22 特等席
文字数 4,629文字
僕と那由多先輩は歩道の縁石を見つけて並んで座った。近場で座れるところがそれくらいしか見つけられなかったからだ。
先輩に促されて僕は屋台で焼き鳥の袋を開けた。中には屋台の全メニューであるねぎま、レバー、砂肝、ホルモン、ハツが一本ずつ入っていた。
別にどれからでもよかったのだけど、適当に引き抜いたのがハツだった。
「ふうん。最初にそれからいくとは、なかなか通な選び方だね。ハツは熱いうちに食え、ってことかな?」
鉄は熱いうちに打て、をもじったつもりなのだろう。でも僕は気づかないフリをした。そもそも既にちょっと冷めていた。
「僕だけ食べるのは気が引けるんですが、本当にいいんですか?」
「いいんだよ。せっかく買ったのに食べない方がもったいないし。それにわたしは胃がないわけだからさ」
「胃に限った話ですか?」
ちょっと不謹慎かと思ったけれど、先輩は満足そうに頷いた。
「うん。なかなかキミも幽霊との接し方がわかってきたようじゃないか」
僕はハツを口に運んだ。表面が冷めていたけれど、内側はまだほんのり熱を残していた。
「美味しい? 美味? ビミョー?」
「美味しいです」
「それにしてはあんまり美味しそうな顔をしないよね」
「もともと表情筋が豊かじゃないんですよ」
「それだと困るんだよね。美味しそうに食べているところを見て、わたしも食べる気持ちになりたかったんだからさ」
「おすそわけガムを使ったんじゃなかったでしたっけ?」
「あ、そうだった。うん、美味しいね」
那由多先輩と一緒(?)に焼き鳥を食べながら、多少欠けている花火を見た。
すべて思い描いていた通りにはいかなかったけれど、先輩が喜んでくれているので良しとしよう、と僕は思った。
その時、暗闇の向こうから出し抜けに声がかかった。
「奏汰? お前、奏汰か?」
話しかけられただけでも驚いたのに、それが知っている声だったからなおさらだった。
「……夏彦?」
信じられないまま聞き返すと、暗闇の中を足音が近づいてきて、街灯の下に夏彦が姿を現した。
「ど、どうしてここに?」
「それはこっちの台詞だっての! メッセージしてきたから電話をかけたのに、急に繋がらなくなってしまうしさ」
「ごめん。スマホのバッテリーが急に切れてしまって。でも、僕がここにいることをどうやって?」
夏彦は不可解な顔になった。
「は? 俺はそこの自販機へ買い出しに出てきただけなんだけど?」
夏彦は通りの角に佇んでいる自動販売機を指さした。
「え、ってことは僕を探しに来たってわけじゃなくて、本当にただの偶然ってこと?」
「偶然っていうか、すぐそこのマンションが俺の準備した特等席だったからだよ」
夏彦が指さしたのは物見台の跡地に新築されたマンションだった。
あまりの偶然に僕は絶句した。
実は夏彦が嘘を言っているのではないかと疑ったくらいだ。
でも彼がそんなことをするメリットはないし、そもそも事情を把握する術もない。実際、僕の隣に座っている先輩の姿を彼は見えていないようだった。オカ研なのに。
夏彦は呆然としている僕を見て、落ち込んでいるものと思ったらしい。
「なにはともあれ会えてよかったよ。万事オールオッケー、結果オーライだ。とにかくしんどかったんだろ、色々と。もちろん来るよな、特等席」
「夏彦が許してくれるのなら」
「いいに決まってるだろ。あ、でもちょい待ってくれ。その前に買い出しを済ませてくるから」
夏彦は小走りに自販機へと駆けていった。
その間に那由多先輩が話しかけてきた。さしもの彼女も
「まるでポール・オースターの小説もびっくりな偶然だね、後輩くん」
「はい」
僕はそれしか言えなかった。驚きは時に人から語彙を奪うものらしい。
数分後、夏彦は缶ジュースを抱えて戻ってきた。5、6本はあるだろうか。どうやら夏鈴さん一人にパシらされているわけではなさそうだ。
「僕も持つよ」
「助かる」
僕は半分くらいを受け取り、夏彦の後に続いた。
件のマンションは関係者でないと入れない作りになっているらしかった。
中のエントランスはガラス戸で奥が仕切られており、傍らに呼び出し用のインターフォンが設置されていた。
夏彦が慣れた手付きで番号を入力すると、スピーカーから中年男性の声が聞こえてきた。
「おじさん。夏彦ッス。戻ってきたので入り口を開けてください。あと、友達を一人、一緒に屋上に連れていきます。ええ。高校のクラスメイトです。はい。ありがとうございます」
夏彦が普段と異なる口調でのやり取りを終えると、ガラス戸が左右にゆっくりとスライドしていった。遠隔で開閉される仕組みのようだ。
奥にはエレベーターが設置されており、夏彦が呼び出しボタンを押した。
「さっきの人は親戚?」
エレベーターを来るまでの間、僕は夏彦に訊ねた。
「そうなんだ。親戚の中で俺が一番よくしてもらってるおじさんなんだ。不動産業をやっていて、今日だけ特別にこの物件に入れてもらえることになったんだ」
「ザ・人脈だ。こんな立派なマンション、初めて入ったよ」
「凄いよな。最近完成したばかりなんだってさ。あ、ちなみに入る時は今みたいに中から開けてもらわなきゃいけないんだけど、出る時は普通の自動ドアみたいに買ってに開くから」
「わかった」
要するに帰る時は手続き不要、ということだ。
エレベーターが到着したので僕らは中に乗り込んだ。
那由多先輩の姿が見えていない夏彦は僕が乗るとすぐに閉じるボタンを押したが、先輩は素早い身のこなしで危なげなく入ってきた。
エレベーターが上昇している間、夏彦が思い出したようにポケットからモバイルバッテローを取り出した。
「スマホってのは一番肝心な時にバッテリーが切れるものだからさ。遠出をする時は常に携帯しておいた方がいいぜ。今日はもうはぐれたりしないだろうけど、万が一のために持っておけよ」
「ありがとう。何から何まで恩に着る」
僕は礼を言ってモバイルバッテリーをポケットに入れた。後で充電しておこうと思った。
エレベーターは五階で止まった。
「屋上が特等席なんだけど、ここからは外の階段でないと行けないんだ」
通路をいったん突き当りまで進み、建物の外壁に設置された非常階段を使うことになった。
階段を上っていく途中、後ろから先輩が話しかけてきた。
「なんかさっきまでより音も光も強くなってない? 地上にいた時よりも花火が近くなっているからかな?」
「そうかもしれませんね」
前を行く夏彦に聞かれたら面倒だったけれど、幸い花火の音が僕の声をかき消してくれた。
「着いたぜ。さあ、見ろ。特別観覧席だ」
階段を上りきり、ついに屋上にやってきた。
「うわあ、これはズルい!」
僕よりも先に那由多先輩が感嘆の声を上げた。
僕は心の中で先輩に同意する。
屋上は僕が想像していたよりも遥かに広く、ちょっとしたテニスコートほどのスペースがあった。そして何よりも高さがある。
地上から見える花火は建物にはばまれて、常にどこかが欠けてしまっていた。しかしここではほぼすべてが完全な形で見える。
折よく一発の大玉が打ち上げられた。
空に上っていくまでの音が全然違かった。
花火は天頂まで上り詰めると、一瞬、沈黙した。
直後、矢のように尖った光が放射状へ広がった。
それは僕にとってはまったく初めて見るタイプの花火だった。
「ああ、聖礼花だ。見たかったんだ、これ」
那由多先輩がため息をつきながらつぶやいた。
「せいれんか?」
小さな声で僕は聞き返した。
幸いなことに夏彦は屋上のあちらこちらにいる人(夏彦の親戚だろうか?)のところへ行って、買ってきたジュースを配って回っていたので不審がられることはなかった。
「ホーリーの聖と、礼節の礼、それと花火の花で聖礼花。S木煙火店っていう花火メーカー特有の花火なんだよ」
「花火にもメーカーとかあるんですか?」
「それはそうだよ。色の出し方とか、形とか、会社によって全然違うんだ。実際、さっきのところはかなり特徴のある花火を作るところだから、すぐにわかったよね」
「ず、ずいぶんと詳しいんですね」
「まあね。去年、花火に来る前に相当予習していたから」
僕もネットでけっこう調べたつもりでいたけれど、主にスケジュールやアクセスの方で、花火そのものについてはほとんど無知なままだった。そもそもそういう発想すら今までなかったのだ。
「……ん?」
不意に引っかかりを感じて僕は眉をひそめた。
「……というか先輩、去年は勉強で多忙を極めていたんじゃなかったですっけ?」
「あ」
那由多先輩は珍しく気まずそうな顔をした。
「あー、うん、まあ、忙しかったね、実際問題。夏休み直前の全国模試は芳しくなかったから、急に焦って本格的に受験勉強を開始したところだったからね。でも……」
「でも?」
「キミから花火に誘われたのが自分でも意外なほど嬉しかったみたいで、ついつい下準備に力が入っちゃったんだよね。しかもこれがけっこうな沼でさ。本当に花火という世界は奥が深いよ。気がついたらすごく花火に詳しくなっていたわけ」
僕は那由多先輩のことをしばらく黙って眺めた。すると先輩は焦ったように弁解してきた。
「あ、でも調べていたのは勉強の合間だよ。疲れて頭が回らなくなった時とか、どうしても気分が優れない時とかね。……駄目だったかな?」
「いえ、駄目ってわけじゃないです。……ただ」
「ダダ? ダダイズム?」
「茶化さないでくださいよ。ただ、僕が先輩が勉強で猛烈に忙しいと思って、色々と、その……」
遠慮したり、焦ったり、無駄に悩んだりしてきたのだ。
その時、ひときわ鋭い音がして大玉が空へと飛び上がった。
僕らはつられて同時に空を見上げる。
夜空で弾ける大玉。
一見、大きいだけで普通の花火と変わらないように見えた。
と思いきや、円球の端の色がグラデーションするように変化した。
これもまた初めて見るタイプの花火だった。
「……こ、今度のはなんですか、いったい?」
「時差式発光球。すごい。これも見たかったやつなんだ。火薬の燃焼時間をズラすことで光をスライドさせる最先端の花火なんだよ」
僕は関心する一方で、あまりに豊富な知識を持つ先輩を眺めた。
勉強の合間とか言っていたけれど、果たして本当だろうか?
もっとも追求するつもりもなかったし、ましてや非難するつもりもなかった。
なんだかんだ言って去年、先輩が僕の花火の誘いに応じてくれたのは嬉しかったし、何より今、目の前の花火を一緒に見れていることが最高に嬉しかった。
それからも想像力に溢れた花火は続いた。
いつの間にか僕らは花火が打ち上がる度に笑いあっていた。
「後輩くん。キミ、表情筋が豊かではなかったんじゃないの?」
「そのはずなんですけど、あまりにも花火がすごすぎて」
「うん。確かにそうだね。感情が許容量を越えて覆水盆から溢れてる感じだよね」
那由多先輩も明らかに普段のテンションではなくなっていた。
「ありがとう。最高の場所だね、後輩くん!」
花火の光に照らされた那由多先輩は、僕がこれまでに見た中で一番の笑顔だった。
先輩に促されて僕は屋台で焼き鳥の袋を開けた。中には屋台の全メニューであるねぎま、レバー、砂肝、ホルモン、ハツが一本ずつ入っていた。
別にどれからでもよかったのだけど、適当に引き抜いたのがハツだった。
「ふうん。最初にそれからいくとは、なかなか通な選び方だね。ハツは熱いうちに食え、ってことかな?」
鉄は熱いうちに打て、をもじったつもりなのだろう。でも僕は気づかないフリをした。そもそも既にちょっと冷めていた。
「僕だけ食べるのは気が引けるんですが、本当にいいんですか?」
「いいんだよ。せっかく買ったのに食べない方がもったいないし。それにわたしは胃がないわけだからさ」
「胃に限った話ですか?」
ちょっと不謹慎かと思ったけれど、先輩は満足そうに頷いた。
「うん。なかなかキミも幽霊との接し方がわかってきたようじゃないか」
僕はハツを口に運んだ。表面が冷めていたけれど、内側はまだほんのり熱を残していた。
「美味しい? 美味? ビミョー?」
「美味しいです」
「それにしてはあんまり美味しそうな顔をしないよね」
「もともと表情筋が豊かじゃないんですよ」
「それだと困るんだよね。美味しそうに食べているところを見て、わたしも食べる気持ちになりたかったんだからさ」
「おすそわけガムを使ったんじゃなかったでしたっけ?」
「あ、そうだった。うん、美味しいね」
那由多先輩と一緒(?)に焼き鳥を食べながら、多少欠けている花火を見た。
すべて思い描いていた通りにはいかなかったけれど、先輩が喜んでくれているので良しとしよう、と僕は思った。
その時、暗闇の向こうから出し抜けに声がかかった。
「奏汰? お前、奏汰か?」
話しかけられただけでも驚いたのに、それが知っている声だったからなおさらだった。
「……夏彦?」
信じられないまま聞き返すと、暗闇の中を足音が近づいてきて、街灯の下に夏彦が姿を現した。
「ど、どうしてここに?」
「それはこっちの台詞だっての! メッセージしてきたから電話をかけたのに、急に繋がらなくなってしまうしさ」
「ごめん。スマホのバッテリーが急に切れてしまって。でも、僕がここにいることをどうやって?」
夏彦は不可解な顔になった。
「は? 俺はそこの自販機へ買い出しに出てきただけなんだけど?」
夏彦は通りの角に佇んでいる自動販売機を指さした。
「え、ってことは僕を探しに来たってわけじゃなくて、本当にただの偶然ってこと?」
「偶然っていうか、すぐそこのマンションが俺の準備した特等席だったからだよ」
夏彦が指さしたのは物見台の跡地に新築されたマンションだった。
あまりの偶然に僕は絶句した。
実は夏彦が嘘を言っているのではないかと疑ったくらいだ。
でも彼がそんなことをするメリットはないし、そもそも事情を把握する術もない。実際、僕の隣に座っている先輩の姿を彼は見えていないようだった。オカ研なのに。
夏彦は呆然としている僕を見て、落ち込んでいるものと思ったらしい。
「なにはともあれ会えてよかったよ。万事オールオッケー、結果オーライだ。とにかくしんどかったんだろ、色々と。もちろん来るよな、特等席」
「夏彦が許してくれるのなら」
「いいに決まってるだろ。あ、でもちょい待ってくれ。その前に買い出しを済ませてくるから」
夏彦は小走りに自販機へと駆けていった。
その間に那由多先輩が話しかけてきた。さしもの彼女も
「まるでポール・オースターの小説もびっくりな偶然だね、後輩くん」
「はい」
僕はそれしか言えなかった。驚きは時に人から語彙を奪うものらしい。
数分後、夏彦は缶ジュースを抱えて戻ってきた。5、6本はあるだろうか。どうやら夏鈴さん一人にパシらされているわけではなさそうだ。
「僕も持つよ」
「助かる」
僕は半分くらいを受け取り、夏彦の後に続いた。
件のマンションは関係者でないと入れない作りになっているらしかった。
中のエントランスはガラス戸で奥が仕切られており、傍らに呼び出し用のインターフォンが設置されていた。
夏彦が慣れた手付きで番号を入力すると、スピーカーから中年男性の声が聞こえてきた。
「おじさん。夏彦ッス。戻ってきたので入り口を開けてください。あと、友達を一人、一緒に屋上に連れていきます。ええ。高校のクラスメイトです。はい。ありがとうございます」
夏彦が普段と異なる口調でのやり取りを終えると、ガラス戸が左右にゆっくりとスライドしていった。遠隔で開閉される仕組みのようだ。
奥にはエレベーターが設置されており、夏彦が呼び出しボタンを押した。
「さっきの人は親戚?」
エレベーターを来るまでの間、僕は夏彦に訊ねた。
「そうなんだ。親戚の中で俺が一番よくしてもらってるおじさんなんだ。不動産業をやっていて、今日だけ特別にこの物件に入れてもらえることになったんだ」
「ザ・人脈だ。こんな立派なマンション、初めて入ったよ」
「凄いよな。最近完成したばかりなんだってさ。あ、ちなみに入る時は今みたいに中から開けてもらわなきゃいけないんだけど、出る時は普通の自動ドアみたいに買ってに開くから」
「わかった」
要するに帰る時は手続き不要、ということだ。
エレベーターが到着したので僕らは中に乗り込んだ。
那由多先輩の姿が見えていない夏彦は僕が乗るとすぐに閉じるボタンを押したが、先輩は素早い身のこなしで危なげなく入ってきた。
エレベーターが上昇している間、夏彦が思い出したようにポケットからモバイルバッテローを取り出した。
「スマホってのは一番肝心な時にバッテリーが切れるものだからさ。遠出をする時は常に携帯しておいた方がいいぜ。今日はもうはぐれたりしないだろうけど、万が一のために持っておけよ」
「ありがとう。何から何まで恩に着る」
僕は礼を言ってモバイルバッテリーをポケットに入れた。後で充電しておこうと思った。
エレベーターは五階で止まった。
「屋上が特等席なんだけど、ここからは外の階段でないと行けないんだ」
通路をいったん突き当りまで進み、建物の外壁に設置された非常階段を使うことになった。
階段を上っていく途中、後ろから先輩が話しかけてきた。
「なんかさっきまでより音も光も強くなってない? 地上にいた時よりも花火が近くなっているからかな?」
「そうかもしれませんね」
前を行く夏彦に聞かれたら面倒だったけれど、幸い花火の音が僕の声をかき消してくれた。
「着いたぜ。さあ、見ろ。特別観覧席だ」
階段を上りきり、ついに屋上にやってきた。
「うわあ、これはズルい!」
僕よりも先に那由多先輩が感嘆の声を上げた。
僕は心の中で先輩に同意する。
屋上は僕が想像していたよりも遥かに広く、ちょっとしたテニスコートほどのスペースがあった。そして何よりも高さがある。
地上から見える花火は建物にはばまれて、常にどこかが欠けてしまっていた。しかしここではほぼすべてが完全な形で見える。
折よく一発の大玉が打ち上げられた。
空に上っていくまでの音が全然違かった。
花火は天頂まで上り詰めると、一瞬、沈黙した。
直後、矢のように尖った光が放射状へ広がった。
それは僕にとってはまったく初めて見るタイプの花火だった。
「ああ、聖礼花だ。見たかったんだ、これ」
那由多先輩がため息をつきながらつぶやいた。
「せいれんか?」
小さな声で僕は聞き返した。
幸いなことに夏彦は屋上のあちらこちらにいる人(夏彦の親戚だろうか?)のところへ行って、買ってきたジュースを配って回っていたので不審がられることはなかった。
「ホーリーの聖と、礼節の礼、それと花火の花で聖礼花。S木煙火店っていう花火メーカー特有の花火なんだよ」
「花火にもメーカーとかあるんですか?」
「それはそうだよ。色の出し方とか、形とか、会社によって全然違うんだ。実際、さっきのところはかなり特徴のある花火を作るところだから、すぐにわかったよね」
「ず、ずいぶんと詳しいんですね」
「まあね。去年、花火に来る前に相当予習していたから」
僕もネットでけっこう調べたつもりでいたけれど、主にスケジュールやアクセスの方で、花火そのものについてはほとんど無知なままだった。そもそもそういう発想すら今までなかったのだ。
「……ん?」
不意に引っかかりを感じて僕は眉をひそめた。
「……というか先輩、去年は勉強で多忙を極めていたんじゃなかったですっけ?」
「あ」
那由多先輩は珍しく気まずそうな顔をした。
「あー、うん、まあ、忙しかったね、実際問題。夏休み直前の全国模試は芳しくなかったから、急に焦って本格的に受験勉強を開始したところだったからね。でも……」
「でも?」
「キミから花火に誘われたのが自分でも意外なほど嬉しかったみたいで、ついつい下準備に力が入っちゃったんだよね。しかもこれがけっこうな沼でさ。本当に花火という世界は奥が深いよ。気がついたらすごく花火に詳しくなっていたわけ」
僕は那由多先輩のことをしばらく黙って眺めた。すると先輩は焦ったように弁解してきた。
「あ、でも調べていたのは勉強の合間だよ。疲れて頭が回らなくなった時とか、どうしても気分が優れない時とかね。……駄目だったかな?」
「いえ、駄目ってわけじゃないです。……ただ」
「ダダ? ダダイズム?」
「茶化さないでくださいよ。ただ、僕が先輩が勉強で猛烈に忙しいと思って、色々と、その……」
遠慮したり、焦ったり、無駄に悩んだりしてきたのだ。
その時、ひときわ鋭い音がして大玉が空へと飛び上がった。
僕らはつられて同時に空を見上げる。
夜空で弾ける大玉。
一見、大きいだけで普通の花火と変わらないように見えた。
と思いきや、円球の端の色がグラデーションするように変化した。
これもまた初めて見るタイプの花火だった。
「……こ、今度のはなんですか、いったい?」
「時差式発光球。すごい。これも見たかったやつなんだ。火薬の燃焼時間をズラすことで光をスライドさせる最先端の花火なんだよ」
僕は関心する一方で、あまりに豊富な知識を持つ先輩を眺めた。
勉強の合間とか言っていたけれど、果たして本当だろうか?
もっとも追求するつもりもなかったし、ましてや非難するつもりもなかった。
なんだかんだ言って去年、先輩が僕の花火の誘いに応じてくれたのは嬉しかったし、何より今、目の前の花火を一緒に見れていることが最高に嬉しかった。
それからも想像力に溢れた花火は続いた。
いつの間にか僕らは花火が打ち上がる度に笑いあっていた。
「後輩くん。キミ、表情筋が豊かではなかったんじゃないの?」
「そのはずなんですけど、あまりにも花火がすごすぎて」
「うん。確かにそうだね。感情が許容量を越えて覆水盆から溢れてる感じだよね」
那由多先輩も明らかに普段のテンションではなくなっていた。
「ありがとう。最高の場所だね、後輩くん!」
花火の光に照らされた那由多先輩は、僕がこれまでに見た中で一番の笑顔だった。