23 告白
文字数 4,684文字
どんなに素晴らしい花火も、最初から最後まで休みなく花火が打ち上がるわけではない。それは打ち上げ本数や開催時間の都合ももちろんあるけれど、景観の問題もある。
「ただ今、上空に煙が残っています。煙が風で晴れるまで少々お待ちください」
打ち上げ会場の方からアナウンスが聞こえてきた。
ほとんど呼吸を忘れたように見ていた僕らは、そこで思い出したように息をついた。
もっともそれは僕らに限ったことではなかった。
いったん気持ちを落ち着けて周りを見てみると、屋上にはぽつぽつと人が散らばっていることに改めて気がついた。
マンションの住人なのか、夏彦みたいに特別に入れてもらっている人なのか。
みんなが知り合い同士というわけではないようで、お互いに距離を取るように場所を取っていた。
ただ花火を見た気持ちはみんな同じみたいで、口々に「すごかった」と繰り返している。
ふと思い出して夏彦の姿を探した。
屋上に上がるなり花火に見入ってしまい、すっかり礼を言うのを忘れていたのだ。
辺りを見回していくと、夏彦と夏鈴さんが一緒にいるのを発見した。
そういえば彼女にも謝らないといけないな、と思った時だった。
夏鈴さんが夏彦に向かって声を張り上げたのが聞こえてきた。
「はあ? なんでそれを、早く言わない、このバカ兄貴!」
直後、夏鈴さんは猛烈な勢いで振り返った。音を立てたように視線が合うと、まるで陸上部がスタートダッシュするみたいに駆け寄ってきた。そういえば中学が陸上部だったはずだ。
「センパイ! 待ってたッス! やっぱり来てくれたんスね!」
いきなり現行犯逮捕されるみたいに両手をつかまれた。
「おや?」
那由多先輩が目を丸くして声を上げた。
「おやおや、これはこれは?」
いや、これは、違うんですよ。
そう言いたかったけれど、目の前に夏鈴さんがいるので先輩に弁解するわけにもいかなかった。
困っていると、夏鈴さんはグイグイと手に力を込めてきた。
「さあ、さあさあさあ。センパイ。こんな端っこなんかにいないで、もっと前の方で一緒に見ましょう! せっかくこんなに広い場所なんですから、より近く、より前の方で見ないと損ッスよ、損! 大損!」
夏鈴さんの有無を言わさぬ力強さだった。虚を突かれたのもあるけれど、僕は思わずたたらを踏んで何歩か前に進んでしまった。
「おやおやおや」
最初は驚いていた様子の那由多先輩だったが、いつの間にか面白がっている口調に変わっていた。
「それが友人の妹の、後輩ちゃん? 昼に聞いた時にはただの顔見知りみたいな言い方だったのに、ものすごく気に入られているじゃないか。キミも隅に置けないね、後輩くん」
いや、この子はもともとこういうテンションなんですよ。
そう言いたかったけれど、夏鈴さんに腕をつかまれたままなので喋れない。
かといって急に独り言なんて口にしたら、さしもの夏鈴さんも不気味に思うだろう。下手したら今後の学校生活に支障をきたしかねない。
躊躇しているうちに僕はズルズルと引きずられていく。
「いや、ここは無理に抵抗しなくてもいいんじゃない?」
那由多先輩が真面目な声で言った。
「どうやらずっとキミが来るのを待っていたみたいだしさ、彼女。今後のことを考えて、学校での人間関係にも多少は配慮しておいた方がいいよ。ただでさえ友達が少ないんだからさ、後輩くんは」
でも、と僕は心の中で言いかけた。するとそれを読み取ったみたいに答えた。
「デモクラシーもデモクリストスもないよ。わたしはここで見てるから。ちょっとくらい後輩へのサービスしてきなよ。彼女にとってキミは先輩くんなんだからさ」
先輩から「先輩らしく振る舞え」と言われたようなものだった。そこまで言われると次第に抵抗している僕の方が駄々をこねているように思えてきた。
わかりました。僕は心の中で答えて、小さく頷いた。
先輩は僕を送り出すように手を振った。
夏鈴さんは僕を打ち上げ会場に一番近い方向に連れていった。
そこには夏彦の姿があったけど、夏鈴さんがまるでカラスでも扱うかのように追い払ってしまった。とことん不憫な兄だ。
「それにしてもセンパイ、駅前で姿をくらませて、いったいどこへ行ってたんですか?」
打ち上げ会場の方向を眺めていたら、夏鈴さんが出し抜けに訊いてきた。
「兄貴に問いただしても全然答えてくれないし、心配しすぎて病みそうだったッスよ」
「身勝手な行動ばかり取ってしまってごめん。本当に迷惑かけたと思ってる。夏鈴さんにも、夏彦にも」
悪いとは思っているけれども、事情を説明するわけにはいかない。
しかし夏鈴さんは納得してくれず、根掘り葉掘り追求をしてきた。
このままはぐらかすのは難しそうだ。僕は少し考えてから言った。
「実は駅の近くで昔の知り合いに会ってしまったんだよ。懐かしさのあまり、つい話し込んでしまったんだ」
「ずっとッスか?」
僕は頷いた。肝心なことは言ってないけど、嘘をついているわけではない。
「今まで、ずっと」
「あたしはセンパイと花火を見るのを楽しみにしてたんスよ?」
「ごめん。一緒に行くと言ったり、急に抜けたりして。行動に一貫性がなさすぎて」
「まあ、でも、戻ってきてくたからいいッス。それに懐かしい人と再会したのなら、ずっと話していたいってのは人情ッスからね。許すッスよ」
「……ありがとう」
ほどなくして打ち上げ会場の方からアナウンスが流れてきた。
「上空の煙が晴れてきましたので、次のプログラムに移ります。次はお待ちかね、大会提供エクストラ花火になります」
屋上にいる人たちが歓声を上げた。打ち上げ会場の方からも沸き立ったような声が伝わってきた。
「エクストラ花火って?」
素で疑問を口にしたら、夏鈴さんが驚きの声を上げた。
「知らないんスか、大会提供エクストラ花火を?」
僕が頷くと彼女は流暢に説明を始めた。
「大灯花火大会は色んな会社がそれぞれの花火を打ち上げる、言ってみれば競い合いの場なんスよ。運動部のインターハイみたいものッスね。でも、それだけじゃなく、お客さんを楽しませるために用意したのが、大会提供エクストラ花火ッス。これは各社が力を合わせて打ち上げるので、大会のメインイベントと言っても過言ではないッス。これを見ないと【新元号】最初の夏を満喫したことにならないッスよ!」
周りを見るとみんな屋上の手すりに並んで花火が再開するのを待ち受けていた。離れたところでは夏彦も無邪気な顔で空を見つめている。
そんなにすごいのなら、なおさら先輩と一緒に見ないと。
そう思って振り返ろうとした矢先、語気を強めたアナウンスが流れた。
「打ち上げの準備が整いました。それでは今から大会提供エクストラ花火、スタートです!」
「センパイ、前を見て。始まりま――」
夏鈴さんの声は途中で掻き消えた。
地上から十数本の炎が一斉に噴き上がった。
それらは夜空を斜めに切り裂き、さらに上空では大玉が炸裂した。
夜空は一気に照らされ、まるで昼間のような明るさを放つ。
会場から流れるメロディーに合わせ、時には穏やかに、時には激しく、花火はリズムを刻む。
花火は次々に放たれ、一瞬の光と音と引き換えに消えていく。
儚さを感じさせる間もないほど、無数の花火が重ねられてく。
無数の花火の炸裂と消滅が繰り返されるうち、空のみならず地上まで昼間のように照らし出されていく。
巨大な大玉が横一列に同時に舞い上がり、地を揺るがすように花開いた。
無数に舞った火の粉が散らばり、徐々に消えていく。
やげて地上に夜が戻った。
「……ッス」
隣で息を吸う音が聞こえた。
「スゴかったッスねー!」
夏鈴さんが止めていた息を一度にすべて吐き出すようにして言った。
地上の暗さは戻ったものの、空にはまだ白い煙が残っていた。耳もまだ残響で鼓膜が揺れているかのような感覚がする。
「……すごかった。確かに、本当に、すごかった」
僕は呆然としながら頷いた。我ながら全然まともな感想を言えていなかった。
でもそれは僕に限ったことでもなかった。
「そッスよね? やっぱりすごかったッスよね?」
夏鈴さんが熱に浮かされたように話しかけてきた。
「うん、すごく、すごかった」
「なんスか、センパイ。さっきからすごいってしか言ってないじゃないッスか」
「そう言われればそうなんだけど、すごいしか言えないんだ」
「図書委員長なのにその語彙力はヤバくないッスか?」
「うん、確かにヤバイ」
ヤバイとかスゴイとか言いながら僕らは笑い合った。
「どうッスか? 今日、見に来てよかったッスか?」
「うん、確かに来てよかった。感謝してる。すごく」
「マジッすか! そう言ってもらえると誘った甲斐があったッスよ。あたしだけじゃなく、打ち上げた花火師たちもさぞや報われるってもんスね」
「まるで大会の関係者みたいなことを言うんだね」
「そんな心境ッスね。だっていいものって推したくなるじゃないッスか」
ふと、打ち上げ会場の観客席に動きがあることに気がついた。会場は暗くて見通せないのだけど、屋台と投光器が置かれている辺りは僕らのいる屋上からでもはっきり見えるのだった。
「あれ? なんかみんな移動しているけど、今が最後の花火だった?」
「いいえ、もうちょっとだけ続くッスよ」
「それならどうしてもう帰り始めている人がいるんだろう?」
「たぶん帰りの混雑を避けたい人たちッスね。終わってからだと駅とか駐車場がすごく混むらしいんスよ」
人によって事情は異なるのだろうけど、完全に終わっていないうちに帰るのはもったいないように僕には思えた。
「あ、もしかしてセンパイも混まないうちに帰りたかったりするッスか?」
「いや。そんなことないよ。せっかくこんなすごい場所で見ることができているんだ。終わりまで見るつもりだよ」
その気持ちに偽りはなかった。ただ、最後の花火は那由多先輩と見届けるつもりでいた。
「センパイ!」
不意に夏鈴さんが声を上げた。それまで打って変わって緊張を帯びた声だった。
「どうかした?」
「……あ、あたしも」
「ん」
「あたしも、でっかい花火、打ち上げちゃっていいッスか?」
「え、どういうこと?」
手持ち花火でも持参してきているのだろうか?
でも、マンションの屋上で遊ぶのは危ない気がするけれど。
そんなお門違いなことを考えたりしていたら、夏鈴さんが言った。
「あたし、センパイのことが好きなんです。付き合ってください!」
「え?」
僕は自分でも間が抜けていると呆れるほど素っ頓狂な声を出した。
正直、自分に言われたことだとはすぐに理解することができなかった。
あまりにも唐突すぎる告白だったし、そもそも告白されたこと自体が僕にとっては初めての体験だったのだ。
僕は思わず周りを見回した。
自分でもその行動は謎だったけれど、上手い返答の仕方でも探そうとしたのかもしれない。
「…………?」
その時、僕は何かが足りないことに気がついた。
いや、むしろ気づくのが遅すぎた。
動悸が激しくなる。
僕は何度も屋上を見回した。でも結果は変わらなかった。
「……先輩?」
思わず言葉が漏れた。
屋上のどこを探しても、那由多先輩の姿は見当たらなかった。
「ただ今、上空に煙が残っています。煙が風で晴れるまで少々お待ちください」
打ち上げ会場の方からアナウンスが聞こえてきた。
ほとんど呼吸を忘れたように見ていた僕らは、そこで思い出したように息をついた。
もっともそれは僕らに限ったことではなかった。
いったん気持ちを落ち着けて周りを見てみると、屋上にはぽつぽつと人が散らばっていることに改めて気がついた。
マンションの住人なのか、夏彦みたいに特別に入れてもらっている人なのか。
みんなが知り合い同士というわけではないようで、お互いに距離を取るように場所を取っていた。
ただ花火を見た気持ちはみんな同じみたいで、口々に「すごかった」と繰り返している。
ふと思い出して夏彦の姿を探した。
屋上に上がるなり花火に見入ってしまい、すっかり礼を言うのを忘れていたのだ。
辺りを見回していくと、夏彦と夏鈴さんが一緒にいるのを発見した。
そういえば彼女にも謝らないといけないな、と思った時だった。
夏鈴さんが夏彦に向かって声を張り上げたのが聞こえてきた。
「はあ? なんでそれを、早く言わない、このバカ兄貴!」
直後、夏鈴さんは猛烈な勢いで振り返った。音を立てたように視線が合うと、まるで陸上部がスタートダッシュするみたいに駆け寄ってきた。そういえば中学が陸上部だったはずだ。
「センパイ! 待ってたッス! やっぱり来てくれたんスね!」
いきなり現行犯逮捕されるみたいに両手をつかまれた。
「おや?」
那由多先輩が目を丸くして声を上げた。
「おやおや、これはこれは?」
いや、これは、違うんですよ。
そう言いたかったけれど、目の前に夏鈴さんがいるので先輩に弁解するわけにもいかなかった。
困っていると、夏鈴さんはグイグイと手に力を込めてきた。
「さあ、さあさあさあ。センパイ。こんな端っこなんかにいないで、もっと前の方で一緒に見ましょう! せっかくこんなに広い場所なんですから、より近く、より前の方で見ないと損ッスよ、損! 大損!」
夏鈴さんの有無を言わさぬ力強さだった。虚を突かれたのもあるけれど、僕は思わずたたらを踏んで何歩か前に進んでしまった。
「おやおやおや」
最初は驚いていた様子の那由多先輩だったが、いつの間にか面白がっている口調に変わっていた。
「それが友人の妹の、後輩ちゃん? 昼に聞いた時にはただの顔見知りみたいな言い方だったのに、ものすごく気に入られているじゃないか。キミも隅に置けないね、後輩くん」
いや、この子はもともとこういうテンションなんですよ。
そう言いたかったけれど、夏鈴さんに腕をつかまれたままなので喋れない。
かといって急に独り言なんて口にしたら、さしもの夏鈴さんも不気味に思うだろう。下手したら今後の学校生活に支障をきたしかねない。
躊躇しているうちに僕はズルズルと引きずられていく。
「いや、ここは無理に抵抗しなくてもいいんじゃない?」
那由多先輩が真面目な声で言った。
「どうやらずっとキミが来るのを待っていたみたいだしさ、彼女。今後のことを考えて、学校での人間関係にも多少は配慮しておいた方がいいよ。ただでさえ友達が少ないんだからさ、後輩くんは」
でも、と僕は心の中で言いかけた。するとそれを読み取ったみたいに答えた。
「デモクラシーもデモクリストスもないよ。わたしはここで見てるから。ちょっとくらい後輩へのサービスしてきなよ。彼女にとってキミは先輩くんなんだからさ」
先輩から「先輩らしく振る舞え」と言われたようなものだった。そこまで言われると次第に抵抗している僕の方が駄々をこねているように思えてきた。
わかりました。僕は心の中で答えて、小さく頷いた。
先輩は僕を送り出すように手を振った。
夏鈴さんは僕を打ち上げ会場に一番近い方向に連れていった。
そこには夏彦の姿があったけど、夏鈴さんがまるでカラスでも扱うかのように追い払ってしまった。とことん不憫な兄だ。
「それにしてもセンパイ、駅前で姿をくらませて、いったいどこへ行ってたんですか?」
打ち上げ会場の方向を眺めていたら、夏鈴さんが出し抜けに訊いてきた。
「兄貴に問いただしても全然答えてくれないし、心配しすぎて病みそうだったッスよ」
「身勝手な行動ばかり取ってしまってごめん。本当に迷惑かけたと思ってる。夏鈴さんにも、夏彦にも」
悪いとは思っているけれども、事情を説明するわけにはいかない。
しかし夏鈴さんは納得してくれず、根掘り葉掘り追求をしてきた。
このままはぐらかすのは難しそうだ。僕は少し考えてから言った。
「実は駅の近くで昔の知り合いに会ってしまったんだよ。懐かしさのあまり、つい話し込んでしまったんだ」
「ずっとッスか?」
僕は頷いた。肝心なことは言ってないけど、嘘をついているわけではない。
「今まで、ずっと」
「あたしはセンパイと花火を見るのを楽しみにしてたんスよ?」
「ごめん。一緒に行くと言ったり、急に抜けたりして。行動に一貫性がなさすぎて」
「まあ、でも、戻ってきてくたからいいッス。それに懐かしい人と再会したのなら、ずっと話していたいってのは人情ッスからね。許すッスよ」
「……ありがとう」
ほどなくして打ち上げ会場の方からアナウンスが流れてきた。
「上空の煙が晴れてきましたので、次のプログラムに移ります。次はお待ちかね、大会提供エクストラ花火になります」
屋上にいる人たちが歓声を上げた。打ち上げ会場の方からも沸き立ったような声が伝わってきた。
「エクストラ花火って?」
素で疑問を口にしたら、夏鈴さんが驚きの声を上げた。
「知らないんスか、大会提供エクストラ花火を?」
僕が頷くと彼女は流暢に説明を始めた。
「大灯花火大会は色んな会社がそれぞれの花火を打ち上げる、言ってみれば競い合いの場なんスよ。運動部のインターハイみたいものッスね。でも、それだけじゃなく、お客さんを楽しませるために用意したのが、大会提供エクストラ花火ッス。これは各社が力を合わせて打ち上げるので、大会のメインイベントと言っても過言ではないッス。これを見ないと【新元号】最初の夏を満喫したことにならないッスよ!」
周りを見るとみんな屋上の手すりに並んで花火が再開するのを待ち受けていた。離れたところでは夏彦も無邪気な顔で空を見つめている。
そんなにすごいのなら、なおさら先輩と一緒に見ないと。
そう思って振り返ろうとした矢先、語気を強めたアナウンスが流れた。
「打ち上げの準備が整いました。それでは今から大会提供エクストラ花火、スタートです!」
「センパイ、前を見て。始まりま――」
夏鈴さんの声は途中で掻き消えた。
地上から十数本の炎が一斉に噴き上がった。
それらは夜空を斜めに切り裂き、さらに上空では大玉が炸裂した。
夜空は一気に照らされ、まるで昼間のような明るさを放つ。
会場から流れるメロディーに合わせ、時には穏やかに、時には激しく、花火はリズムを刻む。
花火は次々に放たれ、一瞬の光と音と引き換えに消えていく。
儚さを感じさせる間もないほど、無数の花火が重ねられてく。
無数の花火の炸裂と消滅が繰り返されるうち、空のみならず地上まで昼間のように照らし出されていく。
巨大な大玉が横一列に同時に舞い上がり、地を揺るがすように花開いた。
無数に舞った火の粉が散らばり、徐々に消えていく。
やげて地上に夜が戻った。
「……ッス」
隣で息を吸う音が聞こえた。
「スゴかったッスねー!」
夏鈴さんが止めていた息を一度にすべて吐き出すようにして言った。
地上の暗さは戻ったものの、空にはまだ白い煙が残っていた。耳もまだ残響で鼓膜が揺れているかのような感覚がする。
「……すごかった。確かに、本当に、すごかった」
僕は呆然としながら頷いた。我ながら全然まともな感想を言えていなかった。
でもそれは僕に限ったことでもなかった。
「そッスよね? やっぱりすごかったッスよね?」
夏鈴さんが熱に浮かされたように話しかけてきた。
「うん、すごく、すごかった」
「なんスか、センパイ。さっきからすごいってしか言ってないじゃないッスか」
「そう言われればそうなんだけど、すごいしか言えないんだ」
「図書委員長なのにその語彙力はヤバくないッスか?」
「うん、確かにヤバイ」
ヤバイとかスゴイとか言いながら僕らは笑い合った。
「どうッスか? 今日、見に来てよかったッスか?」
「うん、確かに来てよかった。感謝してる。すごく」
「マジッすか! そう言ってもらえると誘った甲斐があったッスよ。あたしだけじゃなく、打ち上げた花火師たちもさぞや報われるってもんスね」
「まるで大会の関係者みたいなことを言うんだね」
「そんな心境ッスね。だっていいものって推したくなるじゃないッスか」
ふと、打ち上げ会場の観客席に動きがあることに気がついた。会場は暗くて見通せないのだけど、屋台と投光器が置かれている辺りは僕らのいる屋上からでもはっきり見えるのだった。
「あれ? なんかみんな移動しているけど、今が最後の花火だった?」
「いいえ、もうちょっとだけ続くッスよ」
「それならどうしてもう帰り始めている人がいるんだろう?」
「たぶん帰りの混雑を避けたい人たちッスね。終わってからだと駅とか駐車場がすごく混むらしいんスよ」
人によって事情は異なるのだろうけど、完全に終わっていないうちに帰るのはもったいないように僕には思えた。
「あ、もしかしてセンパイも混まないうちに帰りたかったりするッスか?」
「いや。そんなことないよ。せっかくこんなすごい場所で見ることができているんだ。終わりまで見るつもりだよ」
その気持ちに偽りはなかった。ただ、最後の花火は那由多先輩と見届けるつもりでいた。
「センパイ!」
不意に夏鈴さんが声を上げた。それまで打って変わって緊張を帯びた声だった。
「どうかした?」
「……あ、あたしも」
「ん」
「あたしも、でっかい花火、打ち上げちゃっていいッスか?」
「え、どういうこと?」
手持ち花火でも持参してきているのだろうか?
でも、マンションの屋上で遊ぶのは危ない気がするけれど。
そんなお門違いなことを考えたりしていたら、夏鈴さんが言った。
「あたし、センパイのことが好きなんです。付き合ってください!」
「え?」
僕は自分でも間が抜けていると呆れるほど素っ頓狂な声を出した。
正直、自分に言われたことだとはすぐに理解することができなかった。
あまりにも唐突すぎる告白だったし、そもそも告白されたこと自体が僕にとっては初めての体験だったのだ。
僕は思わず周りを見回した。
自分でもその行動は謎だったけれど、上手い返答の仕方でも探そうとしたのかもしれない。
「…………?」
その時、僕は何かが足りないことに気がついた。
いや、むしろ気づくのが遅すぎた。
動悸が激しくなる。
僕は何度も屋上を見回した。でも結果は変わらなかった。
「……先輩?」
思わず言葉が漏れた。
屋上のどこを探しても、那由多先輩の姿は見当たらなかった。