1 湊奏汰
文字数 5,390文字
季節を一度、夏から春に戻そう。八月から四月へ。
この時、僕は絶望していた。
高校二年生に進級した僕は念願の図書委員に就いた。本が好きだったし、前々から憧れていた仕事だった。
一年生の時は仕事が楽そうだと踏んだクラスメイトに奪われてしまったのだけど、新しいクラスにその手の人間はいなかった。おかげで立候補の先着順で就任することができた。
僕は自分で言うのもなんだけど、そこそこに本好きだった。そして本好きの大半がそうであるように、他の本好きに出会えずにいた。
SNSでは読書家はゴロゴロと見かける。でもそういった人たちとは接点がなく、結局のところディスプレイ越しの存在だった。
僕が欲しいのは身近で語らえる同志だった。
それがついに叶うことになるのだ。そう思って僕は図書委員の会合に向かった。希望を抱いて。
ところが第一回の会合で、僕の淡い期待は春の桜のように舞い散った。
そこにいたのは読書とはいえほとんど無縁の人間ばかりだった。
一応自己紹介があったのだけど、ハマっているアプリの名を出すことはあっても、誰も好きな本や作家については触れなかった。
図書委員だから本好きが集まるというのは、異世界に転生するよりもファンタジーなのだと思い知らされた。少なくとも僕の学校においては。
いや、もちろん表に出さないだけで本好きであることを隠している人もいるかもしれない。
かくいう僕も空気を読んで自己紹介ではほとんど何も語らなかったのだから。
では、どういう者同士はどうやって出会えばいいのだろう?
図書委員という場でそれが無理だというのなら、たぶん僕には不可能だ。そして不可抗力だ。
そんなわけで僕の希望はあっさり絶望に変わったわけだけど、すべてが無意味だったわけではない。
幸いだったのは図書委員の仕事は楽しかったことだ。普通に悪くない。
他の図書委員たちは面倒臭がって頻繁にサボっていた。
後で知ったことだけれど、もともとそういうつもりで入っている人間も多いとのことだった。
結果的に真面目に仕事をしている僕がそういう連中の穴埋めすることになったのだけど、一緒に仕事をするよりは気持ちが楽だった。
ちなみに図書委員の仕事は主に本の貸し借りをする窓口業務と、返却された本を棚に戻して整理することだった。あとは司書の先生から指示される諸々のこと。
先輩と出会ったのは、まさにこの司書の先生から頼まれた仕事をしている時のことだった。
その日、僕は放課後に閉架の蔵書整理を頼まれた。
図書室を普段利用しない人には馴染みがないだろうけど、閉架というのは手続きを経ないと入れない書庫のことだ。普通に閲覧できる方がオープンなので、反対のクローズで閉架。
僕はどことなく静謐な空気を漂わせる閉架という空間がけっこう好きだった。全集や資料価値の高い本が納められているからかもしれない。
僕は司書の先生から渡されたリストに従い、閉架から本を持ってくるように指示された。
リストに載っていた本の大半は知らないものばかりだった。
世の中はまだまだ僕の知らない本で溢れている。
そんな中、唯一、アントワーヌ・ド・サンテグジュペリの『夜間飛行』だけは聞いたことがあった。『星の王子さま』の作者だったからだ。
僕は閉架に入ると、本の管理番号を照らし合わせながら棚を順番に探していった。ところが他の本は簡単に見つけられたのに、なぜか最初からわかっているはずの『夜間飛行』だけが発見できない。
首をひねりつつ往復していると、ふと棚の裏で何かが動く気配があった。
僕は棚を回り込んだ。でも何もいなかった。
まさか幽霊? 図書室の閉架に?
それに学校で幽霊が出るとしたらトイレだろう。
そんなことを考えつつも、本も気配も突き止められないまま時間だけが過ぎた。
僕はいったん諦めて閉架を出た。
司書の先生に頼まれた本を渡し、一冊だけ見つけられなかったことを侘びた。
先生は忙しかったようで「いいよ。その辺に置いておいて」とこちらを見ずに言った。
僕は頼まれた仕事は終わったと思ったので、閉架の入室カードを取り出した。
図書委員といっても一学生に過ぎないので、閉架に出入りする度に記録をつけなければならない。
ふと僕以外にもう一人分、入室カードが机の隅に置かれていることに気がついた。
もしかしてさっきの気配はこの人だったでのは?
僕はカードに書かれた名前を見た。
那由多宇宙
特徴的な名前だったし、聞き覚えがあるような気もした。でも特定できる顔は思い当たらなかった。
僕は入室カードを持って司書の先生に訊ねた。
「この人の受付をしたのは先生ですか?」
先生は一瞥して答えた。
「いいえ、私はやっていないわ」
「えっ?」
閉架には司書の先生か図書委員のどちらかが受付をする決まりになっている。
僕はやっていない。そして先生もやっていないとなると、無断入室ということになる。
これは由々しき事態だ。だけど司書の先生は忙しいのかあまり気にかけていないようだった。
でも僕は見過ごすことができなかった。
「僕、もう一度行ってきます!」
僕は足早に閉架へと引き返した。
一度かけた鍵を開け、中へと入った。
閉架は先ほどと変わらずに静まり返っていたけれど、今は誰かが息を潜めていることを僕は知っている。
「隠れているのはわかっています。出てきてください」
僕は閉架全体に通るように呼びかけた。
図書室は騒がないのが原則だけれど、ルールを破っている利用者がいるとなると話は別だ。
返事はない。が、わずかに床が軋む音がした。
「もう一度しか言いません。出てきてください!」
僕は語調を強めて言った。
自分で言うのもなんだけど、普段の僕はこんなにアクティブな言動は取らない。
どちらかといえば言いたいことがあっても口に出せないし、その方が結果的に周りとの摩擦が少なくなると考えてしまう性質だ。
だけど今だけ妙に強気だったのは、たぶん図書委員の仕事を通じて多かれ少なかれかれプライドのようなものが芽生えていたからなのかもしれない。
「……よくわからないけど、何?」
しばしの間の後、書棚の裏から一人の女子生徒が不審そうに顔を出した。
……ん?
なんとなく見覚えがある人のような気がした。
でもはっきりとは思い出せなかったし、相手もこちらのことを知らない様子だった。
まあ、同じ校舎で学校生活を送っているのだから、すれ違ったことくらいはあるだろう。
逆にまったくの初対面という方がおかしいはずだ。
僕は入室カードの名前を思い出して口を開いた。
「那由多宇宙さんですね? 今すぐに閉架から出てください。不正は割れているんです」
「……不正って何? あと誰? キミは」
那由多宇宙は怪訝そうな表情を深めながら棚の裏から全身を現した。
「閉架に無断で入室したことです」
「記入はしたはずだけど? 入室カードなら」
「自分で書けばいいってわけではありません。あれは司書の先生か図書委員に受理してもらって初めて入室が許可されるんです」
故意にせよ過失にせよ、ここまで言えば話が通じるだろう。
そう思ったのに、那由多宇宙は謝罪するどころか表情をさらに険しくさせた。
「……受理されていなかった、と言いたいのかな? キミは」
まだしらばっくれるのか、呆れたけれど僕は我慢強く答えることにした。
「はい。司書の先生は身に覚えがないと言ってますし、図書委員の僕も同様です」
「図書委員なんだ、キミ。一年生?」
「二年生です。今年の春から図書委員に就任しました」
「へえ、そうなんだ。なるほどね」
那由多宇宙は急に砕けた調子で言った。
「でも、おかしいなあ。図書委員は確かに見たはずなんだけど。間違いないんだけどねえ」
「何度も言いますが、僕は見ていません。それに嘘もついていません」
「わたしだってついてないんだけどね。嘘は」
「………………」
「………………」
「埒が明かないのでまずはここから出ましょう」
会話が平行線になりそうだったので、僕は閉架からの退室を促した。
不正を指摘しても動じない。それどころか学年を告げたあたりから余裕のある態度になった。たぶん相手は三年生なのだろう。
舐められているとまでは言わないけれど、年上というものは往々にしてそういう態度を取るものだ。
でも閉架の外には司書の先生がいる。
流石にそこでも不遜な態度でいられるわけはないだろう。
「いいよ。どっちみちそろそろ出ようかと思っていたところだからね、わたしも」
那由多宇宙はあっさりと応じた。
「その前に持っている本をこちらに渡してください」
僕は那由多宇宙が抱えている本を指し示した。
「本って?」
「アントワーヌ・ド・サンテグジュペリの『夜間飛行』です」
「知ってるの、キミ。これを?」
「読んだことはありませんが、作者の名前は知ってます。有名どころですし」
「へえ。そうなんだ」
那由多宇宙は意外そうな顔になった。
「やるじゃん」
「いや、意味がわかりませんけど。さあ、渡してください」
「別にわたしが持っていってもいいけど? それくらいの労働はするよ?」
「不正入室ですので、そもそもその本を手にしていること自体がありえないわけです」
「あ、そう。そこまで言うのならどうぞ。お納めください」
僕は那由多宇宙から『夜間飛行』を受け取ると、彼女を先に出るように促した。
「それにしてもキミはせっかく見どころがありそうなのに、ちょっと抜けているところがあるようだね」
閉架を出る際、那由多宇宙は謎かけするように言ってきた。
でも僕は上級生のマウントだと思って無視することにした。
この時点でまともに相手をしてはいけない相手、という予感めいたものが僕にもあったのだと思う。
ただしもう遅かったのだけれど。
僕は那由多宇宙の後に続いて閉架を出た。
窓口カウンターに座っていた司書の先生がちょうど顔を上げて僕らと目があった。
「ご苦労さま」
司書の先生が言ったのはそれだけだった。
「…………?」
僕が戸惑っていたら、横から那由多宇宙が朗らかな声で返事をした。
「お疲れ様です」
司書の先生は返事をしなかったが、そこには阿吽の呼吸のようなものがあった。
僕が頭の中に大量の疑問符を抱え込んでいると、那由多宇宙はそれを見透かしたかのように口元を吊り上げた。
「キミもお疲れ様だね、後輩 くん」
――後輩。
その言葉は最初、学年の差で使われる広義もののように聞こえた。
だけど何か違和感があった。
言葉の響きから、もっと狭義の意味合いで使われているように聞こえた。
例えば部活動のように。
あるいは……
あるいは!?
僕は唐突にその可能性に思い至った。
「……えっと、その、もしかして先輩は、図書委員の先輩 、なんですか?」
しどろもどろになりながら訊ねたら、那由多宇宙はニヤッと笑った。
「どうだろう。わたしにはわからないな。あいにくわたしも人の顔と名前を覚えるのは苦手でね。でも、キミも図書委員だと言うのなら、そうなるんじゃないかな」
「……すいませんでした」
話を整理すると、次のようになった。
那由多先輩は僕より先に図書室に来ていて、閉架での蔵書整理を手伝っていた。ところが閉架でそのまま個人的な本の物色にふけってしまった。なかなか戻ってこない彼女に業を煮やした司書の先生が、後から来た僕に改めて蔵書整理を頼んできたというのだ。
「いや、でも、だったらなんで、わざわざ閉架の中で隠れるようなことをしたんですか? そのせいでいらぬ猜疑心を持ってしまったんですよ!」
那由多先輩は悪びれない顔で言った。
「閉架って静謐な空気を感じるんだよね。そこで本を読むのがわたしは好きなんだけど、欲を言うなら誰にも邪魔されずに自由でいたかったわけ。で、後から来たキミが図書委員だとは露知らず、隠れていればすぐにいなくなるだろうって思ったんだ。誓って言うけどなかったよ、悪気は」
「そのせいであらぬ誤解に発展してしまったわけですが」
「そもそも先輩の顔と名前を覚えていないのが事の発端だったんじゃないかな、後輩くん」
先輩だって僕のことを覚えてなかったじゃないですか、と言いたかったが飲み込んだ。流石に後輩の立場でそれは言えない。
ちなみに少しだけ弁解させてもらうと、僕はこれまでの那由多先輩と図書委員の仕事で一緒になったことがなかった。
カウンター業務は同じ学年同士で入ることが多かったし、サボリがいてもだいたい一人で回してきた。
だから先輩とまともに顔を合わせたのは第一回の会合の時だけだったのだ。しかもその時は一度に何十人もの自己紹介が行われたのでとても覚えきれるものではなかった。
幸い(あるいは災い?)那由多先輩のことはしっかりと記憶に刻まれた。
同じ過ちを繰り返されなければいいだけ、とこの時の僕は思っていた。
この時、僕は絶望していた。
高校二年生に進級した僕は念願の図書委員に就いた。本が好きだったし、前々から憧れていた仕事だった。
一年生の時は仕事が楽そうだと踏んだクラスメイトに奪われてしまったのだけど、新しいクラスにその手の人間はいなかった。おかげで立候補の先着順で就任することができた。
僕は自分で言うのもなんだけど、そこそこに本好きだった。そして本好きの大半がそうであるように、他の本好きに出会えずにいた。
SNSでは読書家はゴロゴロと見かける。でもそういった人たちとは接点がなく、結局のところディスプレイ越しの存在だった。
僕が欲しいのは身近で語らえる同志だった。
それがついに叶うことになるのだ。そう思って僕は図書委員の会合に向かった。希望を抱いて。
ところが第一回の会合で、僕の淡い期待は春の桜のように舞い散った。
そこにいたのは読書とはいえほとんど無縁の人間ばかりだった。
一応自己紹介があったのだけど、ハマっているアプリの名を出すことはあっても、誰も好きな本や作家については触れなかった。
図書委員だから本好きが集まるというのは、異世界に転生するよりもファンタジーなのだと思い知らされた。少なくとも僕の学校においては。
いや、もちろん表に出さないだけで本好きであることを隠している人もいるかもしれない。
かくいう僕も空気を読んで自己紹介ではほとんど何も語らなかったのだから。
では、どういう者同士はどうやって出会えばいいのだろう?
図書委員という場でそれが無理だというのなら、たぶん僕には不可能だ。そして不可抗力だ。
そんなわけで僕の希望はあっさり絶望に変わったわけだけど、すべてが無意味だったわけではない。
幸いだったのは図書委員の仕事は楽しかったことだ。普通に悪くない。
他の図書委員たちは面倒臭がって頻繁にサボっていた。
後で知ったことだけれど、もともとそういうつもりで入っている人間も多いとのことだった。
結果的に真面目に仕事をしている僕がそういう連中の穴埋めすることになったのだけど、一緒に仕事をするよりは気持ちが楽だった。
ちなみに図書委員の仕事は主に本の貸し借りをする窓口業務と、返却された本を棚に戻して整理することだった。あとは司書の先生から指示される諸々のこと。
先輩と出会ったのは、まさにこの司書の先生から頼まれた仕事をしている時のことだった。
その日、僕は放課後に閉架の蔵書整理を頼まれた。
図書室を普段利用しない人には馴染みがないだろうけど、閉架というのは手続きを経ないと入れない書庫のことだ。普通に閲覧できる方がオープンなので、反対のクローズで閉架。
僕はどことなく静謐な空気を漂わせる閉架という空間がけっこう好きだった。全集や資料価値の高い本が納められているからかもしれない。
僕は司書の先生から渡されたリストに従い、閉架から本を持ってくるように指示された。
リストに載っていた本の大半は知らないものばかりだった。
世の中はまだまだ僕の知らない本で溢れている。
そんな中、唯一、アントワーヌ・ド・サンテグジュペリの『夜間飛行』だけは聞いたことがあった。『星の王子さま』の作者だったからだ。
僕は閉架に入ると、本の管理番号を照らし合わせながら棚を順番に探していった。ところが他の本は簡単に見つけられたのに、なぜか最初からわかっているはずの『夜間飛行』だけが発見できない。
首をひねりつつ往復していると、ふと棚の裏で何かが動く気配があった。
僕は棚を回り込んだ。でも何もいなかった。
まさか幽霊? 図書室の閉架に?
それに学校で幽霊が出るとしたらトイレだろう。
そんなことを考えつつも、本も気配も突き止められないまま時間だけが過ぎた。
僕はいったん諦めて閉架を出た。
司書の先生に頼まれた本を渡し、一冊だけ見つけられなかったことを侘びた。
先生は忙しかったようで「いいよ。その辺に置いておいて」とこちらを見ずに言った。
僕は頼まれた仕事は終わったと思ったので、閉架の入室カードを取り出した。
図書委員といっても一学生に過ぎないので、閉架に出入りする度に記録をつけなければならない。
ふと僕以外にもう一人分、入室カードが机の隅に置かれていることに気がついた。
もしかしてさっきの気配はこの人だったでのは?
僕はカードに書かれた名前を見た。
特徴的な名前だったし、聞き覚えがあるような気もした。でも特定できる顔は思い当たらなかった。
僕は入室カードを持って司書の先生に訊ねた。
「この人の受付をしたのは先生ですか?」
先生は一瞥して答えた。
「いいえ、私はやっていないわ」
「えっ?」
閉架には司書の先生か図書委員のどちらかが受付をする決まりになっている。
僕はやっていない。そして先生もやっていないとなると、無断入室ということになる。
これは由々しき事態だ。だけど司書の先生は忙しいのかあまり気にかけていないようだった。
でも僕は見過ごすことができなかった。
「僕、もう一度行ってきます!」
僕は足早に閉架へと引き返した。
一度かけた鍵を開け、中へと入った。
閉架は先ほどと変わらずに静まり返っていたけれど、今は誰かが息を潜めていることを僕は知っている。
「隠れているのはわかっています。出てきてください」
僕は閉架全体に通るように呼びかけた。
図書室は騒がないのが原則だけれど、ルールを破っている利用者がいるとなると話は別だ。
返事はない。が、わずかに床が軋む音がした。
「もう一度しか言いません。出てきてください!」
僕は語調を強めて言った。
自分で言うのもなんだけど、普段の僕はこんなにアクティブな言動は取らない。
どちらかといえば言いたいことがあっても口に出せないし、その方が結果的に周りとの摩擦が少なくなると考えてしまう性質だ。
だけど今だけ妙に強気だったのは、たぶん図書委員の仕事を通じて多かれ少なかれかれプライドのようなものが芽生えていたからなのかもしれない。
「……よくわからないけど、何?」
しばしの間の後、書棚の裏から一人の女子生徒が不審そうに顔を出した。
……ん?
なんとなく見覚えがある人のような気がした。
でもはっきりとは思い出せなかったし、相手もこちらのことを知らない様子だった。
まあ、同じ校舎で学校生活を送っているのだから、すれ違ったことくらいはあるだろう。
逆にまったくの初対面という方がおかしいはずだ。
僕は入室カードの名前を思い出して口を開いた。
「那由多宇宙さんですね? 今すぐに閉架から出てください。不正は割れているんです」
「……不正って何? あと誰? キミは」
那由多宇宙は怪訝そうな表情を深めながら棚の裏から全身を現した。
「閉架に無断で入室したことです」
「記入はしたはずだけど? 入室カードなら」
「自分で書けばいいってわけではありません。あれは司書の先生か図書委員に受理してもらって初めて入室が許可されるんです」
故意にせよ過失にせよ、ここまで言えば話が通じるだろう。
そう思ったのに、那由多宇宙は謝罪するどころか表情をさらに険しくさせた。
「……受理されていなかった、と言いたいのかな? キミは」
まだしらばっくれるのか、呆れたけれど僕は我慢強く答えることにした。
「はい。司書の先生は身に覚えがないと言ってますし、図書委員の僕も同様です」
「図書委員なんだ、キミ。一年生?」
「二年生です。今年の春から図書委員に就任しました」
「へえ、そうなんだ。なるほどね」
那由多宇宙は急に砕けた調子で言った。
「でも、おかしいなあ。図書委員は確かに見たはずなんだけど。間違いないんだけどねえ」
「何度も言いますが、僕は見ていません。それに嘘もついていません」
「わたしだってついてないんだけどね。嘘は」
「………………」
「………………」
「埒が明かないのでまずはここから出ましょう」
会話が平行線になりそうだったので、僕は閉架からの退室を促した。
不正を指摘しても動じない。それどころか学年を告げたあたりから余裕のある態度になった。たぶん相手は三年生なのだろう。
舐められているとまでは言わないけれど、年上というものは往々にしてそういう態度を取るものだ。
でも閉架の外には司書の先生がいる。
流石にそこでも不遜な態度でいられるわけはないだろう。
「いいよ。どっちみちそろそろ出ようかと思っていたところだからね、わたしも」
那由多宇宙はあっさりと応じた。
「その前に持っている本をこちらに渡してください」
僕は那由多宇宙が抱えている本を指し示した。
「本って?」
「アントワーヌ・ド・サンテグジュペリの『夜間飛行』です」
「知ってるの、キミ。これを?」
「読んだことはありませんが、作者の名前は知ってます。有名どころですし」
「へえ。そうなんだ」
那由多宇宙は意外そうな顔になった。
「やるじゃん」
「いや、意味がわかりませんけど。さあ、渡してください」
「別にわたしが持っていってもいいけど? それくらいの労働はするよ?」
「不正入室ですので、そもそもその本を手にしていること自体がありえないわけです」
「あ、そう。そこまで言うのならどうぞ。お納めください」
僕は那由多宇宙から『夜間飛行』を受け取ると、彼女を先に出るように促した。
「それにしてもキミはせっかく見どころがありそうなのに、ちょっと抜けているところがあるようだね」
閉架を出る際、那由多宇宙は謎かけするように言ってきた。
でも僕は上級生のマウントだと思って無視することにした。
この時点でまともに相手をしてはいけない相手、という予感めいたものが僕にもあったのだと思う。
ただしもう遅かったのだけれど。
僕は那由多宇宙の後に続いて閉架を出た。
窓口カウンターに座っていた司書の先生がちょうど顔を上げて僕らと目があった。
「ご苦労さま」
司書の先生が言ったのはそれだけだった。
「…………?」
僕が戸惑っていたら、横から那由多宇宙が朗らかな声で返事をした。
「お疲れ様です」
司書の先生は返事をしなかったが、そこには阿吽の呼吸のようなものがあった。
僕が頭の中に大量の疑問符を抱え込んでいると、那由多宇宙はそれを見透かしたかのように口元を吊り上げた。
「キミもお疲れ様だね、
――後輩。
その言葉は最初、学年の差で使われる広義もののように聞こえた。
だけど何か違和感があった。
言葉の響きから、もっと狭義の意味合いで使われているように聞こえた。
例えば部活動のように。
あるいは……
あるいは!?
僕は唐突にその可能性に思い至った。
「……えっと、その、もしかして先輩は、
しどろもどろになりながら訊ねたら、那由多宇宙はニヤッと笑った。
「どうだろう。わたしにはわからないな。あいにくわたしも人の顔と名前を覚えるのは苦手でね。でも、キミも図書委員だと言うのなら、そうなるんじゃないかな」
「……すいませんでした」
話を整理すると、次のようになった。
那由多先輩は僕より先に図書室に来ていて、閉架での蔵書整理を手伝っていた。ところが閉架でそのまま個人的な本の物色にふけってしまった。なかなか戻ってこない彼女に業を煮やした司書の先生が、後から来た僕に改めて蔵書整理を頼んできたというのだ。
「いや、でも、だったらなんで、わざわざ閉架の中で隠れるようなことをしたんですか? そのせいでいらぬ猜疑心を持ってしまったんですよ!」
那由多先輩は悪びれない顔で言った。
「閉架って静謐な空気を感じるんだよね。そこで本を読むのがわたしは好きなんだけど、欲を言うなら誰にも邪魔されずに自由でいたかったわけ。で、後から来たキミが図書委員だとは露知らず、隠れていればすぐにいなくなるだろうって思ったんだ。誓って言うけどなかったよ、悪気は」
「そのせいであらぬ誤解に発展してしまったわけですが」
「そもそも先輩の顔と名前を覚えていないのが事の発端だったんじゃないかな、後輩くん」
先輩だって僕のことを覚えてなかったじゃないですか、と言いたかったが飲み込んだ。流石に後輩の立場でそれは言えない。
ちなみに少しだけ弁解させてもらうと、僕はこれまでの那由多先輩と図書委員の仕事で一緒になったことがなかった。
カウンター業務は同じ学年同士で入ることが多かったし、サボリがいてもだいたい一人で回してきた。
だから先輩とまともに顔を合わせたのは第一回の会合の時だけだったのだ。しかもその時は一度に何十人もの自己紹介が行われたのでとても覚えきれるものではなかった。
幸い(あるいは災い?)那由多先輩のことはしっかりと記憶に刻まれた。
同じ過ちを繰り返されなければいいだけ、とこの時の僕は思っていた。