15 榎本兄妹

文字数 3,277文字

 閉校時刻になったので僕と夏鈴さんは図書室を施錠し、鍵を職員室へと戻しに行こうとした。その歳、正面から廊下を歩いてきた夏彦と鉢合わせた。彼とは三年生に進級した際に別のクラスになったのだが、顔を合わせると未だに話をする間柄だ。
「げー!」
 夏鈴さんが口に虫を入れられたかのような声を出した。
 夏彦は肩を怒らせて言った。
「おまえ、それが血のつながった兄と顔を合わせた反応か? 失礼にもほどがあるだろ!」
「兄貴だからでしょ。他の人にはやらないよ。失礼でしょ!」
「誰であれ外でそんな態度を取るな。いや、家の中でもやるな!」
 二人は廊下で口論を始めた。もっともこの兄妹にとってこれは珍しいことではない。
 僕は二人を置いて職員室に鍵を返しにいった。
 戻ってくると口論は収まっていたけれど、お互いに忌々しそうに背を向けあっていた。
「夏鈴がいたのはさておき、奏汰がまだ学校に残ってたのはちょうどよかったぜ。お前、今日はバスだったよな。一緒に帰ろうぜ」
「あたしもバスで帰るつもりだったんですが」
 横から夏鈴さんが割って入ってきた。
「嘘つくな。朝、自転車で家を出たろうが。自転車で来たら責任を持って自転車で帰れ」
「なに、その拾ってきたペットみたいな言い方。っていうか兄貴、オカ研なんて不健康な部活ばっかりで運動不足でしょ? あたしの自転車を貸してあげるから乗って帰りなよ」
「小さいだろうが。それに無理やり押し付けようとするな」
「……悪いけど先に行ってるよ」
 兄妹喧嘩が再燃しそうだったので、僕は昇降口への階段に足をかけた。
「待てよ、奏汰」
「つれないッスよ、センパイ!」
 夏彦と夏鈴さんは昇降口まで僕を追ってきた。
 しかし夏鈴さんは流石に自転車を置いていくわけにはいなかったようで(おそらく明日の登校時に困るのだろう)、校舎を出たところで夏彦に恨み節を投げつけながら駐輪場に向かっていった。
 僕と夏彦が学校の正門を抜けると、ちょうどよく帰りのバスが停車したところだった。
 中の座席は半分も埋まっていなかったので、僕と夏彦は前後に並んで座った。
 バスが走り出したところで後ろから夏彦が声をかけてきた。
「悪かったな。うちの妹、うるさいだろ。勉強の邪魔になったりしてないか?」
「うるさくない、と言ったら嘘になるね。特に図書室という場所は彼女にとってはちょっと狭すぎるのかもしれない」
「悪い。誰に似たのかデリカシーがないんだ」
 お前じゃないのか、と言いたかったけれど、夏彦が真顔だったので黙っていた。一応、友人に対して僕はデリカシーを持っているつもりだ。
「でも、迷惑はしてないよ。正直、助かってる」
「本当か? なんか嘘臭いんだが」
「本当に助かってるんだよ。過度に」
「かど?」
「非常に、ってことだよ」
 図書委員会は緩い仕事だと思われて、元からサボる人間が多かった。その上、去年は未返却本事件のせいで士気が余計に下がっていた。僕が図書委員長に就任しても変わらず、人の来ないカウンター業務を僕が埋めるという日々が頻繁に起きていたのだった。
 そんな時、春に入ってきたのが夏彦の妹、夏鈴さんだった。彼女は本には詳しくなかったにも関わらず、兄の友人である僕に同情してくれたのか、図書委員に入って僕を頻繁に手伝ってくれている。おかげで僕は今日のように勉強に専念することができる日が多くなったのだった。
「そういえば夏彦。僕に何か用事があったんじゃないか?」
 僕は廊下で彼が「ちょうどよかった」と言ったのを思い出して訊ねた。
「ああ。それなんだけど、期末考査の出題範囲になってる分のノートを貸してくれないか?」
 今日受けさせられたテストは全国模試で、大学受験を想定した出題内容になっていた。対して夏彦が頼んできたのは二週間後に控えている期末考査の方だった。
「一式?」
「可能なら一式だとありがたい。無理なら英語と数学」
「いいよ」
 僕は二つ返事で了承した。
「英語と数学だけってこと?」
「いや、一式。その方が助かるんだろ?」
「え、マジで? それだとお前の勉強に支障が出ないか? コピー取った方がいいってことか?」
「大丈夫だよ。期末考査が終わるまで持っててもらっても」
「いや、ダメだろ。だってお前、今日も図書室で勉強してたんだろ?」
「勉強はしていたけど、期末考査の範囲はあらかた済ませてしまったから。今やってるのは次の全国模試対策だよ」
「……そ、そうか。凄いな。じゃあ、ありがたく一式借りるよ」
「うん。明日、耳を揃えて持ってくるから」
「ありがとう。恩に着るぜ。それにしてもお前、めちゃくちゃ勉強するようになったよな。一年前、家で一緒にヒーヒー言いながら勉強会やってたのが嘘みたいだぜ」
「勉強会、って言いながらまともに勉強したのは最初の三十分だったけどね」
「一時間くらいはやったんじゃなかったか?」
「記憶を改ざんしてない? あ、そうだ。今年もやる?」
「いや、いいよ。俺はお前から教えてもらえるけど、俺がお前に教えられることなんてないんだから」
「そんなことはないよ。まだまだ身についていない知識の方が多いんだ。期末考査は出るところがわかってるけど、全国模試対策はまだまだだし」
「倫理で習った無知の知じゃないか。俺なんて何がわかっていないのかすら、わかっていないんだぜ。無知の無知だ。ああ、それに俺の家だと夏鈴がうるさいからやっぱりダメだな。あいつ、お前を見つけると余計に騒がしくなるから」
「そう言えば夏鈴さんと初めて顔を合わせたのも、去年の勉強会の時だったね」
「部屋にいないフリをしたのに、勝手に入って来たんだったな、あいつ」
「そういえば今年は夏休みの計画は立ててないの?」
 そう訊ねた途端、夏彦が固まった。 
「……………………」
「夏彦?」
「あ、ああ。悪い。ちょっと考え事をしてた」
「夏休みをどう過ごすかってことを?」
「いや、今年はノープランだな」
「あれ? 夏彦ならてっきり高校生最後の夏を遊び尽くす、とか言うのかと思ってた」
「そうしたいのはやまやまだけど、去年、ちょっと痛い目に遭ったからな……」
 詳しくは語ってくれないけれど、夏彦は去年の夏休み、SNSで知り合った女子にアプローチしようとして盛大に失敗したらしい。それのせいか最近はあまりガツガツしたことを言わなくなった。
「それに今年は普通に勉強しないとは思ってるんだよ。特に俺のように頭の出来が悪い奴は、これから人一倍努力しないといけないわけだしな。ノースタディ・ノーライフだ」
「あ、なんだ。ちゃんと今後のことを考えてたんだ。夏鈴さんが心配してたよ。兄貴は全然勉強しないって」
「……あの愚妹め。一応名誉のために言っておくけど、俺だってそれなりに考えてはいるんだよ。今日の全国模試で志望大学を書く欄があっただろ? あれってあらかじめ下調べして書いてるんだよ」
「あれって合格率を出してくれるらしいよね。どこを書いたわけ? 差し支えなければだけど」
 夏彦は県内の公立大学と私立大学に加え、県外の私立大学の名前を挙げた。中堅どころとしてはよく名前を聞くところだった。
「そういうお前は?」
 僕は東京の大学の名前を告げた。案の定、夏彦は首を傾げた。
「どういう大学なんだ、それ?」
「外国語を学べる大学の中では国内トップクラスだったはず」
「どうしてその大学を選ぶことにしたんだ? お前、外国が好きなんだっけ?」
 夏彦の質問に答えようとしたところ、僕が降りるバス停が迫った。
 僕は慌てて校舎ボタンを押して席を立った。
「じゃあ、また明日。ノートは忘れないように持ってくるよ」
 僕はバス停に降り立ち、夏彦が乗ったバスを見送った。
 一人になった途端、夏彦の質問がまだ頭の中に居座っていることに気がついた。
 そういえば僕はどうしてあの大学を選んだのか?
 どれだけ考えても発端となる理由を思い出すことができなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

湊 奏汰(みなと そうた)


主人公。高校2年生。図書委員。

那由多 宇宙(なゆた そら)


高校3年生。図書委員の先輩。

榎本 夏彦(えのもと なつひこ)


高校2年生。湊奏汰のクラスメイト。オカルト研究会。

榎本 夏鈴(えのもと かりん)


高校1年生。湊奏汰の後輩。図書委員。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み