26 最後の花火
文字数 3,323文字
「先輩! 那由多先輩!」
僕は暗闇の中を文字通り闇雲に走り回っていた。
先輩がどこにいるのか確信があったわけではない。
ただ幽霊が消える時は空の方へ上っていくという漠然としたイメージだけがあった。
そして屋上よりも高いところが裏手の山の方だったというだけだ。
かろうじて山道のようなものがあったけれど、相当な悪路の上に、暗くてほとんど視界が効かなかった。先へ進むほどに道端から飛び出した枝や葉が体に当たった。夏草が邪魔をする。
でも僕は足を止めなかった。
心が保つ限り山の上を目指した。先輩がどこにいるかわからなくても声が届くように。
不意に足が地面を空振るのを感じた。
直後、僕は顔から地面に突っ伏していた。
すぐに起き上がろうとしたのに力が入らなかった。どこかひねったのかもしれないが、感覚が麻痺してよくわからない。
(……先輩)
(……那由多先輩)
僕は声に出して先輩を呼んだ。つもりだったけれど、上手く声が出ていなかった。
でも呼びかけるのはやめなかった。
心の中だけでも僕は叫んだ。
先輩。僕はまだ先輩に言っていないことがあるんです。
だからまだ僕の前から消えないでください。あと少しだけ時間をください。
「わたしを呼ぶのは誰かな。キミかな、後輩くん?」
不意に後ろから声がして、僕は跳ねるように振り返った。
「――先輩っ!」
思わず声が裏返ったけれど、はっきりと喉から声が出た。
暗闇の中に那由多先輩が立っていた。
涙がこぼれそうになった。やっぱり先輩はまだいなくなっていなかったのだ。
「……ん? なんだこれ」
先輩が自分の格好を見て、訝しげにスカートの裾をつまんだ。
さっきまで浴衣姿だった先輩は、なぜか高校の制服姿になっていた。
「どういうことかな、後輩くん」
「いえ、僕に訊かれてもわかりませんが……」
「いや。十中八九、後輩くんのせいだよ、これは」
「なんでですか?」
「駅前で再会した時に考察したじゃないか。幽霊の姿は見ている人の認識が反映されるんだよ、きっと。現に今日は一日中、わたしは浴衣姿だったわけだし。ところがここにきて制服姿に戻るなんてさ。ひた隠しにしていた趣味が露出してしまったわけだね、後輩くんの」
「ちょっと待ってください。仮にその説が正しかったとしても、僕が変態みたいに言われるのは心外です。だって制服は学校で普段から見ていた姿じゃないですか」
「別に必死に言い訳しなくてもいいんだよ? 制服が好きなのは一般的な男子高校生としてはおかしなことじゃないし」
「いや、そんなことよりですね!」
またしてもいつものような会話のペースに巻き込まれそうになった。
でも今回ばかりは僕も焦っていたし、何より時間がないことはわかっていた。
「僕は先輩にまだ伝えていないことがあるんです!」
その時、大きな花火の音が光が届いた。
一発ずつ、ゆっくりと等間隔を開けて打ち上がっている。まるで最後を名残惜しむかのように。
「僕はずっと先輩に謝りたかったんです!」
花火の音響に負けないように僕は叫んだ。
那由多先輩は不思議そうな表情で首を傾げた。
「それは何にでかな、後輩くん?」
「すぐに先輩に会いに来なかったことです。こうして先輩に出会えるのなら、一年も経ってからじゃなくて、もっと早くこの町に来ていればよかったんです」
「ふうん。でもそれって謝るようなことかな。だって後輩くんは知らなかったんでしょ? わたしが幽霊になっているなんてさ。わたし自身、よくわかってなかったわけだし」
「幽霊がどうこうという話じゃないんです。僕はずっと先輩が死んだことから目を背けてきたんです。僕が事故のきっかけを作ったのに、それすら知らないフリして……」
「後輩くんが事故の原因? そんなことはないよ、全然。あれは偶然の不運。キミが責任を感じる必要はないよ。全然。皆無だよ」
「でも、もっと早く先輩に会いに来ていれば、先輩をずっと平成最後の夏に閉じ込めたままにしなくて済んだのに……」
「平成最後の夏、か」
そうつぶやくと、先輩は不意にフフッと笑った。
「な、なにがおかしいんですか?」
「いやね、まさか同じことを考えているとは思っていなくてさ」
「同じこと? 誰とですか?」
「キミも野暮な質問をするね、後輩くん。ここにわたしと後輩くん以外に誰かいるのかな?」
「……いない、ですけど」
「それなら答えは明確。今日一日、わたしも同じことを考えていたんだよ? 平成最後の夏にキミを閉じ込めたまま、なんじゃないかって」
那由多先輩の言葉は僕にとっては想定外だった。
「いや、意味がわかりません。なんで先輩が負い目を持つんですか?」
「だってさ、今はもう新しい元号になってるんでしょ? なのに後輩くんは全然前向きじゃないしさ、ずっとわたしのことでくねくね してるみたいだしさ、正直、心配になるじゃない。平成最後の夏から出られずにいるのはどっちかな?」
「それはせんぱ……」
「ううん。後輩くん。キミの方だよ?」
「でも、僕は……」
「だからさ、あの図書委員の後輩ちゃんだっけ? 彼女が現れた時はちょっと安心したんだよね。ああ、後輩くんはこれで大丈夫。ちゃんと新しい年を生きていけるんだな、って」
「……………………」
「そう思ってフェードアウトしようとしたんだよ。わたしにしては珍しく場の空気を読んで。なのにさ」
やれやれ、とばかりに那由多先輩は肩をすくめて見せた。
「最後の最後に幽霊らしく空に上がっていく途中で、見えちゃったんだよね。後輩くんが後輩ちゃんを振っちゃった現場を。なんで? ちょっと我の強そうな印象はあるけれど、引っ込み思案な後輩くんを引っ張っていってくれそうな子だったのに。キミにはああいう子が必要だと思うよ? 顔も可愛かったし。もちろん個人的な嗜好はあるだろうけど、客観的には悪くない相手だったんじゃないかな?」
「そんなところまで見ていたんですか!」
夏鈴さんに告白されたところは見られていたかもしれないと思っていた。でも僕が返事をした時には先輩は屋上にもういなかったから、こちらは見られていないと思い込んでいた。
「見ていた。悪いけど。俯瞰視点で上からね」
「しかも神の視点でですか!」
「いいじゃんか。見てしまったものはもうなかったことにはできないからね。で、質問を繰り返すようだけど、なんで?」
「え、なにがですか?」
「しらばっくれても無駄だよ。なんで後輩ちゃんを振ったの?」
「なんでって……」
先輩はいつものように僕をからかってくる。
花火がいつ終わるかもわからない、こんな時にも関わらず。
そう思ったけれども、那由多先輩の目は真剣なままだった。笑っているけれども目は僕を真っ直ぐに見つめていた。
不意に僕は気がついた。
今にも消えてしまいそうなのに先輩が僕をからかうのは決してふざけているからではない。それが先輩にとって一番大事なことだからだ。
本当に今さらだけれど、先輩が僕に求めていたのは謝罪の言葉なんかではなかったのだ。
それなら僕が伝えることはこれより他は一つもない。
「僕が好きなのは那由多先輩だからです!」
僕の言葉と重なるようにしてひときわ大きな花火が鳴った。
ちゃんと聞こえたのか不安になったけれど、那由多先輩の顔を見たら心配することはなかった。
那由多先輩は笑っていた。そしてそれはこれまでに見た先輩のどんな表情よりも優しさに溢れた笑顔だった。
「よく言えたね、後輩くん」
「な、なんですか、それ。こんな時まで先輩風を吹かせて」
「あ、ごめん。確かに先輩とか後輩とか、そういうのを間に挟む必要はなかったね」
「那由多先輩にしては珍しく素直に謝ってくれるんですね」
「うん。つい照れ隠しで言っちゃったものだからさ」
「え、どういうことですか?」
瞬間、那由多先輩は僕の耳元に顔を寄せて言った。
「だってわたしも、奏汰くん。キミのことが――」
瞬間、最後の花火が弾けて世界を覆った。
僕は暗闇の中を文字通り闇雲に走り回っていた。
先輩がどこにいるのか確信があったわけではない。
ただ幽霊が消える時は空の方へ上っていくという漠然としたイメージだけがあった。
そして屋上よりも高いところが裏手の山の方だったというだけだ。
かろうじて山道のようなものがあったけれど、相当な悪路の上に、暗くてほとんど視界が効かなかった。先へ進むほどに道端から飛び出した枝や葉が体に当たった。夏草が邪魔をする。
でも僕は足を止めなかった。
心が保つ限り山の上を目指した。先輩がどこにいるかわからなくても声が届くように。
不意に足が地面を空振るのを感じた。
直後、僕は顔から地面に突っ伏していた。
すぐに起き上がろうとしたのに力が入らなかった。どこかひねったのかもしれないが、感覚が麻痺してよくわからない。
(……先輩)
(……那由多先輩)
僕は声に出して先輩を呼んだ。つもりだったけれど、上手く声が出ていなかった。
でも呼びかけるのはやめなかった。
心の中だけでも僕は叫んだ。
先輩。僕はまだ先輩に言っていないことがあるんです。
だからまだ僕の前から消えないでください。あと少しだけ時間をください。
「わたしを呼ぶのは誰かな。キミかな、後輩くん?」
不意に後ろから声がして、僕は跳ねるように振り返った。
「――先輩っ!」
思わず声が裏返ったけれど、はっきりと喉から声が出た。
暗闇の中に那由多先輩が立っていた。
涙がこぼれそうになった。やっぱり先輩はまだいなくなっていなかったのだ。
「……ん? なんだこれ」
先輩が自分の格好を見て、訝しげにスカートの裾をつまんだ。
さっきまで浴衣姿だった先輩は、なぜか高校の制服姿になっていた。
「どういうことかな、後輩くん」
「いえ、僕に訊かれてもわかりませんが……」
「いや。十中八九、後輩くんのせいだよ、これは」
「なんでですか?」
「駅前で再会した時に考察したじゃないか。幽霊の姿は見ている人の認識が反映されるんだよ、きっと。現に今日は一日中、わたしは浴衣姿だったわけだし。ところがここにきて制服姿に戻るなんてさ。ひた隠しにしていた趣味が露出してしまったわけだね、後輩くんの」
「ちょっと待ってください。仮にその説が正しかったとしても、僕が変態みたいに言われるのは心外です。だって制服は学校で普段から見ていた姿じゃないですか」
「別に必死に言い訳しなくてもいいんだよ? 制服が好きなのは一般的な男子高校生としてはおかしなことじゃないし」
「いや、そんなことよりですね!」
またしてもいつものような会話のペースに巻き込まれそうになった。
でも今回ばかりは僕も焦っていたし、何より時間がないことはわかっていた。
「僕は先輩にまだ伝えていないことがあるんです!」
その時、大きな花火の音が光が届いた。
一発ずつ、ゆっくりと等間隔を開けて打ち上がっている。まるで最後を名残惜しむかのように。
「僕はずっと先輩に謝りたかったんです!」
花火の音響に負けないように僕は叫んだ。
那由多先輩は不思議そうな表情で首を傾げた。
「それは何にでかな、後輩くん?」
「すぐに先輩に会いに来なかったことです。こうして先輩に出会えるのなら、一年も経ってからじゃなくて、もっと早くこの町に来ていればよかったんです」
「ふうん。でもそれって謝るようなことかな。だって後輩くんは知らなかったんでしょ? わたしが幽霊になっているなんてさ。わたし自身、よくわかってなかったわけだし」
「幽霊がどうこうという話じゃないんです。僕はずっと先輩が死んだことから目を背けてきたんです。僕が事故のきっかけを作ったのに、それすら知らないフリして……」
「後輩くんが事故の原因? そんなことはないよ、全然。あれは偶然の不運。キミが責任を感じる必要はないよ。全然。皆無だよ」
「でも、もっと早く先輩に会いに来ていれば、先輩をずっと平成最後の夏に閉じ込めたままにしなくて済んだのに……」
「平成最後の夏、か」
そうつぶやくと、先輩は不意にフフッと笑った。
「な、なにがおかしいんですか?」
「いやね、まさか同じことを考えているとは思っていなくてさ」
「同じこと? 誰とですか?」
「キミも野暮な質問をするね、後輩くん。ここにわたしと後輩くん以外に誰かいるのかな?」
「……いない、ですけど」
「それなら答えは明確。今日一日、わたしも同じことを考えていたんだよ? 平成最後の夏にキミを閉じ込めたまま、なんじゃないかって」
那由多先輩の言葉は僕にとっては想定外だった。
「いや、意味がわかりません。なんで先輩が負い目を持つんですか?」
「だってさ、今はもう新しい元号になってるんでしょ? なのに後輩くんは全然前向きじゃないしさ、ずっとわたしのことで
「それはせんぱ……」
「ううん。後輩くん。キミの方だよ?」
「でも、僕は……」
「だからさ、あの図書委員の後輩ちゃんだっけ? 彼女が現れた時はちょっと安心したんだよね。ああ、後輩くんはこれで大丈夫。ちゃんと新しい年を生きていけるんだな、って」
「……………………」
「そう思ってフェードアウトしようとしたんだよ。わたしにしては珍しく場の空気を読んで。なのにさ」
やれやれ、とばかりに那由多先輩は肩をすくめて見せた。
「最後の最後に幽霊らしく空に上がっていく途中で、見えちゃったんだよね。後輩くんが後輩ちゃんを振っちゃった現場を。なんで? ちょっと我の強そうな印象はあるけれど、引っ込み思案な後輩くんを引っ張っていってくれそうな子だったのに。キミにはああいう子が必要だと思うよ? 顔も可愛かったし。もちろん個人的な嗜好はあるだろうけど、客観的には悪くない相手だったんじゃないかな?」
「そんなところまで見ていたんですか!」
夏鈴さんに告白されたところは見られていたかもしれないと思っていた。でも僕が返事をした時には先輩は屋上にもういなかったから、こちらは見られていないと思い込んでいた。
「見ていた。悪いけど。俯瞰視点で上からね」
「しかも神の視点でですか!」
「いいじゃんか。見てしまったものはもうなかったことにはできないからね。で、質問を繰り返すようだけど、なんで?」
「え、なにがですか?」
「しらばっくれても無駄だよ。なんで後輩ちゃんを振ったの?」
「なんでって……」
先輩はいつものように僕をからかってくる。
花火がいつ終わるかもわからない、こんな時にも関わらず。
そう思ったけれども、那由多先輩の目は真剣なままだった。笑っているけれども目は僕を真っ直ぐに見つめていた。
不意に僕は気がついた。
今にも消えてしまいそうなのに先輩が僕をからかうのは決してふざけているからではない。それが先輩にとって一番大事なことだからだ。
本当に今さらだけれど、先輩が僕に求めていたのは謝罪の言葉なんかではなかったのだ。
それなら僕が伝えることはこれより他は一つもない。
「僕が好きなのは那由多先輩だからです!」
僕の言葉と重なるようにしてひときわ大きな花火が鳴った。
ちゃんと聞こえたのか不安になったけれど、那由多先輩の顔を見たら心配することはなかった。
那由多先輩は笑っていた。そしてそれはこれまでに見た先輩のどんな表情よりも優しさに溢れた笑顔だった。
「よく言えたね、後輩くん」
「な、なんですか、それ。こんな時まで先輩風を吹かせて」
「あ、ごめん。確かに先輩とか後輩とか、そういうのを間に挟む必要はなかったね」
「那由多先輩にしては珍しく素直に謝ってくれるんですね」
「うん。つい照れ隠しで言っちゃったものだからさ」
「え、どういうことですか?」
瞬間、那由多先輩は僕の耳元に顔を寄せて言った。
「だってわたしも、奏汰くん。キミのことが――」
瞬間、最後の花火が弾けて世界を覆った。