2 那由多宇宙
文字数 2,794文字
週明けの放課後、僕は気持ちを新たに図書室に向かった。
失敗は誰にでも起こり得る。肝要なのはそれを後に引きずらないことだ。
そう思って図書室のドアを開けたら、カウンターに那由多先輩が座っていた。
僕は図書室に足を踏み入れる前にドアを素早く閉じた。
スマホを取り出してクラウド上の図書委員のシフトを確認する。
今日は同じ二年生のN島とペアを組むことになっていた。元クラスメイトで、一年生の頃に僕から図書委員を奪っていった男だ。
前からサボり癖があることは知っていたので、今日ここに来ていないことは想定内だった。
ただ代わりに那由多先輩の姿があるのが解せなかった。
律儀に代役を立てるような奴ではないし、立てるにしろ同じ学年からにするだろう。
悩んでいたら図書室のドアが内側から開かれた。
「やあ。こんなところで何やってるのかな、後輩くん。知ってるかどうかわからないけど、ここのドアは自動ドアじゃないんだよ? いつまで待っていても勝手に開いたりはしないんだ」
「いえ、それはわかっています。というか学校のどこにも自動ドアなんてないじゃないですか」
「ところがそうでもないんだよ。来賓用の出入り口だけは自動ドアなんだ。二年生なのにまだまだ学校に詳しくないね、後輩くん」
見つかって早くも那由多先輩のペースに巻き込まれている気がしたけれど、見つかった以上、引き返すことはできない。
僕は諦めて中に入ると、先輩と並んでカウンター窓口に座った。
「今日のシフトは二年のN島だったと思うんですが」
図書室に全然人がいないのを確認して、僕は那由多先輩に訊ねた。
「誰それ?」
「今日、僕とカウンター業務をすることになっていた二年生です」
「どうせサボリーズの一員なんでしょ、そのナニ島って人もさ」
「サボリーズ?」
「サボりの常習犯の意」
「確かにその手の類ですね」
那由多先輩は椅子に深くもたれかかり、天井を見上げながら言った。
「最近、図書委員は楽な仕事だと決めつけて入ってくる奴らが多くてね。立候補して入ってくるくせに率先してサボるから質が悪いよ。そもそも本が好きですらない。由々しき事態だよ。そう思わないかい、後輩くんは?」
「………………」
僕は驚きのあまりしばらく返事を忘れていた。
「急に黙りこくってどうしたのかな、後輩くん?」
「あ、いえ。あまりにも僕が図書委員になってから感じていたことと同じだったもので」
「へえ。キミもこの状況に憂いを感じていたんだ? 見込みがありそうな気はしてたんだけど、なかなかどうして殊勝な精神の持ち主だね」
先日の閉架での印象により、僕は那由多先輩という人間は、本の知識には多少長けているものの、ちょっと狡猾で奔放な人なのだと思い込んでいた。
ところが今日の先輩はかなりまともだった。というか非常に真面目だった。
そのギャップに戸惑いつつも、僕は興味を抑えきれずに訊ねた。
「それで先輩はシフトに入ってないのにカウンター業務を?」
那由多先輩は即答した。
「図書室の貸出業務が万が一にも停止していたら、本を借りたい人の知的な歩みを滞らせることになるからさ。だから自分の身が空いている時はできるだけ来るようにしているんだ」
「それって以前からですか?」
「あくまで可能な範囲内で」
「でもこの前、閉架で会うまで僕は先輩と図書室で会ったことってなかったと思うんですが」
一緒にカウンター業務をしていれば、少なくとも顔と名前のどちらかは覚えていたはずだ。
「それはキミがちゃんと図書委員の業務をこなしてくれてたからだよ。誰かいてれば、わたしがいる必要はないからさ。閉架で会ったのはほぼイレギュラーだね」
「それじゃあ、今日は?」
そう訊ねた途端、先輩は目を細めて口元を歪めた。
「興味があったからだよ、後輩くんに」
「は?」
先輩は腰を浮かせて椅子を僕の方に寄せてきた。
「後輩くんは好きな人、いる?」
距離を縮めて訊いてきた。
「はい?」
「いないわけないよね? ここにいるっていうことはさ」
「はあ?」
僕にとって混乱しかない質問だった。
そもそもまともに口を聞くのが二回目なのに、こんな質問なんてするものだろうか。
いや、ありえないだろう。でも現にされている。
思えば今まで僕は女子の先輩というスタンスの人とあまり接してきたことがなかった。
案外、これくらい急に恋バナが持ち出されてもおかしくはないのかもしれない。いや、どうだろう。
しばらく下手なルービックキューブのように思考がぐるぐるしていたが、ふと先輩がずっと僕から目を離さないでいることに気がついた。
返事を待っている、のとは少し違う。動物や昆虫の様子を観察している、というのに近い気がした。
僕は不意に先輩の意図を察した。というよりも見抜いた。
「強いて挙げるなら、太宰治ですね」
「……異性だと?」
「綿矢りさとかも好きです」
「…………」
「…………」
那由多先輩はしばらくすると口元を緩めて笑った。
「……やるじゃん、後輩くん」
ふう、と僕はため息をついた。
「というか、わざと勘違いさせるような言い方をしたんじゃないですか?」
「さて、ね。なんのことやら」
「質悪いですよ。真面目な話の後にプライベートな質問、と思わせてやっぱり本の話なんて」
「わたしは最初から本にまつわる話しかしてないつもりだったけどね?」
先輩は悪びれもなく答える。
「もしも僕が馬鹿正直に好きな異性の話とかしてたらどうしたんですか?」
先輩は即座に答えた。
「それはもちろん全力でネタにするよね。知り合ったばかりの相手にそんな個人情報をうかうか漏らしちゃう方が悪いんだしさ。相手がどのクラスのどんな人間か綿密に調べ上げて、後輩くんの弱みとして完全保存するよ」
「やっぱり陥れる気があったんじゃないですか!」
那由多先輩は鼻に皺を寄せながら笑った。どうやらそれが先輩の機嫌の良い時の笑い方のようだった。
幸いにもその後、図書室に利用者が訪れたので雑談は終了した。
さんざん人を手球に取るようなことを言ってきたかと思えば、人のいるところではきっちりと私語を慎む。そして図書委員の仕事は嘆息しそうになるほど丁寧だった。
生真面目なのか不真面目なのかつかめなかった。むしろ接するほどにわからなくなる。
(……この人とはあまり関わらない方がいいんじゃないだろうか?)
具体的に何が、というわけではないけれど、漠然とそんな予感を抱いた。
なんというか自分には手に負えないタイプの人間のような気がしたのだ。
しかし世の中というのは自分の意思とは逆の流れになっていたりするようだった。
どうやらこの時既に、僕は那由多先輩に気に入られていたらしい。
失敗は誰にでも起こり得る。肝要なのはそれを後に引きずらないことだ。
そう思って図書室のドアを開けたら、カウンターに那由多先輩が座っていた。
僕は図書室に足を踏み入れる前にドアを素早く閉じた。
スマホを取り出してクラウド上の図書委員のシフトを確認する。
今日は同じ二年生のN島とペアを組むことになっていた。元クラスメイトで、一年生の頃に僕から図書委員を奪っていった男だ。
前からサボり癖があることは知っていたので、今日ここに来ていないことは想定内だった。
ただ代わりに那由多先輩の姿があるのが解せなかった。
律儀に代役を立てるような奴ではないし、立てるにしろ同じ学年からにするだろう。
悩んでいたら図書室のドアが内側から開かれた。
「やあ。こんなところで何やってるのかな、後輩くん。知ってるかどうかわからないけど、ここのドアは自動ドアじゃないんだよ? いつまで待っていても勝手に開いたりはしないんだ」
「いえ、それはわかっています。というか学校のどこにも自動ドアなんてないじゃないですか」
「ところがそうでもないんだよ。来賓用の出入り口だけは自動ドアなんだ。二年生なのにまだまだ学校に詳しくないね、後輩くん」
見つかって早くも那由多先輩のペースに巻き込まれている気がしたけれど、見つかった以上、引き返すことはできない。
僕は諦めて中に入ると、先輩と並んでカウンター窓口に座った。
「今日のシフトは二年のN島だったと思うんですが」
図書室に全然人がいないのを確認して、僕は那由多先輩に訊ねた。
「誰それ?」
「今日、僕とカウンター業務をすることになっていた二年生です」
「どうせサボリーズの一員なんでしょ、そのナニ島って人もさ」
「サボリーズ?」
「サボりの常習犯の意」
「確かにその手の類ですね」
那由多先輩は椅子に深くもたれかかり、天井を見上げながら言った。
「最近、図書委員は楽な仕事だと決めつけて入ってくる奴らが多くてね。立候補して入ってくるくせに率先してサボるから質が悪いよ。そもそも本が好きですらない。由々しき事態だよ。そう思わないかい、後輩くんは?」
「………………」
僕は驚きのあまりしばらく返事を忘れていた。
「急に黙りこくってどうしたのかな、後輩くん?」
「あ、いえ。あまりにも僕が図書委員になってから感じていたことと同じだったもので」
「へえ。キミもこの状況に憂いを感じていたんだ? 見込みがありそうな気はしてたんだけど、なかなかどうして殊勝な精神の持ち主だね」
先日の閉架での印象により、僕は那由多先輩という人間は、本の知識には多少長けているものの、ちょっと狡猾で奔放な人なのだと思い込んでいた。
ところが今日の先輩はかなりまともだった。というか非常に真面目だった。
そのギャップに戸惑いつつも、僕は興味を抑えきれずに訊ねた。
「それで先輩はシフトに入ってないのにカウンター業務を?」
那由多先輩は即答した。
「図書室の貸出業務が万が一にも停止していたら、本を借りたい人の知的な歩みを滞らせることになるからさ。だから自分の身が空いている時はできるだけ来るようにしているんだ」
「それって以前からですか?」
「あくまで可能な範囲内で」
「でもこの前、閉架で会うまで僕は先輩と図書室で会ったことってなかったと思うんですが」
一緒にカウンター業務をしていれば、少なくとも顔と名前のどちらかは覚えていたはずだ。
「それはキミがちゃんと図書委員の業務をこなしてくれてたからだよ。誰かいてれば、わたしがいる必要はないからさ。閉架で会ったのはほぼイレギュラーだね」
「それじゃあ、今日は?」
そう訊ねた途端、先輩は目を細めて口元を歪めた。
「興味があったからだよ、後輩くんに」
「は?」
先輩は腰を浮かせて椅子を僕の方に寄せてきた。
「後輩くんは好きな人、いる?」
距離を縮めて訊いてきた。
「はい?」
「いないわけないよね? ここにいるっていうことはさ」
「はあ?」
僕にとって混乱しかない質問だった。
そもそもまともに口を聞くのが二回目なのに、こんな質問なんてするものだろうか。
いや、ありえないだろう。でも現にされている。
思えば今まで僕は女子の先輩というスタンスの人とあまり接してきたことがなかった。
案外、これくらい急に恋バナが持ち出されてもおかしくはないのかもしれない。いや、どうだろう。
しばらく下手なルービックキューブのように思考がぐるぐるしていたが、ふと先輩がずっと僕から目を離さないでいることに気がついた。
返事を待っている、のとは少し違う。動物や昆虫の様子を観察している、というのに近い気がした。
僕は不意に先輩の意図を察した。というよりも見抜いた。
「強いて挙げるなら、太宰治ですね」
「……異性だと?」
「綿矢りさとかも好きです」
「…………」
「…………」
那由多先輩はしばらくすると口元を緩めて笑った。
「……やるじゃん、後輩くん」
ふう、と僕はため息をついた。
「というか、わざと勘違いさせるような言い方をしたんじゃないですか?」
「さて、ね。なんのことやら」
「質悪いですよ。真面目な話の後にプライベートな質問、と思わせてやっぱり本の話なんて」
「わたしは最初から本にまつわる話しかしてないつもりだったけどね?」
先輩は悪びれもなく答える。
「もしも僕が馬鹿正直に好きな異性の話とかしてたらどうしたんですか?」
先輩は即座に答えた。
「それはもちろん全力でネタにするよね。知り合ったばかりの相手にそんな個人情報をうかうか漏らしちゃう方が悪いんだしさ。相手がどのクラスのどんな人間か綿密に調べ上げて、後輩くんの弱みとして完全保存するよ」
「やっぱり陥れる気があったんじゃないですか!」
那由多先輩は鼻に皺を寄せながら笑った。どうやらそれが先輩の機嫌の良い時の笑い方のようだった。
幸いにもその後、図書室に利用者が訪れたので雑談は終了した。
さんざん人を手球に取るようなことを言ってきたかと思えば、人のいるところではきっちりと私語を慎む。そして図書委員の仕事は嘆息しそうになるほど丁寧だった。
生真面目なのか不真面目なのかつかめなかった。むしろ接するほどにわからなくなる。
(……この人とはあまり関わらない方がいいんじゃないだろうか?)
具体的に何が、というわけではないけれど、漠然とそんな予感を抱いた。
なんというか自分には手に負えないタイプの人間のような気がしたのだ。
しかし世の中というのは自分の意思とは逆の流れになっていたりするようだった。
どうやらこの時既に、僕は那由多先輩に気に入られていたらしい。