないことはわかっている。
それでも那由多先輩の前に出られなかった。
彼女の真剣な顔が年の差以上に大人に見えたからかもしれない。
僕はその場から離れるために本をすべて棚に戻すことにした。そもそも本の隙間から一方的に人を盗み見ていること自体がよくないことなのだ。
ところが最後の一冊を棚に戻そうとして、那由多先輩の姿が消えていることに気がついた。
僕は慌てて棚の裏に回った。
学習用スペースには参考書もノートも残されていなかった。
僕は素早く周りを見回すと、セキュリティゲートを通り抜け、そのまま建物の外へ出ていこうとする那由多先輩の後ろ姿が見えた。
僕はとっさに那由多先輩を追いかけようとした。が、職員と目が合って歩みを遅らせた。ここは老若男女が利用する県立図書館なのだ。マナーは大事だ。もちろん学校の図書室だろうと同じことだけれど。
僕は早すぎず、遅すぎず、周りから見咎められないギリギリのスピードでセキュリティゲートを目指した。まるで競歩に挑戦するみたいに。
ゲートを抜けた先はフリースペースになっていて、ベンチや自販機が設置されている。一通り見回したけれど先輩の姿はなかった。
となると外に出たとしか考えられない。出入り口は一つしかない。ただし問題は建物の外だ。右手は駐輪場。左手は公民館。正面はバス停。さらに車道を挟んだ向かい側にはコーヒーショップまである。行き先はいくらでもある。
せっかく那由多先輩の姿を見つけたのに。
思わず後悔の念が湧いてきたが、ちょっと冷静に考えてみたら変な気持ちになった。
いや、そもそも顔を合わせない方がいいと思っていなかっただろうか?
それなのにどうして反射的に追いかけようとしたのか。自分の行動がよくわからなかった。
「そんなところに立ってて暑くない? 肌をこんがり褐色に焼きたいのなら構わないけどさ」
突然、後ろから声をかけられた。振り返ると那由多先輩が立っていた。
「先輩? え、なんで後ろに?」
「キミはいつもわたしに背後を取られるよね、後輩くん。わたしがその気になったらキミの夏は終わっていたよ。そんなんでこれからエージェントとしてやっていけるのかな?」
「いえ、エージェントではないので問題はないかと」
「人を追う者は常に追われることを想定しないといけないんだよ。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているようにね」
「フリードリヒ?」
「ヴィルヘルム」
「ニーチェ」
「かく語りき」
「いや、かく語るのはツァラトゥストラですよ。……っていうより、いつの間に回り込んだんですか。全然気づきませんでしたよ」
「トイレに入っていたからだよ」
那由多先輩はフリースペースのトイレを指さした。セキュリティゲートを出てきた側からでは自動販売機のせいで微妙に死角になっていたのだった。
「……野暮なことを聞いて失礼しました」
「まったくだね。もっとも、キミが来るのがわかったから、身を隠すためだけに入ったんだけどさ」
「……もしかして僕が図書館の中にいる時から気づいていました?」
「そうだね。本の隙間からチラチラのぞき込んで、ストーカーかと思ったよ。後輩くんとはいえ、ちょっとあの行動は看過できなかったなあ。だから荷物をたたんで撤退したのに、まさか追ってくるなんてさ」
「……すいませんでした。勉強に集中しているみたいだったので、声をかけるかどうか迷ってしまったんです」
「冗談だって。それよりもこんな入口の外と中の微妙な境界線上に立っていないでさ、そこのベンチに腰を落ち着けて話そうよ」
那由多先輩はフリースペースを指さして言った。そこは図書館とは区分けされており、飲食も雑談が許可された可能なエリアになっているらしかった。
「飲み物、欲しい? けっこう久しぶりなんだし、たまにはおごってあげよう」
「え、でも悪いですよ。それくらい自分でも持ってますし」
「外はあんなに暑いんだから、わたしが先輩風を吹かして涼ませてあげるよ、後輩くん」
「それならスプライトでお願いします」
「じゃあ先に座ってて」
僕は言われた通りにベンチに向かった。
ちょうど空いているベンチは自販機に背を向けるように設置されていた。僕は深く考えずに座ったけれど、結果的にまた隙をさらすことになった。
「ひっ!」
突如、首筋に冷気が走って僕は立ち上がった。振り返ると先輩がスプライトの缶を手にして笑っていた。
「な、なにやってるんですか!」
「今って夏だよね。夏と言ったらお化け屋敷。要するにお化け屋敷のこんにゃくトラップ的な?」
「小学生じゃないんですから! あと最近は衛生上の都合から、こんにゃくの使用は控えられているらしいですよ!」
「へえ、そうなんだ。博識だね、後輩くん」
那由多先輩はベンチに座ると、隣の席を軽く叩きながら僕に座り直すように指示してきた。二の足を踏んでいたら「何もしないって」と促された。
僕はスプライトを受け取って先輩の隣に座った。蓋を取ると吹き出したりもしなかった。中はちゃんとしたスプライトで、美味しかった。
「それにしても本当に久しぶりな気がするね。気がするっていうより、実際に久しぶりなのか」
「図書室警察の事件以来ですから、一ヶ月ぶりくらいですね」
「そんなに経つんだ? 光陰矢の如しだ。ところで光陰の矢って、英語にするとライト・ダーク・アローってこと? この言葉を言った人、すごく中二病を煩わせてると思わない?」
「光陰ってのは時間のことです。時間は矢の如く、ってことです」
「ほおお。後輩くん。少し見ないうちに博覧強記になってない? 夏休みはどう過ごしてた? やっぱり読書?」
僕は返事に少しだけ躊躇したが、素直に頷いた。
「今日はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読み終わったところです」
「サマセット・モームが定めた世界十大小説の一つだね。やるじゃないか!」
先輩は身を乗り出して食いついてきた。細々とやっているSNSでは誰も反応しなかったので、僕は素直に嬉しくなった。
「先輩は読んだことあるんですか?」
「カラ兄? あるよ。そういえばわたしも去年の今頃だったかも。奇遇だね。ちなみにわたしはゾシマ長老が好き。誰よりも高潔でありながら、誰よりも早く腐るゾシマ長老。後輩くんは?」
僕は那由多先輩とカラ兄について大いに話した。
ここ最近、僕はずっと一人で読書を続けていた。
もちろんそれはそれで楽しいし、代えがたい個人的な体験だった。
でも那由多先輩と本の話をするのは読書体験を土台にして、空へ飛躍するような楽しみがあった。
こんな話をしてくれる人は他にいない。今さらながらその事実を思い知った。
「そういえば先輩の方はどういう夏休みを過ごしているんですか?」
いったんカラ兄の話題が落ち着いたので、僕は軽い気持ちで那由多先輩に訊ねた。他にもいくらでも本の話はできそうだったけれど、ちょっとした箸休めのつもりだった。
「あー、そうだね」
不意に那由多先輩の面持ちが変わった。
「簡潔に言うと勉強だね。うん」
勉強、という言葉で僕は身を固くした。
夏休み前日、司書の先生が言っていたことを思い出す。
「……そ、それはその、お疲れ様です」
図らずもギクシャクした言い方になってしまった。
すると那由多先輩は何かを思い出したみたいに「あ」と言って顔を上げた。
「そうだった。そういえばテスト最終日、図書室に行けなくて悪かったよ。手伝いにいった方がいいのはわかってたんだけど、ちょうどその日に全国模試の結果が返ってきてさ。その日のうちに先生にどうしても教えてもらいたい箇所があったから、職員室に入り浸っていたんだ」
「そうだったんですか」
「わたしが来なくて落胆したかな、後輩くんは?」
那由多先輩はニヤッと口元を吊り上げたが、いつもより控え目に見えた。
「あ、いえ。僕一人でもそれなりに手は足りましたので」
「あ、そう」
「でも、夏休み前っていつもより長く本を借りれるじゃないですか。だから先輩は普通に来るんだろうなっては思ってました」
「うん。本当はそうしたかったんだけどね。でも全国模試の結果を見て、現実と向き合わなきゃいけなくなってしまってね」
「そういえば先輩の志望大学ってどこなんですか?」
那由多先輩はあっさりと大学名を教えてくれた。ただ大学受験について知識のない僕は、それがどういうところで、どれくらい難しいところなのかはさっぱりつかめなかった。かろうじてわかったのは東京の大学ということだけだった。
「あ、全然わからないって顔してるね。エポケーって感じの顔だ」
「すいません。持ってるのが無駄知識ばかりで、有用な知識は全然なくて」
「仕方がないさ。受験生でもないんだからわからないのが普通だよ。ええと、簡潔に言うと外国語を学べる大学では国内トップクラスってところかな」
「先輩は外国語を勉強したいんですか? てっきり本が好きだから、日本語を極めたいのかと思ってました」
「日本語は好きさ。日常に根ざしているし、美しいとも思ってる。でも、なんていえばいいのかな。わたしは自分の生活圏にないものを外から持ってくることに興味があるみたいなんだ。例えば翻訳とか。それこそ後輩くんが読んだばかりの『カラマーゾフの兄弟』なんてまさにそれだよね。ロシア語から日本語に翻訳してくれた人がいたから、こんなに有名になって、時代まで越えて、わたしたちのところにまで届いている。どんなにすごい作品でも、それを変換する人がいないと伝わっていかない。そういうことをしたい。だから外国語を学びに行きたいんだ」
「……………………」
僕はしばらく言葉を発することができなかった。
「あれ? どうかした、後輩くん」
「……僕はそんなこと考えて読書をしたことは一度もありませんでした」
「ん? ごめん。声が小さくて聞こえない」
「……あ、いえ。なんでもないです」
これまで先輩と後輩なんてものは、一年早いか遅いかの違いでしかないと思っていた。
でも、今は年齢以上に大きな差があるような気がしてならない。
先輩は僕が思っていた以上に実は大人だった。
「あ、いつの間にか十七時を回ってたんだね」
おもむろに那由多先輩はスマホを見て言った。
「今日は久しぶりに後輩くんに敢えていい息抜きになったよ」
那由多先輩はそう言いながら僕の手からスプライトの空き缶を抜き取った。
「捨てておいてあげよう。次に会えるのは夏休み明けかな?」
既に夏休みは半分くらい過ぎていたから、それはたぶん妥当な計算だ。
でも、もしかしたらゆっくり話をできるのはこれが最後なのではないかと思った。
那由多先輩はつかみどころのない人ではあるけれど、ここぞという時は絶対に外さないクレバーな人だ。このまま勉強を積み重ね、艱難辛苦を乗り越え、その先にある第一志望の大学に合格するだろう。そして夢を実現させるための専門知識を深め、やがては世界へと飛躍していくのだ。そのビジョンが僕にはありありと浮かんだ。
先輩はいつの間にか背を向けていた。その背中があまりにも遠くに見えた。
気がついたら僕は先輩の背中を追って足を踏み出していた。
彼女は自販機の横に僕の空き缶を捨てようとしているところだった。
「待ってください!」
先輩は手を止めて僕へと振り返った。
「どうかしたのかな。もしかしてまだ残ってた、中身?」
「残ってません。でも、やっぱり自分で捨てようかと思って」
「え? 今にも捨てる一秒前とかだったんだけど」
「例えそうでも、先輩に捨てさせる手間はかけさせられません」
「あ、そう。よくわからないけど、後輩くんがそう言うのなら」
先輩は訝しげな顔をしながら空き缶を僕に渡してくれた。
自分でも何を言っているのかよくわかっていなかった。たぶん引き止める理由が欲しかったのだとは思う。
でも僕は次にもっと意味のわからないことを言った。
「自分で缶を捨てる代わりに、お願いを聞いてもらえないでしょうか?」
「お願い? 寝耳に水だね。でもいいよ。言ってみて」
「僕と花火大会に行ってください!」
これは僕が本好きだからというのもあるけれど、他にもうひとつ大きな理由があった。本以外の趣味が僕にはなかったからだ。
せっかくなので普段は手をつけづらい大長編にチャレンジすることにした。そこで選んだのが世界文学最高峰と評されているドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』だった。
国も書かれた時代も隔たりがあるせいか、最初は読み進めるのにかなり苦労した。ロシア人の名前に馴染みがないせいで登場人物を把握するのにも骨が折れたし、前半の難所と呼ばれている「大審問官」という章は、宗教になじみのない僕にはわりと修行のような心境だった。
ただ、そこを越えたら途端に物語の中に入っていくことができた。面白かったのは登場人物がどれも驚くほどに個性的で、一切の遠慮なしに喜怒哀楽をぶつけあうところだった。
読み終えた後、僕は巨大な虚無感に襲われた。
いわゆるカラマーゾフ・ロスというやつだろうか?
当初の予定では大長編の後には短い小説を読むつもりだった。フルコースの後のデザートみたいな感覚で。
それが今では再び壮大な物語に浸りたくてうずうずしていた。思考も冷静さを欠いていたのか、長ければ長いほど面白いに違いない、という謎の考えに取り憑かれていた。
あいにく部屋の本棚には僕が求めているような本はなかった。ちなみにカラマーゾフの兄弟は夏休み前日に図書室から全巻借りてきたものだった。
僕はインターネットで何冊か名作について調べた後、久しぶりに家を出て県立図書館に向かった。家の近くにも図書館の分室はあるのだけど、せっかくならと大きい方がいいと思ったのだった。大は小を兼ねる。長は短を兼ねる、みたいに。
しかし外に出た瞬間に僕は思い知らされた。今が夏の只中だということを。
ずっとクーラーの効いた部屋に引きこもっていたせいで感覚がおかしくなっていたのだけど、今年は例年にないほどの猛暑だったのだ。太陽から降り注ぐ光と、アスファルトの照り返しがダブルとなって、上下から挟んでグリルされているみたいだった。
本当は体のなまった体を動かすために徒歩にしたのだけど、暑さに健康を害される前にバス移動に切り替えた。車内は空調が効いていたものの、窓の外は風景が蜃気楼のように揺らめいていてゾッとした。
県立図書館はバス停から入り口が近かったため、消耗せずに中に入ることができた。ここの空調も快適で、入館ゲートをくぐる前からもう冷気で満たされていた。
中に入ると僕は早速本の探索に勤しんだ。
小説の名作は数あれど、今日見つけたいのは「とにかく長い」ものだ。
僕はまず海外文学の棚へ向かった。
国内外は問わないつもりだったけど、やはり『カラマーゾフの兄弟』のインパクトが強すぎたせいか、どうしてもそちら翻訳ものに気持ちが引かれていく。
僕は悩んだ末にトルストイの『アンナ・カレーニナ』と『戦争と平和』の二択に絞ることにした。正直、どちらもとっつきが悪かった。そして長い。
果たして読み切れるのだろうか?
でも長ければ長い本の方が読み終わった時に気持ちいいような気もするのだ。我ながら病気かもしれない、と苦笑した。
那由多先輩の姿を発見したのは、トルストイの本を何冊か手に取って吟味している時だった。
裏側の本棚が空になっていて、本を抜いた隙間から向こう側が見えた。
その先の机に那由多先輩が座っていた。
しばらく僕は見間違いだと思い込んでいた。
雰囲気も違うし、服装も異なってる。
でもその理由はあまりにも単純だった。制服ではなく私服だったからだ。
僕はすぐにそちらへ回り込もうと思った。図書室警察事件の後から顔を合わせていなかったので、ゆうに一ヶ月くらいぶりの再会だった。
が、手にしていた本を棚に戻している途中で僕は思い留まった。
那由多先輩が座っている席は閲覧用とは異なる学習スペースだった。そこで彼女は参考書を開き、真剣な面持ちで書き物をしていた。
那由多先輩は勉強のために図書館に来ているのだった。一方、僕は本を借りに来ただけだ。それも夏休みを満喫するためだけのために。
もちろん僕と那由多先輩では立場が違う。先輩が勉強しているからといって、僕が負い目を持つ必要はないことはわかっている。
それでも那由多先輩の前に出られなかった。
彼女の真剣な顔が年の差以上に大人に見えたからかもしれない。
僕はその場から離れるために本をすべて棚に戻すことにした。そもそも本の隙間から一方的に人を盗み見ていること自体がよくないことなのだ。
ところが最後の一冊を棚に戻そうとして、那由多先輩の姿が消えていることに気がついた。
僕は慌てて棚の裏に回った。
学習用スペースには参考書もノートも残されていなかった。
僕は素早く周りを見回すと、セキュリティゲートを通り抜け、そのまま建物の外へ出ていこうとする那由多先輩の後ろ姿が見えた。
僕はとっさに那由多先輩を追いかけようとした。が、職員と目が合って歩みを遅らせた。ここは老若男女が利用する県立図書館なのだ。マナーは大事だ。もちろん学校の図書室だろうと同じことだけれど。
僕は早すぎず、遅すぎず、周りから見咎められないギリギリのスピードでセキュリティゲートを目指した。まるで競歩に挑戦するみたいに。
ゲートを抜けた先はフリースペースになっていて、ベンチや自販機が設置されている。一通り見回したけれど先輩の姿はなかった。
となると外に出たとしか考えられない。出入り口は一つしかない。ただし問題は建物の外だ。右手は駐輪場。左手は公民館。正面はバス停。さらに車道を挟んだ向かい側にはコーヒーショップまである。行き先はいくらでもある。
せっかく那由多先輩の姿を見つけたのに。
思わず後悔の念が湧いてきたが、ちょっと冷静に考えてみたら変な気持ちになった。
いや、そもそも顔を合わせない方がいいと思っていなかっただろうか?
それなのにどうして反射的に追いかけようとしたのか。自分の行動がよくわからなかった。
「そんなところに立ってて暑くない? 肌をこんがり褐色に焼きたいのなら構わないけどさ」
突然、後ろから声をかけられた。振り返ると那由多先輩が立っていた。
「先輩? え、なんで後ろに?」
「キミはいつもわたしに背後を取られるよね、後輩くん。わたしがその気になったらキミの夏は終わっていたよ。そんなんでこれからエージェントとしてやっていけるのかな?」
「いえ、エージェントではないので問題はないかと」
「人を追う者は常に追われることを想定しないといけないんだよ。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているようにね」
「フリードリヒ?」
「ヴィルヘルム」
「ニーチェ」
「かく語りき」
「いや、かく語るのはツァラトゥストラですよ。……っていうより、いつの間に回り込んだんですか。全然気づきませんでしたよ」
「トイレに入っていたからだよ」
那由多先輩はフリースペースのトイレを指さした。セキュリティゲートを出てきた側からでは自動販売機のせいで微妙に死角になっていたのだった。
「……野暮なことを聞いて失礼しました」
「まったくだね。もっとも、キミが来るのがわかったから、身を隠すためだけに入ったんだけどさ」
「……もしかして僕が図書館の中にいる時から気づいていました?」
「そうだね。本の隙間からチラチラのぞき込んで、ストーカーかと思ったよ。後輩くんとはいえ、ちょっとあの行動は看過できなかったなあ。だから荷物をたたんで撤退したのに、まさか追ってくるなんてさ」
「……すいませんでした。勉強に集中しているみたいだったので、声をかけるかどうか迷ってしまったんです」
「冗談だって。それよりもこんな入口の外と中の微妙な境界線上に立っていないでさ、そこのベンチに腰を落ち着けて話そうよ」
那由多先輩はフリースペースを指さして言った。そこは図書館とは区分けされており、飲食も雑談が許可された可能なエリアになっているらしかった。
「飲み物、欲しい? けっこう久しぶりなんだし、たまにはおごってあげよう」
「え、でも悪いですよ。それくらい自分でも持ってますし」
「外はあんなに暑いんだから、わたしが先輩風を吹かして涼ませてあげるよ、後輩くん」
「それならスプライトでお願いします」
「じゃあ先に座ってて」
僕は言われた通りにベンチに向かった。
ちょうど空いているベンチは自販機に背を向けるように設置されていた。僕は深く考えずに座ったけれど、結果的にまた隙をさらすことになった。
「ひっ!」
突如、首筋に冷気が走って僕は立ち上がった。振り返ると先輩がスプライトの缶を手にして笑っていた。
「な、なにやってるんですか!」
「今って夏だよね。夏と言ったらお化け屋敷。要するにお化け屋敷のこんにゃくトラップ的な?」
「小学生じゃないんですから! あと最近は衛生上の都合から、こんにゃくの使用は控えられているらしいですよ!」
「へえ、そうなんだ。博識だね、後輩くん」
那由多先輩はベンチに座ると、隣の席を軽く叩きながら僕に座り直すように指示してきた。二の足を踏んでいたら「何もしないって」と促された。
僕はスプライトを受け取って先輩の隣に座った。蓋を取ると吹き出したりもしなかった。中はちゃんとしたスプライトで、美味しかった。
「それにしても本当に久しぶりな気がするね。気がするっていうより、実際に久しぶりなのか」
「図書室警察の事件以来ですから、一ヶ月ぶりくらいですね」
「そんなに経つんだ? 光陰矢の如しだ。ところで光陰の矢って、英語にするとライト・ダーク・アローってこと? この言葉を言った人、すごく中二病を煩わせてると思わない?」
「光陰ってのは時間のことです。時間は矢の如く、ってことです」
「ほおお。後輩くん。少し見ないうちに博覧強記になってない? 夏休みはどう過ごしてた? やっぱり読書?」
僕は返事に少しだけ躊躇したが、素直に頷いた。
「今日はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読み終わったところです」
「サマセット・モームが定めた世界十大小説の一つだね。やるじゃないか!」
先輩は身を乗り出して食いついてきた。細々とやっているSNSでは誰も反応しなかったので、僕は素直に嬉しくなった。
「先輩は読んだことあるんですか?」
「カラ兄? あるよ。そういえばわたしも去年の今頃だったかも。奇遇だね。ちなみにわたしはゾシマ長老が好き。誰よりも高潔でありながら、誰よりも早く腐るゾシマ長老。後輩くんは?」
僕は那由多先輩とカラ兄について大いに話した。
ここ最近、僕はずっと一人で読書を続けていた。
もちろんそれはそれで楽しいし、代えがたい個人的な体験だった。
でも那由多先輩と本の話をするのは読書体験を土台にして、空へ飛躍するような楽しみがあった。
こんな話をしてくれる人は他にいない。今さらながらその事実を思い知った。
「そういえば先輩の方はどういう夏休みを過ごしているんですか?」
いったんカラ兄の話題が落ち着いたので、僕は軽い気持ちで那由多先輩に訊ねた。他にもいくらでも本の話はできそうだったけれど、ちょっとした箸休めのつもりだった。
「あー、そうだね」
不意に那由多先輩の面持ちが変わった。
「簡潔に言うと勉強だね。うん」
勉強、という言葉で僕は身を固くした。
夏休み前日、司書の先生が言っていたことを思い出す。
「……そ、それはその、お疲れ様です」
図らずもギクシャクした言い方になってしまった。
すると那由多先輩は何かを思い出したみたいに「あ」と言って顔を上げた。
「そうだった。そういえばテスト最終日、図書室に行けなくて悪かったよ。手伝いにいった方がいいのはわかってたんだけど、ちょうどその日に全国模試の結果が返ってきてさ。その日のうちに先生にどうしても教えてもらいたい箇所があったから、職員室に入り浸っていたんだ」
「そうだったんですか」
「わたしが来なくて落胆したかな、後輩くんは?」
那由多先輩はニヤッと口元を吊り上げたが、いつもより控え目に見えた。
「あ、いえ。僕一人でもそれなりに手は足りましたので」
「あ、そう」
「でも、夏休み前っていつもより長く本を借りれるじゃないですか。だから先輩は普通に来るんだろうなっては思ってました」
「うん。本当はそうしたかったんだけどね。でも全国模試の結果を見て、現実と向き合わなきゃいけなくなってしまってね」
「そういえば先輩の志望大学ってどこなんですか?」
那由多先輩はあっさりと大学名を教えてくれた。ただ大学受験について知識のない僕は、それがどういうところで、どれくらい難しいところなのかはさっぱりつかめなかった。かろうじてわかったのは東京の大学ということだけだった。
「あ、全然わからないって顔してるね。エポケーって感じの顔だ」
「すいません。持ってるのが無駄知識ばかりで、有用な知識は全然なくて」
「仕方がないさ。受験生でもないんだからわからないのが普通だよ。ええと、簡潔に言うと外国語を学べる大学では国内トップクラスってところかな」
「先輩は外国語を勉強したいんですか? てっきり本が好きだから、日本語を極めたいのかと思ってました」
「日本語は好きさ。日常に根ざしているし、美しいとも思ってる。でも、なんていえばいいのかな。わたしは自分の生活圏にないものを外から持ってくることに興味があるみたいなんだ。例えば翻訳とか。それこそ後輩くんが読んだばかりの『カラマーゾフの兄弟』なんてまさにそれだよね。ロシア語から日本語に翻訳してくれた人がいたから、こんなに有名になって、時代まで越えて、わたしたちのところにまで届いている。どんなにすごい作品でも、それを変換する人がいないと伝わっていかない。そういうことをしたい。だから外国語を学びに行きたいんだ」
「……………………」
僕はしばらく言葉を発することができなかった。
「あれ? どうかした、後輩くん」
「……僕はそんなこと考えて読書をしたことは一度もありませんでした」
「ん? ごめん。声が小さくて聞こえない」
「……あ、いえ。なんでもないです」
これまで先輩と後輩なんてものは、一年早いか遅いかの違いでしかないと思っていた。
でも、今は年齢以上に大きな差があるような気がしてならない。
先輩は僕が思っていた以上に実は大人だった。
「あ、いつの間にか十七時を回ってたんだね」
おもむろに那由多先輩はスマホを見て言った。
「今日は久しぶりに後輩くんに敢えていい息抜きになったよ」
那由多先輩はそう言いながら僕の手からスプライトの空き缶を抜き取った。
「捨てておいてあげよう。次に会えるのは夏休み明けかな?」
既に夏休みは半分くらい過ぎていたから、それはたぶん妥当な計算だ。
でも、もしかしたらゆっくり話をできるのはこれが最後なのではないかと思った。
那由多先輩はつかみどころのない人ではあるけれど、ここぞという時は絶対に外さないクレバーな人だ。このまま勉強を積み重ね、艱難辛苦を乗り越え、その先にある第一志望の大学に合格するだろう。そして夢を実現させるための専門知識を深め、やがては世界へと飛躍していくのだ。そのビジョンが僕にはありありと浮かんだ。
先輩はいつの間にか背を向けていた。その背中があまりにも遠くに見えた。
気がついたら僕は先輩の背中を追って足を踏み出していた。
彼女は自販機の横に僕の空き缶を捨てようとしているところだった。
「待ってください!」
先輩は手を止めて僕へと振り返った。
「どうかしたのかな。もしかしてまだ残ってた、中身?」
「残ってません。でも、やっぱり自分で捨てようかと思って」
「え? 今にも捨てる一秒前とかだったんだけど」
「例えそうでも、先輩に捨てさせる手間はかけさせられません」
「あ、そう。よくわからないけど、後輩くんがそう言うのなら」
先輩は訝しげな顔をしながら空き缶を僕に渡してくれた。
自分でも何を言っているのかよくわかっていなかった。たぶん引き止める理由が欲しかったのだとは思う。
でも僕は次にもっと意味のわからないことを言った。
「自分で缶を捨てる代わりに、お願いを聞いてもらえないでしょうか?」
「お願い? 寝耳に水だね。でもいいよ。言ってみて」
「僕と花火大会に行ってください!」