3 図書室警察
文字数 6,234文字
「奏汰、お前、最近あんまり昼休みに教室にいなくないか?」
昼休み時間、自分の席で昼食を取っていると榎本夏彦 が声をかけてきた。彼は一年生の時からのクラスメイトで、僕が気さくに話ができる数少ない友人の一人だ。
「ああ。ちょっと委員会の仕事に駆り出されることが増えてしまって」
夏彦はそれを聞くと眉をひそめた。
「は? お前って確か図書委員だったよな? そんなに忙しいものなのか? 楽な仕事だから率先して立候補したんじゃなかったのか?」
夏彦は基本的にいい奴なのだけど、思ったことをやや率直に口に出しすぎる傾向にある。
「外からはそう見えるかもしれないけど、蓋を開けてみるとそれなりに仕事はあるんだよ」
「ふうん。そんなものなのか」
「そういうものなんだよ。……ただ、最近ちょっと委員会の先輩に目をつけられてしまって、思ったよりも仕事が多いってのは事実だけど。あと、無断でサボる人も少なくないから、その穴埋めとかね」
「なんだそれ。ブラック企業ならぬ、ブラック委員会じゃないか」
「でも、まあ、好きで入った図書委員だから。それに仕事自体も決して嫌いじゃないんだ」
「いや、よくないだろ。好きだからって過剰に仕事を押し付けられていいわけがない。しっかり休むことは国民の義務なんだぜ」
「なんか過剰に慮ってくれるようだけど、何か理由があるんじゃないか?」
夏彦は音もなくスマホを取り出して画面に表示させた動画を僕に見せてきた。
「オカルティック・スタンド・オーダー?」
オカルトにまつわるキャラクターを集めて戦わせるゲームアプリの紹介動画だった。美麗なグラフィック。個性的なキャラクター。迫力のあるバトル。どこかで聞いたことのあるキャッチコピーが続き、最後に「今始めるとSSS確定ガチャが引ける!」と締めくくられていた。
「寸評。新規性を感じない」
口ではくさしておいたもののの、夏彦がそのアプリを紹介してきた理由はわかっていた。
彼はオカルト研究会、通称オカ研に所属している。言うまでもなくオカルトに目がない。だから一見して特徴を感じられないアプリにも、オカルトというだけで真っ先に手を出してしまうのだ。
「あいにくお前の感想は求めていないんだ。とにかくインストールして俺と通信してくれ。そうすると確定ガチャが無料で倍回せるようになるんだ」
「まあ、そんなことだろうと思ったけどさ」
「別に構わないだろ? これを機にお前もオカルト好きになれば、結果的におまえのためにもなるわけなんだから」
まったく呆れなかったわけではないけれど、多少なら友人のよしみでつきやってやらないこともない。どうせ無料だし、つまらなかったら削除すればいいのだ。
僕は自分のスマホを取り出し、ストアに行ってアプリのインストールを開始した。ダウンロード完了まで三分とのことだった。
ところが半分ほど進んだところでスマホに那由多先輩からメッセージが入った。
『今日から図書室警察の活動をするよ』
「…………?」
さも当然のような文面だったが、初めて聞く言葉だった。もちろん意味もわからない。
ちなみにスマホの連絡先は先輩と直に交換したものではなかった。図書委員会のメンバー同士で、仕事の割り振りや情報共有などのために任意でグループ参加したSNSだった。先輩はそれを使って個別メッセージを送ってくるのだった。
どうしよう。すぐに図書室に向かった方がいいのだろうか。いや、どうだろう。
別に図書委員の仕事は嫌いではなかった。ただ最近はこうやって先輩が直に僕に仕事を割り振ってくるようになっていた。
なぜか? わからないからこうして困っているのだった。
僕は十秒ほど考えた後に結論を出した。
見なかったことにしよう。そうしよう。
ふと後方から視線を感じた。振り返ると教室後方のドアに那由多先輩が立っていた。
目が合うと手を振られた。僕がスマホを手にしているのははっきりと見られていた。
これで「メッセージに気づきませんでした」という言い訳は成り立たなくなってしまった。
というか既に教室まで来ていたのならメッセージを送ってくる意味なんてなかったはずなのに。
「……夏彦」
「うん?」
「悪いけど、今日も招集されてしまったよ」
僕はそう言ってスマホをしまおうとした。すると夏彦が手で制して立ち上がった。
「さっき言ってたブラック図書委員のパイセンだな? 任せろ。俺がガツンと言って追い返してやる。だからインストールは続けろ。完了したらチュートリアルをやっててくれ」
僕が先輩がいる方を指し示すと、夏彦は毅然とした態度で向かっていった。
身勝手なような、友達思いなような。とりあえず後者ということにしてありがたがっておこう。
ちなみに図書委員の仕事を絶対にしたくないというわけではない。ただ那由多先輩と一緒にいると気が置けないというか、気が気でない時が多いのだ。
「おい、奏汰」
ダウンロードが完了しないうちに夏彦が戻ってきた。
「え、もう話ついた? 迅速!」
あの那由多先輩をこんなに早く追い返すなんて。
と驚いたが、先輩は変わらずに教室後方のドアに佇んでいた。
「パイセンがお呼びだぞ。お待たせしてないで早く行け」
夏彦がついさっきとは正反対のことを言った。
「断ってくれるんじゃなかったっけ?」
確認した途端、夏彦は慌ただしく目を泳がせた。
「いや、だって、お前。お願いされたちゃったんだよ。湊奏汰くんを呼んできていただけませんか、って。俺はてっきり年上という立場を悪用したパワハラ上級生だと思ってたのに、おしとやかでめっちゃいい人じゃないか。あと美人だった」
あっさり懐柔されたようだ。
「……わかったよ」
これ以上何を言っても夏彦は翻らないのは、一年の頃からクラスメイトをやっていれば嫌でもわかる。
僕は残っていたパンを手早くかたして席を立った。
先輩のところへ行くと、彼女は「や」と言って手を上げた。
「今日も図書委員の活動に勤しんでくれるなんて感心だね、後輩くん」
「退路を四方八方塞いた上で何を言ってるんですか」
「さっきのは友達? ただのクラスメイト? それとも通りすがりの知らない人?」
「最後だったら怖いですよ。一応、友達です」
「ふうん。実にチョロい友達だったね」
それについては何も否定できない。思えば夏彦は一年生の時から異性に弱いタイプだったのだ。
「それで今日の仕事はなんでしたっけ?」
「そうそう。メッセージを見たよね? 今日は図書室警察を出動させようと思うんだ」
「メッセージを見ても、実際に言葉で聞いても、何を言っているのかわかりません」
「え、まさか後輩くんは知らないの? スティーブン・キングの『図書館警察』って小説」
「タイトルは知ってます。でもまだ読んでません」
「未読でも想像つかないかな?」
僕は少しだけ考えてから言った。
「……図書館の本を返さない人を取り締まる組織の話ですか?」
先輩は鼻に皺を寄せて笑った。
「しっかり想像できてるじゃないか。流石は本好き。想像力が活きてるね。要するに、うちの図書室でそれをしようってことさ」
「だったら最初からそう言ってください。小説のタイトルを引き合いに出すよりも、普通に説明した方が早かったじゃないですか」
「説明よりも描写の方がいいかと思って」
「それは小説の話です!」
那由多先輩は「ははは」と笑った。はぐらかされた、とも言える。
ちなみにうちの図書室の貸出冊数は一度の利用で五冊までとなっている。期限は二週間。予約が入っていなければ一度だけ延長が可能になる。これを無断で超過した生徒の元に足を運び、本の返却を督促するのが今回の仕事内容だった。
「これは図書委員の中でも限られた精鋭にしか任せられない仕事なんだよ。誇ってもらってもいいよ、後輩くん」
「精鋭って言うと聞こえがいいですが、実態は?」
「面倒臭くてみんなが敬遠する仕事だから、後輩くんみたいな人にしか頼めないんだよね」
「……最初に建前を言う必要ありました?」
「何事もファーストインプレッションってのは大事だから」
まあ、言葉をどう言い換えたところでやることに変わりはない。
ただ黙って従うのも癪だったので、先輩についていきながら、最低限抗議もしておくことにした。
「昼休み返上ってのは流石にどうかと思いますけど。ゆっくり昼食を食べている時間もないじゃないですか。最近はブラック部活が問題視されてるわけですし、委員会も気をつけた方がいいと思いますけど」
「そうだね。でも昼休みの早い時間が一番捕まえやすいんだよ、犯人を。ご飯を食べ終えた後だとみんなどこかに行ってしまうし、それを追いかける方が手間がかかるんだ。放課後だと余計にね。だからこの時間帯を狙うわけ」
「………………」
一応、合理的な理由はあったらしい。そうなってくると言い返しにくいのが少し悔しい。
「とりあえず最初の一件はわたしが見せてあげるよ、お手本を」
那由多先輩がやってきたのは一年D組の教室だった。
先輩は廊下から教室の中へ向かって呼びかけた。
「図書室の本を延滞している人!」
教室の中は雑談に興じている生徒ばかりで、全然声が行き届かない。もしかしたら聞こえているのかもしれないけれど、誰も関係ないと思っているのか反応しない。
一年生は今年の春に入学してきて、たぶん今頃が新しくできた友達と仲が深まって一番楽しい時期なのだろう。わからなくはない。けれども呼びかけに耳を傾けないのはどうかと思った。
しびれを切らした那由多先輩は唐突に声量を上げた。
「『動画配信者になって同級生からモテまくるたった一つの冴えたやり方』を図書室から借りたまま延滞している人!」
先輩の声はよく通る声だったが、それ以上にタイトルにインパクトがありすぎた。
教室は一瞬で静まり返り、ほぼ全員がこちらに注目した。
「いない?」
那由多先輩は一斉に向けられた視線に一切物怖じせず、教室の中の全員に向けて呼びかけた。
数秒遅れで教室がざわつき始める。
「…………誰だよ、そんな本を借りてる奴?」
「……っていうか、引くんだけど」
「そんな本があるんならむしろオレが読みてえ」
あちらこちらで何か言っているけれど、延滞している本人は名乗り出てこない。
当然だ。こんな空気の中では名乗り出られるわけがない。恥さらしもいいところだ。
僕は心配になって那由多先輩の様子を伺った。
お手本を見せるとか言っていたけれど、流石にこのやり方は失敗だったのではないだろうか。
そう思っていたら不意に先輩はいきなり頭を下げた。
「いないか。そうか。ごめん。もしかしたら教室を間違ったかもしれない。それじゃあ失礼」
そう言い切ると、踵を鳴らして方向転換し、さっさと一年D組の教室から離れていった。
潔く失敗を認めたのだろうか。それにしては切り上げる判断が早かった。
困惑しつつも僕は先輩のあとを追いかけながら訊ねた。
「……えっと、今のは、どうなったんですか?」
「ん? 成功したよ。もうすることがないから戻ってるんだよ」
「え、今のでですか? だってまだ本を回収してないじゃないですか」
「もうしたようなものだよ。これ以上こっちから働きかけなくても、明日か明後日には向こうから本が戻ってきてるはずさ」
「すいません。よくわかりません」
「わからない? それならさっき、教室で青鬼みたいに真っ青になっている子がいたのは気づいていた?」
「気づいていません」
「いたんだよ。口では強がって『誰だよー』なんて言ってたけどね。まあ、あの状況では周りと同調する態度を取るよね、普通は」
僕はしばらく考えてから先輩に確認を取った。
「……ということは、わざとああいう状態を作り上げて、延滞している人にプレッシャーを与えたってことですか?」
「わざと、なんて人聞きが悪いね、後輩くん。せめて意図的と言ってほしいな。それにいたずらでやったわけじゃないよ。呼びかけても反応しなかったから、次の手を打って出たまでなんだ」
「いや、まあ、それはそうかもしれませんが、プライバシーの問題とか、ちょっと諸々ヤバかったんじゃないですか? 図書室って基本的に誰がどんな本を借りてるか漏らすのはよくないはずじゃ……」
「プライバシー? 侵害してないよ。それこそ心外 だね」
「確かに借りた人の名前は出してませんでしたけど、本のタイトルは思い切り晒していたじゃないですか」
「ところがそうでもないのさ。本当の書名は『youtuberになってクラスメイトからモテまくる唯一の方法』だよ。ね、『動画配信者になって同級生からモテまくるたった一つの冴えたやり方』とは全然違う」
「いやいや。言葉を言い換えてるだけで、内容はほとんど一緒のようなものじゃないですか。延滞した本人は自分のことを言われたって絶対わかってますよ」
「それは本人にしかわからないから語りえないよ。いいかい。認識が世界が作るんだ。そしてそれは人によってまったく異なるんだ。キミも、わたしも、延滞している本人もね」
「そんなこと言ってはぐらかさないでください!」
別に怒ったつもりではなかったけれど、気がついたら少し語気が荒くなっていた。でも先輩も改めるつもりはないようだった。
「ふうん。真面目だね、後輩くんは。いいじゃないか。どっちにしろ本人の啓蒙は成功したと思うんだ。恥を掻きたくないのなら速攻で本を返しにくるはずだよ。それに今後は延滞もしなくなるはず。解決と予防を同時にこなせて一石二鳥。違うかい、後輩くん」
「……いや、それはその、どうでしょう」
納得しかねていたら、那由多先輩が首を傾げながら追求してきた。
「わたしのやり方は気に食わない?」
「……まあ、ちょっと乱暴なやり方だとは思います。確信犯だったら別ですけど、単に返すのを忘れていただけだったかもしれないじゃないですか。その場合だと過度に辱めたことになってしまいますよ」
「過度、か。後輩くんはなかなかナイーブなんだね」
微妙な沈黙が生じた。が、先輩はそれを長引かせずに口を開いた。
「よし。それじゃあこうしよう」
那由多先輩はおもむろにスマホを取り出して操作を始めた。
「意見が割れた時、一般的には多数決と相場が決まっているけれど、二人だけではそれもままならないよね。だからここはシンプルに『勝負』をしよう。内容はちょうどいいから今やってる図書室警察の活動でさ。今、未返却本のリストをキミのスマホに送っておいたよ。このうちの過半数を先に回収できた方が勝ち。自分の好きなやり方で構わない。もしも後輩くんが買ったら、わたしのやり方は自粛することにするよ」
言ってる傍からスマホに通知が来た。確認すると延滞している人の氏名、クラス、書名が記されたデータが僕と先輩の間で共有されていた。
「いえ、別に僕としては勝負で白黒はっきりさせたいわけでは……」
僕がスマホから顔を上げた時にはもう、先輩は肩越しに手を振りながらその場を立ち去っていた。
結局、後輩である僕に選択権はないのだった。
昼休み時間、自分の席で昼食を取っていると
「ああ。ちょっと委員会の仕事に駆り出されることが増えてしまって」
夏彦はそれを聞くと眉をひそめた。
「は? お前って確か図書委員だったよな? そんなに忙しいものなのか? 楽な仕事だから率先して立候補したんじゃなかったのか?」
夏彦は基本的にいい奴なのだけど、思ったことをやや率直に口に出しすぎる傾向にある。
「外からはそう見えるかもしれないけど、蓋を開けてみるとそれなりに仕事はあるんだよ」
「ふうん。そんなものなのか」
「そういうものなんだよ。……ただ、最近ちょっと委員会の先輩に目をつけられてしまって、思ったよりも仕事が多いってのは事実だけど。あと、無断でサボる人も少なくないから、その穴埋めとかね」
「なんだそれ。ブラック企業ならぬ、ブラック委員会じゃないか」
「でも、まあ、好きで入った図書委員だから。それに仕事自体も決して嫌いじゃないんだ」
「いや、よくないだろ。好きだからって過剰に仕事を押し付けられていいわけがない。しっかり休むことは国民の義務なんだぜ」
「なんか過剰に慮ってくれるようだけど、何か理由があるんじゃないか?」
夏彦は音もなくスマホを取り出して画面に表示させた動画を僕に見せてきた。
「オカルティック・スタンド・オーダー?」
オカルトにまつわるキャラクターを集めて戦わせるゲームアプリの紹介動画だった。美麗なグラフィック。個性的なキャラクター。迫力のあるバトル。どこかで聞いたことのあるキャッチコピーが続き、最後に「今始めるとSSS確定ガチャが引ける!」と締めくくられていた。
「寸評。新規性を感じない」
口ではくさしておいたもののの、夏彦がそのアプリを紹介してきた理由はわかっていた。
彼はオカルト研究会、通称オカ研に所属している。言うまでもなくオカルトに目がない。だから一見して特徴を感じられないアプリにも、オカルトというだけで真っ先に手を出してしまうのだ。
「あいにくお前の感想は求めていないんだ。とにかくインストールして俺と通信してくれ。そうすると確定ガチャが無料で倍回せるようになるんだ」
「まあ、そんなことだろうと思ったけどさ」
「別に構わないだろ? これを機にお前もオカルト好きになれば、結果的におまえのためにもなるわけなんだから」
まったく呆れなかったわけではないけれど、多少なら友人のよしみでつきやってやらないこともない。どうせ無料だし、つまらなかったら削除すればいいのだ。
僕は自分のスマホを取り出し、ストアに行ってアプリのインストールを開始した。ダウンロード完了まで三分とのことだった。
ところが半分ほど進んだところでスマホに那由多先輩からメッセージが入った。
『今日から図書室警察の活動をするよ』
「…………?」
さも当然のような文面だったが、初めて聞く言葉だった。もちろん意味もわからない。
ちなみにスマホの連絡先は先輩と直に交換したものではなかった。図書委員会のメンバー同士で、仕事の割り振りや情報共有などのために任意でグループ参加したSNSだった。先輩はそれを使って個別メッセージを送ってくるのだった。
どうしよう。すぐに図書室に向かった方がいいのだろうか。いや、どうだろう。
別に図書委員の仕事は嫌いではなかった。ただ最近はこうやって先輩が直に僕に仕事を割り振ってくるようになっていた。
なぜか? わからないからこうして困っているのだった。
僕は十秒ほど考えた後に結論を出した。
見なかったことにしよう。そうしよう。
ふと後方から視線を感じた。振り返ると教室後方のドアに那由多先輩が立っていた。
目が合うと手を振られた。僕がスマホを手にしているのははっきりと見られていた。
これで「メッセージに気づきませんでした」という言い訳は成り立たなくなってしまった。
というか既に教室まで来ていたのならメッセージを送ってくる意味なんてなかったはずなのに。
「……夏彦」
「うん?」
「悪いけど、今日も招集されてしまったよ」
僕はそう言ってスマホをしまおうとした。すると夏彦が手で制して立ち上がった。
「さっき言ってたブラック図書委員のパイセンだな? 任せろ。俺がガツンと言って追い返してやる。だからインストールは続けろ。完了したらチュートリアルをやっててくれ」
僕が先輩がいる方を指し示すと、夏彦は毅然とした態度で向かっていった。
身勝手なような、友達思いなような。とりあえず後者ということにしてありがたがっておこう。
ちなみに図書委員の仕事を絶対にしたくないというわけではない。ただ那由多先輩と一緒にいると気が置けないというか、気が気でない時が多いのだ。
「おい、奏汰」
ダウンロードが完了しないうちに夏彦が戻ってきた。
「え、もう話ついた? 迅速!」
あの那由多先輩をこんなに早く追い返すなんて。
と驚いたが、先輩は変わらずに教室後方のドアに佇んでいた。
「パイセンがお呼びだぞ。お待たせしてないで早く行け」
夏彦がついさっきとは正反対のことを言った。
「断ってくれるんじゃなかったっけ?」
確認した途端、夏彦は慌ただしく目を泳がせた。
「いや、だって、お前。お願いされたちゃったんだよ。湊奏汰くんを呼んできていただけませんか、って。俺はてっきり年上という立場を悪用したパワハラ上級生だと思ってたのに、おしとやかでめっちゃいい人じゃないか。あと美人だった」
あっさり懐柔されたようだ。
「……わかったよ」
これ以上何を言っても夏彦は翻らないのは、一年の頃からクラスメイトをやっていれば嫌でもわかる。
僕は残っていたパンを手早くかたして席を立った。
先輩のところへ行くと、彼女は「や」と言って手を上げた。
「今日も図書委員の活動に勤しんでくれるなんて感心だね、後輩くん」
「退路を四方八方塞いた上で何を言ってるんですか」
「さっきのは友達? ただのクラスメイト? それとも通りすがりの知らない人?」
「最後だったら怖いですよ。一応、友達です」
「ふうん。実にチョロい友達だったね」
それについては何も否定できない。思えば夏彦は一年生の時から異性に弱いタイプだったのだ。
「それで今日の仕事はなんでしたっけ?」
「そうそう。メッセージを見たよね? 今日は図書室警察を出動させようと思うんだ」
「メッセージを見ても、実際に言葉で聞いても、何を言っているのかわかりません」
「え、まさか後輩くんは知らないの? スティーブン・キングの『図書館警察』って小説」
「タイトルは知ってます。でもまだ読んでません」
「未読でも想像つかないかな?」
僕は少しだけ考えてから言った。
「……図書館の本を返さない人を取り締まる組織の話ですか?」
先輩は鼻に皺を寄せて笑った。
「しっかり想像できてるじゃないか。流石は本好き。想像力が活きてるね。要するに、うちの図書室でそれをしようってことさ」
「だったら最初からそう言ってください。小説のタイトルを引き合いに出すよりも、普通に説明した方が早かったじゃないですか」
「説明よりも描写の方がいいかと思って」
「それは小説の話です!」
那由多先輩は「ははは」と笑った。はぐらかされた、とも言える。
ちなみにうちの図書室の貸出冊数は一度の利用で五冊までとなっている。期限は二週間。予約が入っていなければ一度だけ延長が可能になる。これを無断で超過した生徒の元に足を運び、本の返却を督促するのが今回の仕事内容だった。
「これは図書委員の中でも限られた精鋭にしか任せられない仕事なんだよ。誇ってもらってもいいよ、後輩くん」
「精鋭って言うと聞こえがいいですが、実態は?」
「面倒臭くてみんなが敬遠する仕事だから、後輩くんみたいな人にしか頼めないんだよね」
「……最初に建前を言う必要ありました?」
「何事もファーストインプレッションってのは大事だから」
まあ、言葉をどう言い換えたところでやることに変わりはない。
ただ黙って従うのも癪だったので、先輩についていきながら、最低限抗議もしておくことにした。
「昼休み返上ってのは流石にどうかと思いますけど。ゆっくり昼食を食べている時間もないじゃないですか。最近はブラック部活が問題視されてるわけですし、委員会も気をつけた方がいいと思いますけど」
「そうだね。でも昼休みの早い時間が一番捕まえやすいんだよ、犯人を。ご飯を食べ終えた後だとみんなどこかに行ってしまうし、それを追いかける方が手間がかかるんだ。放課後だと余計にね。だからこの時間帯を狙うわけ」
「………………」
一応、合理的な理由はあったらしい。そうなってくると言い返しにくいのが少し悔しい。
「とりあえず最初の一件はわたしが見せてあげるよ、お手本を」
那由多先輩がやってきたのは一年D組の教室だった。
先輩は廊下から教室の中へ向かって呼びかけた。
「図書室の本を延滞している人!」
教室の中は雑談に興じている生徒ばかりで、全然声が行き届かない。もしかしたら聞こえているのかもしれないけれど、誰も関係ないと思っているのか反応しない。
一年生は今年の春に入学してきて、たぶん今頃が新しくできた友達と仲が深まって一番楽しい時期なのだろう。わからなくはない。けれども呼びかけに耳を傾けないのはどうかと思った。
しびれを切らした那由多先輩は唐突に声量を上げた。
「『動画配信者になって同級生からモテまくるたった一つの冴えたやり方』を図書室から借りたまま延滞している人!」
先輩の声はよく通る声だったが、それ以上にタイトルにインパクトがありすぎた。
教室は一瞬で静まり返り、ほぼ全員がこちらに注目した。
「いない?」
那由多先輩は一斉に向けられた視線に一切物怖じせず、教室の中の全員に向けて呼びかけた。
数秒遅れで教室がざわつき始める。
「…………誰だよ、そんな本を借りてる奴?」
「……っていうか、引くんだけど」
「そんな本があるんならむしろオレが読みてえ」
あちらこちらで何か言っているけれど、延滞している本人は名乗り出てこない。
当然だ。こんな空気の中では名乗り出られるわけがない。恥さらしもいいところだ。
僕は心配になって那由多先輩の様子を伺った。
お手本を見せるとか言っていたけれど、流石にこのやり方は失敗だったのではないだろうか。
そう思っていたら不意に先輩はいきなり頭を下げた。
「いないか。そうか。ごめん。もしかしたら教室を間違ったかもしれない。それじゃあ失礼」
そう言い切ると、踵を鳴らして方向転換し、さっさと一年D組の教室から離れていった。
潔く失敗を認めたのだろうか。それにしては切り上げる判断が早かった。
困惑しつつも僕は先輩のあとを追いかけながら訊ねた。
「……えっと、今のは、どうなったんですか?」
「ん? 成功したよ。もうすることがないから戻ってるんだよ」
「え、今のでですか? だってまだ本を回収してないじゃないですか」
「もうしたようなものだよ。これ以上こっちから働きかけなくても、明日か明後日には向こうから本が戻ってきてるはずさ」
「すいません。よくわかりません」
「わからない? それならさっき、教室で青鬼みたいに真っ青になっている子がいたのは気づいていた?」
「気づいていません」
「いたんだよ。口では強がって『誰だよー』なんて言ってたけどね。まあ、あの状況では周りと同調する態度を取るよね、普通は」
僕はしばらく考えてから先輩に確認を取った。
「……ということは、わざとああいう状態を作り上げて、延滞している人にプレッシャーを与えたってことですか?」
「わざと、なんて人聞きが悪いね、後輩くん。せめて意図的と言ってほしいな。それにいたずらでやったわけじゃないよ。呼びかけても反応しなかったから、次の手を打って出たまでなんだ」
「いや、まあ、それはそうかもしれませんが、プライバシーの問題とか、ちょっと諸々ヤバかったんじゃないですか? 図書室って基本的に誰がどんな本を借りてるか漏らすのはよくないはずじゃ……」
「プライバシー? 侵害してないよ。それこそ
「確かに借りた人の名前は出してませんでしたけど、本のタイトルは思い切り晒していたじゃないですか」
「ところがそうでもないのさ。本当の書名は『youtuberになってクラスメイトからモテまくる唯一の方法』だよ。ね、『動画配信者になって同級生からモテまくるたった一つの冴えたやり方』とは全然違う」
「いやいや。言葉を言い換えてるだけで、内容はほとんど一緒のようなものじゃないですか。延滞した本人は自分のことを言われたって絶対わかってますよ」
「それは本人にしかわからないから語りえないよ。いいかい。認識が世界が作るんだ。そしてそれは人によってまったく異なるんだ。キミも、わたしも、延滞している本人もね」
「そんなこと言ってはぐらかさないでください!」
別に怒ったつもりではなかったけれど、気がついたら少し語気が荒くなっていた。でも先輩も改めるつもりはないようだった。
「ふうん。真面目だね、後輩くんは。いいじゃないか。どっちにしろ本人の啓蒙は成功したと思うんだ。恥を掻きたくないのなら速攻で本を返しにくるはずだよ。それに今後は延滞もしなくなるはず。解決と予防を同時にこなせて一石二鳥。違うかい、後輩くん」
「……いや、それはその、どうでしょう」
納得しかねていたら、那由多先輩が首を傾げながら追求してきた。
「わたしのやり方は気に食わない?」
「……まあ、ちょっと乱暴なやり方だとは思います。確信犯だったら別ですけど、単に返すのを忘れていただけだったかもしれないじゃないですか。その場合だと過度に辱めたことになってしまいますよ」
「過度、か。後輩くんはなかなかナイーブなんだね」
微妙な沈黙が生じた。が、先輩はそれを長引かせずに口を開いた。
「よし。それじゃあこうしよう」
那由多先輩はおもむろにスマホを取り出して操作を始めた。
「意見が割れた時、一般的には多数決と相場が決まっているけれど、二人だけではそれもままならないよね。だからここはシンプルに『勝負』をしよう。内容はちょうどいいから今やってる図書室警察の活動でさ。今、未返却本のリストをキミのスマホに送っておいたよ。このうちの過半数を先に回収できた方が勝ち。自分の好きなやり方で構わない。もしも後輩くんが買ったら、わたしのやり方は自粛することにするよ」
言ってる傍からスマホに通知が来た。確認すると延滞している人の氏名、クラス、書名が記されたデータが僕と先輩の間で共有されていた。
「いえ、別に僕としては勝負で白黒はっきりさせたいわけでは……」
僕がスマホから顔を上げた時にはもう、先輩は肩越しに手を振りながらその場を立ち去っていた。
結局、後輩である僕に選択権はないのだった。