18 二度目の花火大会
文字数 7,109文字
今年もまた地元の秋葉駅は花火客によって混雑していた。
もっとも二回目だからだろうか。人の数は確かに多いけれども戸惑うほどではなかった。 夏彦も同様だったようで、長い列を前にしてもあくびをしていた。
一方、一人だけ浮足立っている人がいた。夏鈴さんだ。
「な、なんスか? ここの人たち、みんな大灯の花火に行くつもりッスか? こんな田舎町のどこにこんなに人が潜んでいたっていうんスか。見ろ。まるで人がゴミのよう……」
「そんなこと言ったらお前だってゴミの一つだろうが」
夏彦が夏鈴さんの頭を叩いた。叩き慣れているのか妙に軽快な音が鳴った。
その途端、夏鈴さんが鳥獣の類のように吠えた。
「せっかく整えた髪を、叩くな! 崩すな! バカ兄貴!」
「ちょ、お前。急にマジギレするなよ。ショートなんだから整えようがないじゃないか」
「ショートだって浴衣に合わせてセットしてきたんだっての!」
「……そ、そうなのか」
そうなのか、と夏彦の隣で僕も心の中で呟いた。
「だいたいあたしがゴミだとしたら兄貴は何? 燃えるゴミ? 生ゴミ? 粗大ゴミ? リサイクルは……できないゴミだね」
「お、おまえ。せっかく花火に連れてってやるってのにえらい剣幕だな。俺がいなかったらこいつは今日ここに来ていないんだぜ?」
そう言って夏彦は僕のことを指さして言った。
ちょっと誇張が入っているけれども僕は黙っていた。
夏彦から誘われたみたいになっているけれども、頼んだのは僕の方からだ。
それに花火まで見に行くかどうかは実はまだ決めていなかった。
僕の目的は大灯駅前だった。
僕はずっと先輩の死を受け入れたつもりになっていた。
でも実際には目を背けていただけだった。
だから今日、そこに足を運んで自分の気持ちと向き合わなければならないと思ったのだ。
ちなみに夏彦には既にそれを伝えておいた。我ながらこじらせているとは思ったけれど、彼は許諾してくれた。
気持ちを切り替えらることができたらたらそのまま花火を見に来ればいい、とも言ってくれた。
ただ、夏鈴さんには何も伝えていない。だから僕が一緒に花火を見にいくものと思い込んでいる。騙しているようで少し気は引けるが、気を遣わせたくないから仕方がない。
夏鈴さんは通常運転で夏彦と口論していた。
「それについては感謝しています。でも兄貴がいない方がもっとよかったです。もっと空気を読めるようになってください!」
「あのな、俺がいなかったら用意してある特等席に行けないんだぞ? そもそも俺の機嫌を損ねたらお前だけ入れないようにすることだって可能なんだからな。わかったら少しは態度を改めろ」
「はいはい、感謝感謝。兄貴様の行いのすべてにマジ感謝」
いつものように長くなりそうだったので、僕は先に切符購入の列に並んでおいた。去年学んだように、こちらの進みはかなり早い。あっという間に三人分の往復券を購入し、僕は二人のところに戻ってきた。
「は? もう切符を買ってきたのか? 早いな。っていうか押し付けたみたいで悪かった」
「兄貴がくだらない話をしつこく続けたせいじゃん!」
「いいから奏汰にさっさと切符代を払え」
「いや、別に一人が並べば済むことだったし。気にしなくていいよ」
僕らは切符とお金のやりとりを済ませると改札の列に並んだ。
夏鈴さんは「もう喧嘩はしないッス」と宣言したが、改札を抜けて電車に乗り込むと「近い」「寄るな」「臭い」などと、事ある毎に夏彦に八つ当たりを始めた。
発車の際にはよろけて夏彦のみぞおちに肘をめり込ませたりもしていた。
もはやどこから偶然でどこまで狙っているのかわからなかった。
夏彦にとっては災難以外の何物でもないようだったけど、少なくとも僕にとっては移動時間を退屈せずに過ごすことができた。
やっぱりこの二人についてきてよかった、と僕は思った。
もっともそんな気分もH駅辺りまでだった。
大灯駅まで工程の半分を過ぎた辺りから僕は徐々に息苦しさを感じ始めていた。
「……なんだかちょっと空気がこもってない?」
訊ねたけれども二人ともピンピンしている。
気分は駅を通過するごとに悪化していっているようだった。
「センパイ? もしかして具合悪いッスか?」
夏鈴さんに訊ねられたものの、心配させたくなかったので反射的に僕は嘘をついた。
「いや、実は眠いだけなんだ。昨日、遅くまで起きて勉強していたものだから」
「そッスか。夏休みだからって不摂生は体によくないッスよ。健康な肉体は健全な精神に宿るって言うッスからね」
「逆だけどね」
笑って誤魔化しておいたけれど、夏彦にはどうやら勘づかれてしまったようだ。
「まあ、もうちょっとで着くはずだからな」
軽く肩を軽く叩かれた。
「次は大灯駅。大灯駅。降り口は――」
電車は減速しながら大灯駅のホームに入っていった。
来た。来てしまった。
具合のすぐれなさははっきりとした動悸に変わりつつあった。
車両にブレーキがかかり、ガクンと揺れて停車する。
「はぐれるなよ」
出入り口付近に立っていたため、僕らはドアが開くなり下車しなければならなかった。
まず夏彦が降り、その後に夏鈴さん、そして最後に僕が続いた。
ホームに降り立つなり横から人の波に飲まれそうになったが、どうにか二人から離れないようについていく。経験済みのこととはいえ、こればかりは息が止まりそうになるほどの混雑ぶりだった。
出口は去年と同じようにホームの柵を一部分だけ外して設けられていた。泳ぐようにしてそこを抜けると、人の波による視界が開けて大灯駅前に出た。
「うおおおおお。これはまるで運動会と文化祭の同時開催みたいッスね!」
先に駅前を一望していた夏鈴さんが驚嘆していた。
ホームまではとにかく人の多さに目が回るのだけど、駅前に出ると観光や待ち合わせの人などを一望できるので、一気にお祭りっぽさを感じ取れるのだ。
その気持ちはよくわかるし、一年前の僕もたぶん似たような心境だったはずだ。
でも一年前と今では気持ちが違う。僕は素直な気持ちでその町並みを見ることはできなかった。
「おい、夏鈴。お前、お花を摘みにいってこい」
いきなり夏彦が指示を出した。それはトイレに行くことの隠語なのだけど、まさかストレートに命令するとは思っていなかった。
「人前でなに言い出すんだ、このバカ兄貴!」
当然、夏鈴さんは激怒した。流石にこれはバカ扱いされても仕方がない。
「いや、俺は真面目に言ってるんだ。ここには駅のトイレと仮設トイレがあるが、ここから先は会場までトイレはほとんどない。途中で困らないように今のうちに済ませておいた方が賢明だ。去年の経験者が言うんだから間違いない」
「だからってそんな言い方する奴いるか。普通に言え、この兄貴・オブ・アホ!」
夏鈴さんは夏彦のみぞおちにパンチを繰り出し、怒り肩で駅舎の脇に並んだ仮設トイレへ向かっていった。
「奏汰は大丈夫か?」
「いや、お前の方こそ大丈夫なのかよ?」
夏彦はみぞおちを押さえて体をくの字に曲げていた。パンチがかなり深く入ったようだった。
「俺は大丈夫……じゃないけど、まあ、いつものことだ。それよりお前だよ」
「だから僕はトイレは大丈夫なんだけど」
「いや、別に俺が心配してるのはトイレじゃなくて、だな……」
「え? あ、ああ。ごめん。そういうことね」
僕は夏彦が何を心配していたのか理解した。というか、そもそもそのために僕は今日、彼に無理を言って同行させてもらったのだ。
僕は改めて大灯駅前をぐるりと見渡した。
町並みを正確に覚えているわけではないけれど、一年前に来た時とあまり変わっていないように見えた。
駅の出入口にある火薬玉のモニュメント。ロータリーの時計台。そして商店街の……。
気がついたら僕の足はそちらに向けて歩き出していた。
夏彦はついてこなかった。一度振り返ると彼は黙って頷いてくれた。
僕は人々の間をすり抜けながら前へと進んだ。
車道を挟んだ先の商店街のアーチの根本まで僕はやってきた。
一年前、先輩が事故に遭った現場だ。
当時は混乱していて、どうして先輩が駅舎から離れたこんなところにいたのかよくわからなかった。
でも今、この場に立ってみてすべてが理解できた。
ここからなら駅前をよく見通すことができた。夏彦が立っているのも見えたし、駅舎からの人の出入りも目の当たりにできた。そして向こうからはアーチが目印になってこちらの位置を教えやすい。
たぶん先輩は人多い中、僕のために合流しやすい場所を探してここに来たのだろう。
そして不運にもここで交通事故に巻き込まれて……。
僕はその時の光景を現実の風景に重ねそうになった。
でもそれは去年の出来事であり、今年ではない。
噂になっていた那由多先輩の幽霊も出てこない。
僕は目を瞑って十秒を数えた。そして目を開いた。
ここは2019年。【新元号】最初の夏だ。那由多先輩はもういない。
僕は踵を返して駅舎の方へと戻った。
夏彦は同じ場所から僕が引き換えしてくるのをずっと見守ってくれていた。
夏鈴さんはまだ戻ってきていないようだった。
「もういいのか?」
「たぶん、大丈夫」
「先輩の幽霊はいたか?」
僕は頭を左右に振った。それだけでは認めたことにならない気がして、ちゃんと口に出して言うことにした。
「いなかったよ」
「……そうか」
なぜか僕よりも夏彦の方が神妙な顔をしていたものだから、僕は笑いながら言った。
「夏彦の言った通りだったよ。ネットの噂なんてしょせんこんなものだね。おかげで目が覚めたよ。今日はありがとう。たぶん一人ではここまで来れなかったと思う」
明るく言ったのが功を奏したのか、夏彦は安堵したように口元を緩めた。
「それならよかったよ。安心したよ」
「おかげさまで」
「ところでなんだけど。お前、今日これからどうするんだ?」
「これから?」
「もう帰るのか? それともまだここにいるのか?」
「いやあ、正直なところよく考えてなかったんだ」
だったら、と夏彦は言った。
「俺たちと一緒に花火を見に来いよ。せっかくここまで遠出したんだから。それに今年は本当にいい場所を取ったんだ」
「いや、でも悪いよ。夏鈴さんのために確保した場所なんだろ?」
「ここまで来たら一人も二人も変わらないって。それに今日のやり取り見ててわかっただろ? 妹と二人にされた方が俺の負担が増すんだ。むしろ俺を助けると思ってついてきてくれよ」
たぶん夏彦は僕が負い目を持たないようにするために敢えてそう言っているのだろう。
無駄にイケメンだなこいつ、と思いながら僕は頷いた。
「わかった。ついて行くよ。せっかくの【新元号】最初の夏だしね」
「よし! そうと決まれば俺はトイレだ。お前は?」
ここから移動すると途中にトイレはない、という夏彦の言葉を思い出した。でも当面のところ必要には迫られない気がした。
「僕はいいよ。ここで待ってる」
「わかった。四十秒で済ませてくるからな」
「いや、別にそこまで急ぐことはないんだけど。ゴリアテに向かうわけでもないんだから」
夏彦は小走りで仮設トイレの方へ向かっていった。
僕は一人でその場に取り残されたけれど、そろそろ夏鈴さんも戻ってくるはずだ。
その間、僕はなんとはなしに駅前の人々を眺めた。
最初は一塊の群衆にしか思えていなかったけれど、じっと見ているうちに喜んでいる人、怒っている人、楽しそうな人など、色んな人がいることが見分けられるようになってきた。
花火という共通の目的がありながら、それぞれ異なる事情や感情を抱いている人が同じ場所に集まっている。これは本当はとても不思議なことなのでは、と思った。
(……後輩くん)
その時、聞き覚えのある声が僕の耳をかすめた。
僕は思わず後ろを振り返った。
スマホをいじっていた知らない人が驚いた顔で僕を見た。
あまりにも急に振り返ったせいかもしれない。
「すいません」
僕は頭を下げて前へ向き直った。
たぶん周りの色んな話し声が混ざり合って、たまたまそのように聞こえてしまったのだろう。
それにしてもたった今、過去から気持ちを切り替えたばかりだというのに。
僕は耳に残った声を追い出すように頭を振った。
夏彦と夏鈴さんはまだ戻ってこないのだろうか?
二人が向かったトイレの方を見たが、それらしき人はやってこない。
僕はスマホを取り出して夏彦から連絡が来ていないか確認した。
あいかわらずスマホの液晶はヒビだらけだけど、メッセージのやりとりくらいなら今のところ問題はない。
後輩くん。
またしてもその声が聞こえた。さっきよりもはっきりしていたが、出どころがわからなかった。
僕は必死に周りを見回した。
見慣れてきたとはいえものすごい人の数だ。
そんな中、人々の間を音もなくすり抜けていく人影が見えた。
収まっていたはずの動悸がぶり返し、急に息苦しくなった。
一瞬しか見えなかったが、その後姿には見覚えがあった。
「…………先輩?」
いや、そんなはずはない。
僕は固く目をつむって頭を左右に振った。
先輩は死んだ。幽霊もいない。だからもう見つけようがないのだ。
僕は深呼吸して胸の苦しさを落ち着けさせた。
それからゆっくりと目を開いた。
さっき見えた辺りにはそれらしき姿は見えなかった。
やっぱりただの見間違いだったのだ。
幻聴と幻覚をセットで体験するなんて、僕も相当どうかしているな。
そう思った矢先、ロータリーから少し離れたところで再び動く人影が見えた。今度は服装をしっかり目で捉えることができた。浴衣姿だった。
さらにその姿は車道を渡り、商店街のアーチの下へ流れるように移動していった。そこはついさっき僕が見に行った那由多先輩の事故現場だった。
感情を抑えることができず、僕は弾かれたように走り出していた。
気持ちばかりが先走り、体がついてこない。そのせいで周りの人とやたらとぶつかってしまった。
(夏彦と夏鈴さんが戻ってきたらどうするんだ?)
駅前から離れたことを自問する。
(確認したらすぐに戻ってくればいい。どうせ誰かや何かの見間違いなのだろうから)
頭の中で別の自分が自答した。
僕は商店街のアーチにたどり着いた。
見覚えのある浴衣姿の女子は、僕の視線を遮るように人の裏に回った。そして商店街の通りを奥へと移ろいでいった。
通行人が多いせいで早く走れなかったけれど、距離は徐々に縮まりつつあった。
髪を結い上げた後ろ姿はいよいよ近づき、あと少しで肩に手が届きそうになった。
突如、彼女の姿が霧散したようにかき消えた。
僕は呆然となって立ち尽くしたが、狭い路地が横に伸びていることに気がついた。
まさかここに? でも、どうやって?
半信半疑だったけれども僕はその路地に入った。ここまで来て確かめずに引き返すことなんてできない。
路地は奥まで続いていて、狭く、薄暗かった。
ふとその先に佇む人影を発見した。
それは一度見失ったと思っていた浴衣姿の女子だった。
建物の影が顔に落ちていて、正面を向いているのにはっきりと見えなかった。
僕は一歩、足を踏み出した。
今度はその場から動かず、もう逃げる素振りはなかった。
僕は二歩、三歩と歩みを加えて相手との距離を埋めていった。
あと数歩、というところで僕は立ち止まり、彼女へ問いかけた。
「……那由多、先輩?」
うつむき気味で見えづらかったけれど、もはや見間違いようがなかった。
それは那由多宇宙だった。図書委員の、僕の、先輩だった。
「先輩。那由多先輩!」
僕は馬鹿みたいに彼女を繰り返し呼んだ。
返事はなかった。
彼女の目には生気がなく、虚ろな瞳で僕を眺めているだけだった。
僕は霊感はないし、夏彦みたいにその手の知識があるわけではない。
それでも目の前の彼女が忌まわしいものであることはわかった。
簡潔に印象を述べるのなら、悪霊。人に仇なす存在にしか見えなかった。
でも僕は先輩に出会えてどうしようもなく嬉しかった。
どんな姿であれ、例え夢であったとしても、僕は彼女と再会したかった。
僕は先輩との距離をもっと詰めた。
先輩は垂れていた腕を上げてこちらへと伸ばしてきた。
それは僕を認識したからというよりは、人の動きに反応しただけのように見えた。
幽霊に触られると呪われたりするのだろうか?
そんなことが頭をよぎったが、だからといって躊躇することは何もない。
普通の人にとっては忌むべきことかもしれないが、僕にしてみれば願ってもいないことだ。
むしろ呪ってほしい。先輩に呪われるのなら本望だ。
「…………ゾ……」
先輩が喉の奥から人ならざる声を出した。
伸びてきた両手が僕の首にかかりそうになる。
冷気が指先から漂ってくる。
僕は逃げることも、抵抗もしなかった。彼女の行いのすべてを受け入れるつもりでいた。
それなのに。
「ゾ、ゾンビ~」
その台詞に僕は衝動的に反応していた。
「せ、先輩はゾンビじゃなくて幽霊じゃないですか!」
もっとも二回目だからだろうか。人の数は確かに多いけれども戸惑うほどではなかった。 夏彦も同様だったようで、長い列を前にしてもあくびをしていた。
一方、一人だけ浮足立っている人がいた。夏鈴さんだ。
「な、なんスか? ここの人たち、みんな大灯の花火に行くつもりッスか? こんな田舎町のどこにこんなに人が潜んでいたっていうんスか。見ろ。まるで人がゴミのよう……」
「そんなこと言ったらお前だってゴミの一つだろうが」
夏彦が夏鈴さんの頭を叩いた。叩き慣れているのか妙に軽快な音が鳴った。
その途端、夏鈴さんが鳥獣の類のように吠えた。
「せっかく整えた髪を、叩くな! 崩すな! バカ兄貴!」
「ちょ、お前。急にマジギレするなよ。ショートなんだから整えようがないじゃないか」
「ショートだって浴衣に合わせてセットしてきたんだっての!」
「……そ、そうなのか」
そうなのか、と夏彦の隣で僕も心の中で呟いた。
「だいたいあたしがゴミだとしたら兄貴は何? 燃えるゴミ? 生ゴミ? 粗大ゴミ? リサイクルは……できないゴミだね」
「お、おまえ。せっかく花火に連れてってやるってのにえらい剣幕だな。俺がいなかったらこいつは今日ここに来ていないんだぜ?」
そう言って夏彦は僕のことを指さして言った。
ちょっと誇張が入っているけれども僕は黙っていた。
夏彦から誘われたみたいになっているけれども、頼んだのは僕の方からだ。
それに花火まで見に行くかどうかは実はまだ決めていなかった。
僕の目的は大灯駅前だった。
僕はずっと先輩の死を受け入れたつもりになっていた。
でも実際には目を背けていただけだった。
だから今日、そこに足を運んで自分の気持ちと向き合わなければならないと思ったのだ。
ちなみに夏彦には既にそれを伝えておいた。我ながらこじらせているとは思ったけれど、彼は許諾してくれた。
気持ちを切り替えらることができたらたらそのまま花火を見に来ればいい、とも言ってくれた。
ただ、夏鈴さんには何も伝えていない。だから僕が一緒に花火を見にいくものと思い込んでいる。騙しているようで少し気は引けるが、気を遣わせたくないから仕方がない。
夏鈴さんは通常運転で夏彦と口論していた。
「それについては感謝しています。でも兄貴がいない方がもっとよかったです。もっと空気を読めるようになってください!」
「あのな、俺がいなかったら用意してある特等席に行けないんだぞ? そもそも俺の機嫌を損ねたらお前だけ入れないようにすることだって可能なんだからな。わかったら少しは態度を改めろ」
「はいはい、感謝感謝。兄貴様の行いのすべてにマジ感謝」
いつものように長くなりそうだったので、僕は先に切符購入の列に並んでおいた。去年学んだように、こちらの進みはかなり早い。あっという間に三人分の往復券を購入し、僕は二人のところに戻ってきた。
「は? もう切符を買ってきたのか? 早いな。っていうか押し付けたみたいで悪かった」
「兄貴がくだらない話をしつこく続けたせいじゃん!」
「いいから奏汰にさっさと切符代を払え」
「いや、別に一人が並べば済むことだったし。気にしなくていいよ」
僕らは切符とお金のやりとりを済ませると改札の列に並んだ。
夏鈴さんは「もう喧嘩はしないッス」と宣言したが、改札を抜けて電車に乗り込むと「近い」「寄るな」「臭い」などと、事ある毎に夏彦に八つ当たりを始めた。
発車の際にはよろけて夏彦のみぞおちに肘をめり込ませたりもしていた。
もはやどこから偶然でどこまで狙っているのかわからなかった。
夏彦にとっては災難以外の何物でもないようだったけど、少なくとも僕にとっては移動時間を退屈せずに過ごすことができた。
やっぱりこの二人についてきてよかった、と僕は思った。
もっともそんな気分もH駅辺りまでだった。
大灯駅まで工程の半分を過ぎた辺りから僕は徐々に息苦しさを感じ始めていた。
「……なんだかちょっと空気がこもってない?」
訊ねたけれども二人ともピンピンしている。
気分は駅を通過するごとに悪化していっているようだった。
「センパイ? もしかして具合悪いッスか?」
夏鈴さんに訊ねられたものの、心配させたくなかったので反射的に僕は嘘をついた。
「いや、実は眠いだけなんだ。昨日、遅くまで起きて勉強していたものだから」
「そッスか。夏休みだからって不摂生は体によくないッスよ。健康な肉体は健全な精神に宿るって言うッスからね」
「逆だけどね」
笑って誤魔化しておいたけれど、夏彦にはどうやら勘づかれてしまったようだ。
「まあ、もうちょっとで着くはずだからな」
軽く肩を軽く叩かれた。
「次は大灯駅。大灯駅。降り口は――」
電車は減速しながら大灯駅のホームに入っていった。
来た。来てしまった。
具合のすぐれなさははっきりとした動悸に変わりつつあった。
車両にブレーキがかかり、ガクンと揺れて停車する。
「はぐれるなよ」
出入り口付近に立っていたため、僕らはドアが開くなり下車しなければならなかった。
まず夏彦が降り、その後に夏鈴さん、そして最後に僕が続いた。
ホームに降り立つなり横から人の波に飲まれそうになったが、どうにか二人から離れないようについていく。経験済みのこととはいえ、こればかりは息が止まりそうになるほどの混雑ぶりだった。
出口は去年と同じようにホームの柵を一部分だけ外して設けられていた。泳ぐようにしてそこを抜けると、人の波による視界が開けて大灯駅前に出た。
「うおおおおお。これはまるで運動会と文化祭の同時開催みたいッスね!」
先に駅前を一望していた夏鈴さんが驚嘆していた。
ホームまではとにかく人の多さに目が回るのだけど、駅前に出ると観光や待ち合わせの人などを一望できるので、一気にお祭りっぽさを感じ取れるのだ。
その気持ちはよくわかるし、一年前の僕もたぶん似たような心境だったはずだ。
でも一年前と今では気持ちが違う。僕は素直な気持ちでその町並みを見ることはできなかった。
「おい、夏鈴。お前、お花を摘みにいってこい」
いきなり夏彦が指示を出した。それはトイレに行くことの隠語なのだけど、まさかストレートに命令するとは思っていなかった。
「人前でなに言い出すんだ、このバカ兄貴!」
当然、夏鈴さんは激怒した。流石にこれはバカ扱いされても仕方がない。
「いや、俺は真面目に言ってるんだ。ここには駅のトイレと仮設トイレがあるが、ここから先は会場までトイレはほとんどない。途中で困らないように今のうちに済ませておいた方が賢明だ。去年の経験者が言うんだから間違いない」
「だからってそんな言い方する奴いるか。普通に言え、この兄貴・オブ・アホ!」
夏鈴さんは夏彦のみぞおちにパンチを繰り出し、怒り肩で駅舎の脇に並んだ仮設トイレへ向かっていった。
「奏汰は大丈夫か?」
「いや、お前の方こそ大丈夫なのかよ?」
夏彦はみぞおちを押さえて体をくの字に曲げていた。パンチがかなり深く入ったようだった。
「俺は大丈夫……じゃないけど、まあ、いつものことだ。それよりお前だよ」
「だから僕はトイレは大丈夫なんだけど」
「いや、別に俺が心配してるのはトイレじゃなくて、だな……」
「え? あ、ああ。ごめん。そういうことね」
僕は夏彦が何を心配していたのか理解した。というか、そもそもそのために僕は今日、彼に無理を言って同行させてもらったのだ。
僕は改めて大灯駅前をぐるりと見渡した。
町並みを正確に覚えているわけではないけれど、一年前に来た時とあまり変わっていないように見えた。
駅の出入口にある火薬玉のモニュメント。ロータリーの時計台。そして商店街の……。
気がついたら僕の足はそちらに向けて歩き出していた。
夏彦はついてこなかった。一度振り返ると彼は黙って頷いてくれた。
僕は人々の間をすり抜けながら前へと進んだ。
車道を挟んだ先の商店街のアーチの根本まで僕はやってきた。
一年前、先輩が事故に遭った現場だ。
当時は混乱していて、どうして先輩が駅舎から離れたこんなところにいたのかよくわからなかった。
でも今、この場に立ってみてすべてが理解できた。
ここからなら駅前をよく見通すことができた。夏彦が立っているのも見えたし、駅舎からの人の出入りも目の当たりにできた。そして向こうからはアーチが目印になってこちらの位置を教えやすい。
たぶん先輩は人多い中、僕のために合流しやすい場所を探してここに来たのだろう。
そして不運にもここで交通事故に巻き込まれて……。
僕はその時の光景を現実の風景に重ねそうになった。
でもそれは去年の出来事であり、今年ではない。
噂になっていた那由多先輩の幽霊も出てこない。
僕は目を瞑って十秒を数えた。そして目を開いた。
ここは2019年。【新元号】最初の夏だ。那由多先輩はもういない。
僕は踵を返して駅舎の方へと戻った。
夏彦は同じ場所から僕が引き換えしてくるのをずっと見守ってくれていた。
夏鈴さんはまだ戻ってきていないようだった。
「もういいのか?」
「たぶん、大丈夫」
「先輩の幽霊はいたか?」
僕は頭を左右に振った。それだけでは認めたことにならない気がして、ちゃんと口に出して言うことにした。
「いなかったよ」
「……そうか」
なぜか僕よりも夏彦の方が神妙な顔をしていたものだから、僕は笑いながら言った。
「夏彦の言った通りだったよ。ネットの噂なんてしょせんこんなものだね。おかげで目が覚めたよ。今日はありがとう。たぶん一人ではここまで来れなかったと思う」
明るく言ったのが功を奏したのか、夏彦は安堵したように口元を緩めた。
「それならよかったよ。安心したよ」
「おかげさまで」
「ところでなんだけど。お前、今日これからどうするんだ?」
「これから?」
「もう帰るのか? それともまだここにいるのか?」
「いやあ、正直なところよく考えてなかったんだ」
だったら、と夏彦は言った。
「俺たちと一緒に花火を見に来いよ。せっかくここまで遠出したんだから。それに今年は本当にいい場所を取ったんだ」
「いや、でも悪いよ。夏鈴さんのために確保した場所なんだろ?」
「ここまで来たら一人も二人も変わらないって。それに今日のやり取り見ててわかっただろ? 妹と二人にされた方が俺の負担が増すんだ。むしろ俺を助けると思ってついてきてくれよ」
たぶん夏彦は僕が負い目を持たないようにするために敢えてそう言っているのだろう。
無駄にイケメンだなこいつ、と思いながら僕は頷いた。
「わかった。ついて行くよ。せっかくの【新元号】最初の夏だしね」
「よし! そうと決まれば俺はトイレだ。お前は?」
ここから移動すると途中にトイレはない、という夏彦の言葉を思い出した。でも当面のところ必要には迫られない気がした。
「僕はいいよ。ここで待ってる」
「わかった。四十秒で済ませてくるからな」
「いや、別にそこまで急ぐことはないんだけど。ゴリアテに向かうわけでもないんだから」
夏彦は小走りで仮設トイレの方へ向かっていった。
僕は一人でその場に取り残されたけれど、そろそろ夏鈴さんも戻ってくるはずだ。
その間、僕はなんとはなしに駅前の人々を眺めた。
最初は一塊の群衆にしか思えていなかったけれど、じっと見ているうちに喜んでいる人、怒っている人、楽しそうな人など、色んな人がいることが見分けられるようになってきた。
花火という共通の目的がありながら、それぞれ異なる事情や感情を抱いている人が同じ場所に集まっている。これは本当はとても不思議なことなのでは、と思った。
(……後輩くん)
その時、聞き覚えのある声が僕の耳をかすめた。
僕は思わず後ろを振り返った。
スマホをいじっていた知らない人が驚いた顔で僕を見た。
あまりにも急に振り返ったせいかもしれない。
「すいません」
僕は頭を下げて前へ向き直った。
たぶん周りの色んな話し声が混ざり合って、たまたまそのように聞こえてしまったのだろう。
それにしてもたった今、過去から気持ちを切り替えたばかりだというのに。
僕は耳に残った声を追い出すように頭を振った。
夏彦と夏鈴さんはまだ戻ってこないのだろうか?
二人が向かったトイレの方を見たが、それらしき人はやってこない。
僕はスマホを取り出して夏彦から連絡が来ていないか確認した。
あいかわらずスマホの液晶はヒビだらけだけど、メッセージのやりとりくらいなら今のところ問題はない。
後輩くん。
またしてもその声が聞こえた。さっきよりもはっきりしていたが、出どころがわからなかった。
僕は必死に周りを見回した。
見慣れてきたとはいえものすごい人の数だ。
そんな中、人々の間を音もなくすり抜けていく人影が見えた。
収まっていたはずの動悸がぶり返し、急に息苦しくなった。
一瞬しか見えなかったが、その後姿には見覚えがあった。
「…………先輩?」
いや、そんなはずはない。
僕は固く目をつむって頭を左右に振った。
先輩は死んだ。幽霊もいない。だからもう見つけようがないのだ。
僕は深呼吸して胸の苦しさを落ち着けさせた。
それからゆっくりと目を開いた。
さっき見えた辺りにはそれらしき姿は見えなかった。
やっぱりただの見間違いだったのだ。
幻聴と幻覚をセットで体験するなんて、僕も相当どうかしているな。
そう思った矢先、ロータリーから少し離れたところで再び動く人影が見えた。今度は服装をしっかり目で捉えることができた。浴衣姿だった。
さらにその姿は車道を渡り、商店街のアーチの下へ流れるように移動していった。そこはついさっき僕が見に行った那由多先輩の事故現場だった。
感情を抑えることができず、僕は弾かれたように走り出していた。
気持ちばかりが先走り、体がついてこない。そのせいで周りの人とやたらとぶつかってしまった。
(夏彦と夏鈴さんが戻ってきたらどうするんだ?)
駅前から離れたことを自問する。
(確認したらすぐに戻ってくればいい。どうせ誰かや何かの見間違いなのだろうから)
頭の中で別の自分が自答した。
僕は商店街のアーチにたどり着いた。
見覚えのある浴衣姿の女子は、僕の視線を遮るように人の裏に回った。そして商店街の通りを奥へと移ろいでいった。
通行人が多いせいで早く走れなかったけれど、距離は徐々に縮まりつつあった。
髪を結い上げた後ろ姿はいよいよ近づき、あと少しで肩に手が届きそうになった。
突如、彼女の姿が霧散したようにかき消えた。
僕は呆然となって立ち尽くしたが、狭い路地が横に伸びていることに気がついた。
まさかここに? でも、どうやって?
半信半疑だったけれども僕はその路地に入った。ここまで来て確かめずに引き返すことなんてできない。
路地は奥まで続いていて、狭く、薄暗かった。
ふとその先に佇む人影を発見した。
それは一度見失ったと思っていた浴衣姿の女子だった。
建物の影が顔に落ちていて、正面を向いているのにはっきりと見えなかった。
僕は一歩、足を踏み出した。
今度はその場から動かず、もう逃げる素振りはなかった。
僕は二歩、三歩と歩みを加えて相手との距離を埋めていった。
あと数歩、というところで僕は立ち止まり、彼女へ問いかけた。
「……那由多、先輩?」
うつむき気味で見えづらかったけれど、もはや見間違いようがなかった。
それは那由多宇宙だった。図書委員の、僕の、先輩だった。
「先輩。那由多先輩!」
僕は馬鹿みたいに彼女を繰り返し呼んだ。
返事はなかった。
彼女の目には生気がなく、虚ろな瞳で僕を眺めているだけだった。
僕は霊感はないし、夏彦みたいにその手の知識があるわけではない。
それでも目の前の彼女が忌まわしいものであることはわかった。
簡潔に印象を述べるのなら、悪霊。人に仇なす存在にしか見えなかった。
でも僕は先輩に出会えてどうしようもなく嬉しかった。
どんな姿であれ、例え夢であったとしても、僕は彼女と再会したかった。
僕は先輩との距離をもっと詰めた。
先輩は垂れていた腕を上げてこちらへと伸ばしてきた。
それは僕を認識したからというよりは、人の動きに反応しただけのように見えた。
幽霊に触られると呪われたりするのだろうか?
そんなことが頭をよぎったが、だからといって躊躇することは何もない。
普通の人にとっては忌むべきことかもしれないが、僕にしてみれば願ってもいないことだ。
むしろ呪ってほしい。先輩に呪われるのなら本望だ。
「…………ゾ……」
先輩が喉の奥から人ならざる声を出した。
伸びてきた両手が僕の首にかかりそうになる。
冷気が指先から漂ってくる。
僕は逃げることも、抵抗もしなかった。彼女の行いのすべてを受け入れるつもりでいた。
それなのに。
「ゾ、ゾンビ~」
その台詞に僕は衝動的に反応していた。
「せ、先輩はゾンビじゃなくて幽霊じゃないですか!」