21 花火
文字数 5,519文字
せっかくなのでどこかに座って焼き鳥を食べながら昼花火を見よう、という話になった。
ところが屋台のある通りは人が多くて、意外と腰を落ち着けられるような場所を見つけられなかった。
さらに通行人の量が増えているような気がした。
僕はふと思い立ってスマホで花火の公式サイトを見に行った。
タイムスケジュールを確認すると、昼花火が終わった十分後には本番の花火が始まることになっていた。
僕は今の時刻と照らし合わせた。それまであまり時間を気にしていなかったけれど、意外と余裕がないことに遅ればせながら気がついた。
「すいません。先輩。昼花火を見たいのもやまやまなんですが、ちょっと急いだ方がいいかもしれません」
「そうなの? あれ、そういえば夜の花火ってどこで見るんだっけ?」
ちゃんと考えていたわけではない。
そもそも先輩と再会できるとは思っていなかったし、行くとしても夏彦に頼りっきりだったのだ。
ちなみに打ち上げ会場は去年、夏彦がどうにかなると思って突撃したが、本当にどうにもならなかったそうだ。
結局、僕が盛っている選択肢は一つしかなかった。
「一年前に行こうとしていた場所に行こうかと思ってます」
「ああ、そういえば前にそんなこと言っていたっけね。ネットで見つけた穴場だっけ? そこは見晴らしはいいの?」
「たぶん、いいはずです。打ち上げ会場からちょっと離れたところに小さな山があるんですが、そこの中腹に物見台が残っているんだそうです。花火を下でなく横から見るような角度で見れるらしいんですよ」
「打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか、みたいな? でもちょっとおかしくないかな。そんなにいい場所なら混雑必死だと思うけど?」
「かなり古い施設らしくて、地域住民からも忘れられてるそうなんです。情報源の個人ブログ自体もけっこう古くて、見ている人もかなり少ないようでした」
「なるほどね。忘れられた場所に、忘れられた情報源か」
「ただ、もうちょっと歩くことになるんですが大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。後輩くんとならどこまでだって歩いてみせるから」
それに、と那由多先輩は続けた。
「帰りのことはたぶん考えなくてもいいはずだからね」
僕に気を遣わせまいとして言ったのかもしれない。
だから僕は気にしなかったフリをして、目的地への移動を開始した。
先輩も軽い足取りでついてきた。
でも、先輩の言葉は僕の中に確実に根を残してしまった。
いや、本当は僕もわかっていたのだ。ただ、考えないようにしていた。
この時間がずっと続くわけはない。
これはきっと一時的な夢のようなものなのだ。
(先輩はいつまでこうしていられるんですか?)
本当はそう訊ねたかったけれど、口に出した途端に夢のようなこの世界が崩れてしまいそうな気がしてならなかった。
僕は定期的にスマホの地図を見ながら道を進んだ。
いつしか僕らの進行方向とは会場から逸れていて、徐々に周りに人が見られなくなってきた。
大きな橋を渡る時には、僕らの歩みは完全に他の人とは真逆になった。
いつしか昼花火は終わっており、さっきまで青かったはずの空は、暗い藍色へと変容しつつあった。
「間に合いそう?」
「地図によればこの通りの突き当りのはずなんですが……」
急激に広がってきた暗闇によって町並みのほとんどが覆い隠されてしまっていた。街灯のみが点々と続いていたが、間隔が広すぎて距離感が上手くつかめなかった。
もしかして打ち上げ時間に間に合わないのではないだろうか。
そう思ったら途端、気持ちが急に逸り出した。
「ちょ、ちょっと待ってよ、後輩くん。早いって」
ハッとして振り返ると、先輩との距離が数メートルほど開いていた。
僕は慌てて先輩のところに駆け戻った。
「いくらわたしが幽霊でも、身体能力は生前のままなんだからさ」
「す、すみません。そろそろ始まるかと思ったら足が動いてしまって」
「焦らなくていいんだよ。テストの開始時間とかじゃないんだからさ」
「そ、それはわかってますけど……」
「確かにわたしだって花火はちゃんと見たいけどさ。でも、目的と手段を混ぜちゃいけないよ。わたしはキミと花火が見られるのなら別にどこからでも……って、あれ?」
那由多先輩が話の途中で首を傾げた。目を細めて僕の後方を見つめている。
僕は彼女の視線を追って振り返った。
辺りは真っ暗で、彼女の視線の先には黒い壁がそびえているようにしか見えなかった。
黒い壁? 壁?
僕が探していたのは山の中腹にあるはずの物見台だ。
それが壁しか見えないというのはどういうことだろうか?
「後輩くん。これは建物だよ。マンションだ」
「マンション?」
僕は驚いて聞き返した。
人間の目というものはおかしなもので、ずっと見えなかったものが、言われた途端に見えてきたりする。それこそ認識が世界を作るかのように。
ずっと正面を覆っていた暗闇だと思っていたのは、先輩の言うように建物の外壁だった。
「で、でも、ネットの地図によるとここには物見台があるはずなんです」
改めてスマホを確認するが、確かに物見台が地図上に掲載されている。
「ちょっと見せて」
那由多先輩が僕の肩越しにスマホを覗き込んできた。
「確かにそうだね。あ、もしかして新築マンションなんじゃない? 地図の更新が追いついていないとか」
「え、そんなことって……」
ありえない、と言いそうになった。でも、現に目の前には建物が存在している。
僕は諦めきれずに周囲を彷徨った。するとマンションの名前を記した看板を見つけた。スマホで検索してみると、今年の夏に完成したものであることがわかった。
「……去年のうちに………れば」
「え、なんだって?」
「す、すいません。なんでもないです」
僕は先輩には謝った後、心の中でつぶやいた。
去年のうちに来ていれば、マンションはまだ建っていなかっただろう。物見台だって残っていたかもしれない。
どこまで間が悪いのか、僕という人間は。
顧みれば僕はいつだってそうだった。
一年前、改札に鞄の紐を引っ掛けなければ先輩とはぐれることもなかった。
はぐれなければ先輩と大灯駅で待ち合わせをすることもなかったし、彼女が事故に巻き込まれることだってなかったはずだ。
そもそも先輩を花火に誘わなければ、彼女は今頃志望していた大学に進み、自分の夢を今まさに追っていたかもしれないのだ。
「後輩くん。そんなに思いつめなくてもいいんだよ」
先輩が優しく声をかけてくれた。
でも僕にとってはそれが余計に辛かった。
どうにかして先輩に絶好の場所で花火を見せたかった。
だって先輩は今日という日に花火が見れなければ、永久にその機会に恵まれないはずだから。
僕は悪あがきをするように周囲を見回した。
しかし近辺は背の高い住宅や電柱に囲まれていて見通しが悪かった。
僕にできることはもう残っていないのだろうか。
必死で考えた末に行き着いたのは夏彦だった。
彼が用意した観覧場所にどうにかしてたどり着けば、開始時間には遅れたとしても、見晴らしのいいところから花火を見せることができるのではないだろうか。
もちろん虫のいい話だというのはわかっている。
今日、僕は夏彦に迷惑をかけっぱなしだった。大灯駅まで同行させてもらった上、せっかくの誘いを受けた直後に蹴ったりして、薄情にもほどがある。
それがここに来て、やっぱり特等席に同席させて欲しいなんて言っていいのだろうか。あまりにも厚顔無恥に過ぎる。
でも、夏彦は言っていた。いつでもいいから連絡してこい、と。
「いつでもってのはいつでもだからな」
彼の言葉が僕の背中を押す。
可能性が残っている以上、僕は試みなければいけないと思った。だって先輩といられるのはたぶん今日だけ、いや、たぶん花火の間だけだと思うから。
僕は意を決してスマホを取り出した。
しかし画面を見た瞬間、地面が崩れて足場が少ししか残らなかったような感覚に陥った。
バッテリーが15パーセントを切っていた。
こんなに少なくなるまで外でスマホを使ったのは初めてのことかもしれない。
僕は通話をかけるかどうか迷った。いつぞや夏彦から聞いたところによれば、通話はかなりバッテリーを食うらしい。
肝心な時に連絡が取れなくなったら困る。僕はバッテリー消費を抑えるために、夏彦に「今どこにいる?」と簡潔なメッセージを送った。
夏彦からのレスポンスは早かった。しかし想定外なことに彼は通話をかけてきたのだった。
僕は慌てたけれども、夏彦はそんな事情は知らない。
呼び出し音は鳴り続けた。いっそ通話を取って、素早くやりとりをした方がいいだろうか。
とはいえどちらにしろ結果は同じだったかもしれない。
通話が止まった。切れたのかと思ったけれど、画面も真っ暗になっていた。バッテリーが切れたのだった。
スマホはシステムを最低限維持するために、バッテリーがゼロになる前に使えなくなることがある、といつぞやネットで見たことを思い出した。まさかこんなに早いとは思わなかったけれども。
「……後輩くん?」
那由多先輩が屈み込んで、下から僕の顔を見上げてきた。
どうやら僕は気づかないうちに頭を低くして項垂れていたらしい。
僕は先輩の視線が受け止められなくて、思わず顔を背けた。
「……すいません。最後に宛てがあったんですが、それも失敗しました。僕はいつもこうなんです。ことごとくタイミングが悪いんです。あとちょっとだけ行動が早ければなんとかなったかもしれないのに。いつもそんなのばっかりなんです」
「確かにいつもそうだね、後輩くんは」
流石に先輩も呆れたのだろう。僕は「はい」と頷いた。直後、先輩は「違うよ!」と語調を強めて言った。
「なんでも自分のせいにしようとするところがだよ!」
僕は訝しげに那由多先輩を見た。彼女は珍しく眉をひそめていた。どうやら彼女は怒っているらしかった。
「だいたい後輩くんは自意識過剰なんだよ。ぜんぶ自分のせい? 何言ってるんだろうね。タイミングが悪いのは周り。世界の方だよ」
「……世界?」
「そう。急にバッテリー切れを起こすスマホとか、後輩くんの鞄を引っ掛けた改札とかね」
「……で、でも」
「でもじゃないよ。デモクラシーもデモクリトスも関係ないよ!」
「あ、いや、デモクラシーやデモクリトスこそ関係ないと思うんですけど。あとデモクリストスってギリシアの哲学者でいいんでしたっけ?」
「そう。原子論の提唱者」
脱輪事故を起こしそうなほどの脱線ぶりに戸惑いつつも、僕はどうにか話を戻した。
「と、とにかく、先輩は花火を見たがっていたってことに変わりはないじゃないですか」
「うん。それは否定しないね」
「それなのに僕は先輩にちゃんと花火を見せられそうにないんです。確かに不運に見舞われはしましたけど、だいたいは僕のせいですよ」
「いいや。花火は見れるうよ。この辺りならどこでだって」
「会場の近くですから、見れないことはないでしょうけど。でも、せっかくここまで来たのに、全然場所がよくないんですよ。僕がもっと上手く立ち回れれば、もっといい場所が全然あったはずなのに……」
「ねえ、後輩くん。誰が絶好の場所でないと花火を見たくないって言った?」
「……え?」
不意に根本的な問いかけをされて、僕は一瞬呆けてしまった。
「でも、先輩はそのために幽霊になってまで……」
「例えばテストって何? 100点を取ることが目的で、それ以外は駄目なの? 違うよね。テストの目的は学力がどれくらいか計ること。間違ってる?」
「間違っては、いないです」
「じゃあ花火は? 完璧な場所で見れなかったら駄目なの?」
「違い、ます」
「それならいいじゃないか。もちろんいいところで見れるに越したことはないけど、現実は理想ではないんだからさ。多少の瑕疵くらい目をつむろう。というかそもそもこんなこと、瑕疵ですらないよ」
「…………」
「そもそもわたしはもうわりと満足しているんだよね。後輩くんががんばってわたしにより良い花火を見せようとがんばってくれたから。その心意気はありがたいし、大いに好感を持っているよ」
「………………」
「わたしは後輩くんと一緒に花火が見れればそれでいいんだよ?」
「…………………………」
考えてみれば大灯の花火を提案したのは僕の方で、先輩が指定したわけではない。場所だって僕がそこがいいと決めただけだ。
僕はいったい誰のためにがんばっていたのだろう。自分のためだったのか?
呆然と立ちすくんでいたら、突如、大気が引き裂かれるようにわなないた。
一発目の花火が上がったのだ。
僕と先輩はとっさに音と光の方を見上げた。
それはまるでスローモーションのように上昇していき、パッと弾け、放射状に鮮やかな光を花開いた。
「ほら、キレイじゃん」
那由多先輩が僕に笑いかけてきた。
「…………」
僕は永久に返事ができないのではないかと思った。
花火の迫力と、先輩の嬉しそうな顔が、僕からしばらく言葉を奪っていた。
最初の一発を皮切りに、花火は次々に打ち上げられていった。
あいにく建物や電柱に阻まれて見切れてしまうことも多かった。
でも、そんなことはどうでもよくなるくらいに花火は輝いていた。
ところが屋台のある通りは人が多くて、意外と腰を落ち着けられるような場所を見つけられなかった。
さらに通行人の量が増えているような気がした。
僕はふと思い立ってスマホで花火の公式サイトを見に行った。
タイムスケジュールを確認すると、昼花火が終わった十分後には本番の花火が始まることになっていた。
僕は今の時刻と照らし合わせた。それまであまり時間を気にしていなかったけれど、意外と余裕がないことに遅ればせながら気がついた。
「すいません。先輩。昼花火を見たいのもやまやまなんですが、ちょっと急いだ方がいいかもしれません」
「そうなの? あれ、そういえば夜の花火ってどこで見るんだっけ?」
ちゃんと考えていたわけではない。
そもそも先輩と再会できるとは思っていなかったし、行くとしても夏彦に頼りっきりだったのだ。
ちなみに打ち上げ会場は去年、夏彦がどうにかなると思って突撃したが、本当にどうにもならなかったそうだ。
結局、僕が盛っている選択肢は一つしかなかった。
「一年前に行こうとしていた場所に行こうかと思ってます」
「ああ、そういえば前にそんなこと言っていたっけね。ネットで見つけた穴場だっけ? そこは見晴らしはいいの?」
「たぶん、いいはずです。打ち上げ会場からちょっと離れたところに小さな山があるんですが、そこの中腹に物見台が残っているんだそうです。花火を下でなく横から見るような角度で見れるらしいんですよ」
「打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか、みたいな? でもちょっとおかしくないかな。そんなにいい場所なら混雑必死だと思うけど?」
「かなり古い施設らしくて、地域住民からも忘れられてるそうなんです。情報源の個人ブログ自体もけっこう古くて、見ている人もかなり少ないようでした」
「なるほどね。忘れられた場所に、忘れられた情報源か」
「ただ、もうちょっと歩くことになるんですが大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。後輩くんとならどこまでだって歩いてみせるから」
それに、と那由多先輩は続けた。
「帰りのことはたぶん考えなくてもいいはずだからね」
僕に気を遣わせまいとして言ったのかもしれない。
だから僕は気にしなかったフリをして、目的地への移動を開始した。
先輩も軽い足取りでついてきた。
でも、先輩の言葉は僕の中に確実に根を残してしまった。
いや、本当は僕もわかっていたのだ。ただ、考えないようにしていた。
この時間がずっと続くわけはない。
これはきっと一時的な夢のようなものなのだ。
(先輩はいつまでこうしていられるんですか?)
本当はそう訊ねたかったけれど、口に出した途端に夢のようなこの世界が崩れてしまいそうな気がしてならなかった。
僕は定期的にスマホの地図を見ながら道を進んだ。
いつしか僕らの進行方向とは会場から逸れていて、徐々に周りに人が見られなくなってきた。
大きな橋を渡る時には、僕らの歩みは完全に他の人とは真逆になった。
いつしか昼花火は終わっており、さっきまで青かったはずの空は、暗い藍色へと変容しつつあった。
「間に合いそう?」
「地図によればこの通りの突き当りのはずなんですが……」
急激に広がってきた暗闇によって町並みのほとんどが覆い隠されてしまっていた。街灯のみが点々と続いていたが、間隔が広すぎて距離感が上手くつかめなかった。
もしかして打ち上げ時間に間に合わないのではないだろうか。
そう思ったら途端、気持ちが急に逸り出した。
「ちょ、ちょっと待ってよ、後輩くん。早いって」
ハッとして振り返ると、先輩との距離が数メートルほど開いていた。
僕は慌てて先輩のところに駆け戻った。
「いくらわたしが幽霊でも、身体能力は生前のままなんだからさ」
「す、すみません。そろそろ始まるかと思ったら足が動いてしまって」
「焦らなくていいんだよ。テストの開始時間とかじゃないんだからさ」
「そ、それはわかってますけど……」
「確かにわたしだって花火はちゃんと見たいけどさ。でも、目的と手段を混ぜちゃいけないよ。わたしはキミと花火が見られるのなら別にどこからでも……って、あれ?」
那由多先輩が話の途中で首を傾げた。目を細めて僕の後方を見つめている。
僕は彼女の視線を追って振り返った。
辺りは真っ暗で、彼女の視線の先には黒い壁がそびえているようにしか見えなかった。
黒い壁? 壁?
僕が探していたのは山の中腹にあるはずの物見台だ。
それが壁しか見えないというのはどういうことだろうか?
「後輩くん。これは建物だよ。マンションだ」
「マンション?」
僕は驚いて聞き返した。
人間の目というものはおかしなもので、ずっと見えなかったものが、言われた途端に見えてきたりする。それこそ認識が世界を作るかのように。
ずっと正面を覆っていた暗闇だと思っていたのは、先輩の言うように建物の外壁だった。
「で、でも、ネットの地図によるとここには物見台があるはずなんです」
改めてスマホを確認するが、確かに物見台が地図上に掲載されている。
「ちょっと見せて」
那由多先輩が僕の肩越しにスマホを覗き込んできた。
「確かにそうだね。あ、もしかして新築マンションなんじゃない? 地図の更新が追いついていないとか」
「え、そんなことって……」
ありえない、と言いそうになった。でも、現に目の前には建物が存在している。
僕は諦めきれずに周囲を彷徨った。するとマンションの名前を記した看板を見つけた。スマホで検索してみると、今年の夏に完成したものであることがわかった。
「……去年のうちに………れば」
「え、なんだって?」
「す、すいません。なんでもないです」
僕は先輩には謝った後、心の中でつぶやいた。
去年のうちに来ていれば、マンションはまだ建っていなかっただろう。物見台だって残っていたかもしれない。
どこまで間が悪いのか、僕という人間は。
顧みれば僕はいつだってそうだった。
一年前、改札に鞄の紐を引っ掛けなければ先輩とはぐれることもなかった。
はぐれなければ先輩と大灯駅で待ち合わせをすることもなかったし、彼女が事故に巻き込まれることだってなかったはずだ。
そもそも先輩を花火に誘わなければ、彼女は今頃志望していた大学に進み、自分の夢を今まさに追っていたかもしれないのだ。
「後輩くん。そんなに思いつめなくてもいいんだよ」
先輩が優しく声をかけてくれた。
でも僕にとってはそれが余計に辛かった。
どうにかして先輩に絶好の場所で花火を見せたかった。
だって先輩は今日という日に花火が見れなければ、永久にその機会に恵まれないはずだから。
僕は悪あがきをするように周囲を見回した。
しかし近辺は背の高い住宅や電柱に囲まれていて見通しが悪かった。
僕にできることはもう残っていないのだろうか。
必死で考えた末に行き着いたのは夏彦だった。
彼が用意した観覧場所にどうにかしてたどり着けば、開始時間には遅れたとしても、見晴らしのいいところから花火を見せることができるのではないだろうか。
もちろん虫のいい話だというのはわかっている。
今日、僕は夏彦に迷惑をかけっぱなしだった。大灯駅まで同行させてもらった上、せっかくの誘いを受けた直後に蹴ったりして、薄情にもほどがある。
それがここに来て、やっぱり特等席に同席させて欲しいなんて言っていいのだろうか。あまりにも厚顔無恥に過ぎる。
でも、夏彦は言っていた。いつでもいいから連絡してこい、と。
「いつでもってのはいつでもだからな」
彼の言葉が僕の背中を押す。
可能性が残っている以上、僕は試みなければいけないと思った。だって先輩といられるのはたぶん今日だけ、いや、たぶん花火の間だけだと思うから。
僕は意を決してスマホを取り出した。
しかし画面を見た瞬間、地面が崩れて足場が少ししか残らなかったような感覚に陥った。
バッテリーが15パーセントを切っていた。
こんなに少なくなるまで外でスマホを使ったのは初めてのことかもしれない。
僕は通話をかけるかどうか迷った。いつぞや夏彦から聞いたところによれば、通話はかなりバッテリーを食うらしい。
肝心な時に連絡が取れなくなったら困る。僕はバッテリー消費を抑えるために、夏彦に「今どこにいる?」と簡潔なメッセージを送った。
夏彦からのレスポンスは早かった。しかし想定外なことに彼は通話をかけてきたのだった。
僕は慌てたけれども、夏彦はそんな事情は知らない。
呼び出し音は鳴り続けた。いっそ通話を取って、素早くやりとりをした方がいいだろうか。
とはいえどちらにしろ結果は同じだったかもしれない。
通話が止まった。切れたのかと思ったけれど、画面も真っ暗になっていた。バッテリーが切れたのだった。
スマホはシステムを最低限維持するために、バッテリーがゼロになる前に使えなくなることがある、といつぞやネットで見たことを思い出した。まさかこんなに早いとは思わなかったけれども。
「……後輩くん?」
那由多先輩が屈み込んで、下から僕の顔を見上げてきた。
どうやら僕は気づかないうちに頭を低くして項垂れていたらしい。
僕は先輩の視線が受け止められなくて、思わず顔を背けた。
「……すいません。最後に宛てがあったんですが、それも失敗しました。僕はいつもこうなんです。ことごとくタイミングが悪いんです。あとちょっとだけ行動が早ければなんとかなったかもしれないのに。いつもそんなのばっかりなんです」
「確かにいつもそうだね、後輩くんは」
流石に先輩も呆れたのだろう。僕は「はい」と頷いた。直後、先輩は「違うよ!」と語調を強めて言った。
「なんでも自分のせいにしようとするところがだよ!」
僕は訝しげに那由多先輩を見た。彼女は珍しく眉をひそめていた。どうやら彼女は怒っているらしかった。
「だいたい後輩くんは自意識過剰なんだよ。ぜんぶ自分のせい? 何言ってるんだろうね。タイミングが悪いのは周り。世界の方だよ」
「……世界?」
「そう。急にバッテリー切れを起こすスマホとか、後輩くんの鞄を引っ掛けた改札とかね」
「……で、でも」
「でもじゃないよ。デモクラシーもデモクリトスも関係ないよ!」
「あ、いや、デモクラシーやデモクリトスこそ関係ないと思うんですけど。あとデモクリストスってギリシアの哲学者でいいんでしたっけ?」
「そう。原子論の提唱者」
脱輪事故を起こしそうなほどの脱線ぶりに戸惑いつつも、僕はどうにか話を戻した。
「と、とにかく、先輩は花火を見たがっていたってことに変わりはないじゃないですか」
「うん。それは否定しないね」
「それなのに僕は先輩にちゃんと花火を見せられそうにないんです。確かに不運に見舞われはしましたけど、だいたいは僕のせいですよ」
「いいや。花火は見れるうよ。この辺りならどこでだって」
「会場の近くですから、見れないことはないでしょうけど。でも、せっかくここまで来たのに、全然場所がよくないんですよ。僕がもっと上手く立ち回れれば、もっといい場所が全然あったはずなのに……」
「ねえ、後輩くん。誰が絶好の場所でないと花火を見たくないって言った?」
「……え?」
不意に根本的な問いかけをされて、僕は一瞬呆けてしまった。
「でも、先輩はそのために幽霊になってまで……」
「例えばテストって何? 100点を取ることが目的で、それ以外は駄目なの? 違うよね。テストの目的は学力がどれくらいか計ること。間違ってる?」
「間違っては、いないです」
「じゃあ花火は? 完璧な場所で見れなかったら駄目なの?」
「違い、ます」
「それならいいじゃないか。もちろんいいところで見れるに越したことはないけど、現実は理想ではないんだからさ。多少の瑕疵くらい目をつむろう。というかそもそもこんなこと、瑕疵ですらないよ」
「…………」
「そもそもわたしはもうわりと満足しているんだよね。後輩くんががんばってわたしにより良い花火を見せようとがんばってくれたから。その心意気はありがたいし、大いに好感を持っているよ」
「………………」
「わたしは後輩くんと一緒に花火が見れればそれでいいんだよ?」
「…………………………」
考えてみれば大灯の花火を提案したのは僕の方で、先輩が指定したわけではない。場所だって僕がそこがいいと決めただけだ。
僕はいったい誰のためにがんばっていたのだろう。自分のためだったのか?
呆然と立ちすくんでいたら、突如、大気が引き裂かれるようにわなないた。
一発目の花火が上がったのだ。
僕と先輩はとっさに音と光の方を見上げた。
それはまるでスローモーションのように上昇していき、パッと弾け、放射状に鮮やかな光を花開いた。
「ほら、キレイじゃん」
那由多先輩が僕に笑いかけてきた。
「…………」
僕は永久に返事ができないのではないかと思った。
花火の迫力と、先輩の嬉しそうな顔が、僕からしばらく言葉を奪っていた。
最初の一発を皮切りに、花火は次々に打ち上げられていった。
あいにく建物や電柱に阻まれて見切れてしまうことも多かった。
でも、そんなことはどうでもよくなるくらいに花火は輝いていた。